書籍紹介棚

これまで読んで、気に入って、「亭主消息」で感想を書いてきた本を、
まとめて(ついでに修正を施して)紹介するところです。

2002/07/14 中村哲『医は国境を越えて』
丸山直樹『ドクター・サーブ』
_ 2002/11/11 春江一也『プラハの春』
2004/04/12 小島剛一『トルコのもう一つの顔』 2004/08/07 岩本悠『流学日記』
2004/10/25 岩明均『ヒストリエ』 2004/11/16 安部謹也『日本人の歴史意識』
井沢元彦『「言霊の国」解体新書』
2004/12/01 城江良和訳・ポリュビオス『歴史』 2005/11/07 下川祐治
『香田証生さんはなぜ殺されたのか』
2006/02/24 北野幸伯
『ボロボロになった覇権国家(アメリカ)』
2007/02/08 奈良本英佑『パレスチナの歴史』
2007/02/14 池田秀一著
『シャアへの鎮魂歌 わが青春の赤い彗星』
2007/03/06 内田樹著『私家版 ユダヤ文化論』
2007/07/30 高木徹著
『大仏破壊―ビンラディン、9・11へのプレリュード』
2007/08/12 森谷公俊著
『アレクサンドロスの征服と神話』
2009/07/23 安彦良和
『アレクサンドロス―世界帝国への夢』完全版
2009/08/09 大阪大学中国文学研究室(編)
『中国文学のチチェローネ―中国古典歌曲の世界』



   


2009年8月9/13日
(大阪大学中国文学研究室編『中国文学のチチェローネ―中国古典歌曲の世界』)


「チチェローネ」とは、イタリア語で「案内」を意味する言葉である。カタカナといえば英語かフランス語が垂れ流されている現状にうんざりしているわたくしにとって、イタリア語というのは新鮮で心地よい。 ・・・もっとも、イタリア北部ヴィチェンツァ出身のわたくしの親友が本書のタイトルを見たら、「何で日本の本のタイトルにイタリア語が入っているのよ?」と大笑いされそうな悪寒もするのだが、まあそれは良いでしょう。   

さて、「チチェローネ」の意味を教えてくれたのは、わたくしに本書を推薦した某女史である(都合により伏せ字)。 そう教えられて、ふと思い立ってイタリア語の辞書を繰ってみたところ、出て来た綴りは"cicerone"となっていた。発音としては「ツィツェローネ」が近いと思うのだが、それよりも私の目をひいたのは、その語のすぐ上にあった、頭文字が大文字の"Cicerone"という固有名詞である。 これは、ローマ共和政末期の政治家・雄弁家・文筆家であり、かのカエサルの友人にして敵手としても高名なマルクス・トゥリウス・キケロのイタリア語形である。一般名詞の"cicerone"は、もともと「キケロのように弁が立つ者」を意味し、そこから転じて「案内(者)」と言う意味に変容したとのことである。 中国文学の本のタイトルで、西洋言語に関する寄り道を楽しむことができるなど、なかなか想定外である。  

と、余談はさておき。

本書は、詞をメインに扱っている。詞といえば俗文学と称されて研究者も少ないとのことであるが、唐詩・元曲・宋詩などと並び称される、主要な文学なのだそうである。 そんなわけで研究書も少ないので、その研究の手引き書を!というのが本書の主旨で、阪大の中国文学研究室を本拠とする壮年・若手の研究者たちの論文集の体裁を取っている。文体としては体言止めを多用し、とてもテンポが良く、リズムに乗って読むことができ、   

「詩歌はそもそもの発生から音楽と密接な関係を持つ」

という本書の開扉の章(7頁)での面上喝破を読者に実感させて妙である。また、唐詩を初めとする詩は、わたくしのような歴史学徒にも馴染みが深い読み下しにしてあるが、詞に関しては読み下さず、直接的に現代日本語の口語に訳し下ろしている。 このスタイルが中国文学に関する専論を書く際の定型なのか、浅学にして専門外の身には判断し難いところであるが、詞の「大衆文学」としての側面を強く意識していることは、素人にも何となく解る。

なお、まったく個人的な感想であるが、第Z章で用いられる「テーゼ」「パトス」のふたつの言葉に、思わず反応してしまった。見逃せば何ということもないのだが、この言葉に反応し、思わず脳内で「残酷な天使のテーゼ」を再生してしまうあたり、わたくしは紛れもなく、当該箇所の筆者と同世代の人間である。 ・・・エヴァンゲリオンは、どうも好きではないのですが(笑)・・・えー、この感想、間違っていたら即座に謝罪の上訂正しますので、関係者の方はご連絡下さい。

2009年7月23日
(安彦良和『アレクサンドロス―世界帝国への夢』完全版)


非常に高いレヴェルでまとまっている作品、と申し上げて宜しいと思います。その判断の基準ですが、

@まず、ヘファイスティオンの評価について。
大王の側近の中でも筆頭格として知られるヘファイスティオンを「凡庸である」と評価したのは、日本人の手になる大王のモノグラフィーとしては最初期のものである、大牟田章氏の『アレクサンドロス大王―「世界」をめざした巨大な情念』ですが、この著作を軸としているということが、本書のヘファイスティオン評価から伺うことが出来ました。

A続いて、ピリッポス二世殺害事件について。
この点も、監修をされている森谷公俊先生よりも大牟田章氏の影響を強く印象づけるものでした。森谷先生は「下手人の個人的怨恨」としていますが、大牟田氏はその背景として、ピリッポス二世によるマケドニアの急速な統合・拡大に伴う軋轢、その一派の領袖たるオリュンピアスが王暗殺の黒幕だった可能性があることを示唆されています。 本書ではオリュンピアスとアレクサンドロスが暗殺者の背後で糸を引いていたことを暗示していますから、大牟田氏の立場に近いことは明白ですね。   

Bそして、最後、リュシマコスとセレウコスが対決するコリュペディオンの会戦。   
「どっちが生き残って、あの人のことを語り継ぐか、だ!」
というリュシマコスの獅子吼に、思わず唸ってしまいました。大王を研究する専門家たちを、何よりも悩ませる問題を見事に要約してのけた一言なのです。 何しろ、大王については同時代史料が無く、現在に伝わる伝記の殆どはヘレニズム時代、プトレマイオス朝の都アレクサンドリアで出されたものを主たる材料としています。そのため、史料に横たわる偏向を読み解くという作業を常に意識しなければならないのですが、そういった問題と格闘する者の一人として、この面倒くさい問題を、リュシマコスの一言に鮮やかに凝縮してのけた安彦良和大神のセンスには、「流石!」と感嘆と称賛を禁じ得ません。   

以上の諸点はほんの一例ですが、こういった点からみても、集めうる最大限の材料に当たって書かれている、と申し上げて宜しいかと思います。
いま一度だけ、称賛させて下さい。

さすがは安彦大神、素晴らしいの一言です。


2007年8月12日
(森谷公俊著『アレクサンドロスの征服と神話』)
  

本書の特色は、以下に挙げる二点になるかと思う。   

@アレクサンドロス大王の本質へのアプローチを試みているという点ではこれまでの著者のスタンスと変わらないが、現在に至るまでに大王がどの様に語られてきたか、そのイメージがどの様に変化してきたか、という事を丁寧に考察している事。   
A地中海沿岸における『ヘレニズム』を確固たるモノにしたのがローマであるというのは定説だが、著者は更に一歩進んで、ガンダーラなどに代表される東方のヘレニズムもローマの遺産であると結論づけている点。 ・・・まあこの点はさらなる検討を要するところであり、本書の弱点ともなりかねない「諸刃の剣」であるのだが・・・   

以上の二点であろう。非常に面白い本であり、専門家・専門以外の人・初学者いずれもが満足できること、疑いない。
自信を持って一読をお勧めする。値段も、この本の質の高さを考えるならば、破額の安さと申しあげてよいだろう。
その他、内容の詳細な検討につきましては、雑誌『古代文化』第59巻第1号(2007年8月発行)所収の、私の書いた書評をご覧下さい。 各大学図書館や、公立の図書館に入っていると思いますので。


2007年7月30日
(高木徹著『大仏破壊―ビンラディン、9・11へのプレリュード』)


本書は、アフガニスタンにおけるタリバン登場からビンラディンの介入によるタリバンの変質、そしてバーミヤーンの大仏破壊から9.11に至る経過を、この問題に関わったアフガン内外の外交官や関係者の豊富な証言を積み重ねて著された本である。   
読んでいてまず思ったのは、   
「さすがはNHK、未だ、こんな実力があるスタッフを抱えていたんだな」   
という事。実際、NHKの作る番組は、中東関係でも、逝去されたヨハネ・パウロ二世を取り上げた番組でも極めて良質な作品が多い。イスラエルが絡むと「?」といいたくなる番組も多いが。それで、何で中国関係の番組を作ると全て全然駄目になっちゃうんだろう・・・   

それはさておき。   

著者は、NHKのプロデューサーである。だから、「ビンラディンのメディア戦略」について、TVプロデューサーの視点から解釈と解説がなされていて、通常の物書きの各レポートとは違った角度からの見方を提供するモノであり、非常に興味深い。   
そして、本書に説得力を与えているのは、まずは登場する関係者の証言の質と量。著者が(おそらくは番組製作の過程で出会ったのだろう)インタヴューしている関係者は、旧タリバン関係者にせよ、あるいは西側の外交官・文化人であろうと、いずれも理知的で誠実である。 偏見から完全に自由ではないにせよ、その偏見に囚われるほど頑迷な人はいない。なにより、旧タリバン関係者からの証言は極めて貴重である。そのいずれもが理知的で誠実な人物であり、   
「タリバンは一枚岩の狂信者集団」   
と思わせるかのような新聞報道にもの申すのに充分である。   
そして、もうひとつ、本書に説得力を与えているのは、著者の誠実さである。良質な証言とそれを支える当時の情勢紹介によって、当時のアフガニスタンを取りまく情勢が非常によく解る。決して事実の羅列ではなく、本の節々には   
「何でこんな事になってしまったのか」   
という、歯ぎしりの音が聞こえてくるようである。それは、無論の事、本書で取り上げている関係者の証言全てに共通する。そして、その結論は以下の二点。   

「アフガニスタンに対して、国際社会はあまりにも無関心でありすぎたし、また、今もってなお、この地は見捨てられている」   
「この『無関心』という空隙に付け込んだビンラディンによって、タリバンが変質した。もっと国際社会がアフガンに関心を持っていれば、バーミヤーンは崩れ落ちずに済んだのだ」   

という事。成る程、と納得させられる。やや平凡な結論かもしれないが、それでも本書の持つ圧倒的な重みは変わらない。   

さて、以上のように、まず良書と申しあげて良いが、気になった点が2つ。   
まず一つめ。本書を読んでいる時から違和感を感じたのだが、何故か参考文献の中にペシャワール会の中村哲医師の著作や証言が一切取り上げられていない。対ソ戦の頃からアフガン・パキスタン国境地帯にいた氏の証言がないというのは、どうなのだろう。   
二つめの疑問点。「自爆テロ」という術語は頂けない。これほど海外での分厚い実績を持つ人であるなら、正しくは「自爆攻撃」という言葉を用いるのが正しい事は承知しているはず。 ウィキペディアでは、「日本では海外と用法が若干異なる」という理屈をつけているが、やはり間違っているモノは間違っているのであって、正確に「自爆攻撃」という言葉を用いるべきではなかったか。   

そんな疑問点も感じたが、当該問題を考える際に基礎的文献の一つとなるべき一冊であるのは間違いない。 とはいっても、やっぱり   
「アフガニスタン?何処ですかそれ」   
とか、   
「イスラームって、やっぱり危険ですよね」   
とか訊いてくる人、うちの研究室でも多いんだろうな・・・
そういった人たちに是非読んで欲しい一冊。でも、上記疑問点のため、残念ながらミクシィでも5つ星は出しませんでした。星4つ。


2007年3月6日
(内田樹著『私家版 ユダヤ文化論』)


本書は、
「できるだけ『わけのわからないこと』を書きたい」
という、およそ新書を書いているとは思えない告白を、著者が堂々としている。
おそらく、

「ユダヤ人以外の見るユダヤ人像」

のみを整理しているのならば、本書は非常にすっきりと分かり易いままで終わったのであろう。だが、著者はそれだけでは終わらない。

「ユダヤ人自身が、自分たちを如何なる目で見ているのか」

という問題にまで、果敢に切り込んでいこうとする。そうする事によって、ユダヤ人からも納得を得る事が出来る『ユダヤ人論』を書こうとしているからである。
著者がそうした切り込み方をなし得るのは、彼がレヴィナスという、優れた知識を持つユダヤ人を師に持っているが故になし得る事であり、またそれを強烈に意識するからこそ、

「自分の立場が公平なものではあり得ない」

と言いきってしまっている。

そのようなわけで、非常に多くの問題提起に富んだ本だが、一読してみて、私にはひとつ、気になる事があった。

著者が、極めて巧妙に、『イスラエル』という問題を避けて通っている事である。

無論、ヨーロッパの知的伝統の中でのユダヤ人問題を論じているわけだから、それはそれで正しいスタンスである。また、ユダヤ人排斥論とイスラエルへの批判は全くの別物だから、やはり著者がイスラエルという問題を論じていないのは、妥当であるのは確かである。
それでも、私としては、著者に訊いてみたくなる。

「この本で書かれている事を踏まえて、『イスラエル』というものを、どのような存在であるとお考えになりますか?」

と。


2007年2月14日
(池田秀一著『シャアへの鎮魂歌 わが青春の赤い彗星』)


ご存知、シャア・アズナブルの池田秀一さんのエッセイ。
あっという間に読了してしまった。
感想を、一言で申します。

もぉ、たまりません!

中二以来、ガンダムフリークを公言している人間です。筆が達者と言うわけではありません。むしろ、訥々とした印象を受けます。でも、そこに、池田さんの実直さと年輪が滲み出ていて、逆に読者はどっぷりと浸ってしまうのですなあ。
特にたまらないのは、セイラさん役の井上瑶さんや、ブライト艦長役の鈴置洋孝さんといった、亡くなってしまった声優さんとの思い出を語る部分。特に鈴置さんとの思い出を語るところは、たまらないなんてものではありません。
「『お前(鈴置)は先に逝くなよ。俺(池田)の方が二ヶ月年上なんだから、順番は守れよ』
(中略)
しかし、このとき交わした約束は、守られることはありませんでした」(上掲書、124頁)

この下りを読んでいたら、泣きそうになりました。そういや、セイラさんの訃報を真っ先に伝えたのは、ブライトさんだったんだよな・・・とか、そんな事を思い出しました。
珠玉の一冊です。とにかく買って読め。


2007年2月8日
(奈良本英佑『パレスチナの歴史』)


本書は、その記述の大部分を19〜20世紀、特に20世紀のパレスチナ情勢に置いている。 このスタンスの取り方から明らかであるが、著者は、パレスチナ情勢は19世紀以前にさかのぼる問題ではないとの立場であり、従ってそれ以前の記述には殆ど意を用いていない。
著者は、アラブを無前提にかばい立てしたりしているわけではない。シリア・エジプト・ヨルダンといった周辺諸国がそれぞれの思惑によってパレスチナを「食い物」にし、それによってパレスチナのアラブ住民が翻弄され痛めつけられた様子を切々と書き連ねている。
イスラエルとパレスチナ・アラブの情勢を同時に描写しつつ、書籍のタイトルを『パレスチナの歴史』としていることで、著者の基本的な立場や思考は明らかであろうから、これについて長々と語る必要はないだろう。彼の基本的なスタンスは正しい。

とりわけ圧巻であるのは、オスロ合意の構図を

「勝者たるイスラエルと、敗者たるアラファート・PLOの間に結ばれた、降伏条約」

と断じている点であろう。当時は「平和への第一歩」とみなされた(不詳、私もそう思った。不明を恥じつつ此処に告白する)この合意が、実は「和平」などからほど遠い、次なる悲劇と破滅への第一歩だったという事を、同時期に合意に反対した穏健派(過激派ではない!)の言葉を拾いつつ、明確に断じている。

と、此処まで読んで、慌てて開いた広河隆一氏の『中東 共存への道』の、オスロ合意の光景を見ながら広河氏が思ったという、こんなフレーズが飛び込んできた。   

「なぜこんなところまで後退しなければならないのか」(154頁)
  
行間からにじみ出る、書き手の怒りと呻り声は、奈良本氏にも広河氏にも共通するものである。   
広河氏の一連の著作と並び、中東問題を研究する者にとっては必読、不可欠の一冊であろう。    
オスロ合意以降の箇所は、私も怒りを持ち、震えながら読んでいたから、指が止まらなかった。周りの人は、何なのかと訝っていたのではないだろうか。    

最後に一言だけ。
行間から血と泥と叫びが溢れだしてくるような、珠玉の名著である。中東が「遠い」と言っている方に、是非とも一読いただきたい。


2006年 2月24日

(北野幸伯著『ボロボロになった覇権国家』)

私が現在講読している無料メールマガジンの数は多いとはいえないが、そのうち一つが北野氏が発行している『ロシア経済ジャーナル』である。それらのメルマガをまとめ、整理したものが本書である。出版は昨年1月であるが、内容については大体の想像が付いていたという事もあり、また行きつけの書店であるアヴァンティブックセンターの店頭に何時まで経っても並ばないという事情もあって、ついつい手を出しそびれていた。
しかし、考えてみれば本書の値段1500円は、せいぜい新書や文庫本の二倍強に過ぎない。それに、著者のメルマガは、私が現在の国際情勢を観察・分析するにあたって、カイロのアモーレまる氏の記事と並んで最も信をおくものである。ならば、本書の値段はむしろ格安といって良いのではないか?そう考え、遂に生協に注文するに至った。注文から3日ほどで入荷し、読了までには一週間とかからなかった。

本書の第一の特徴は、何と言っても著者の
「きれい事を言わない!」
という徹底したスタンス。
「外交にあたっての国のスタンスは『金儲け』」
「日本は、アメリカ『幕府』の『天領』」
といった、日本の生真面目で純真な学生や学者が読んだら引いてしまいそうな台詞がズラズラと並んでいる。
特徴の第二は、著者の経歴と立ち位置。1990年にモスクワのエリート養成専門学校に留学し、卒業後現在に至るまでモスクワに居をおく一方、ロシア・カルムイキヤ自治共和国の大統領顧問を務めているとの事である。従って、ロシア連邦の上層部と関係が深く、また西側諸国(とりわけ、日本の知識人たち)を縛る
「民主・共和制こそ絶対的正義」
という視角から自由である。
なにより、ソビエト連邦の崩壊を眼にしているという点は大きい。私は、こういう経歴を持っている人の意見は大体信用がおける、と考えている。
そのような経歴から、彼の見方はロシア国政を動かすクレムリンの人間たちがどのようなものの見方をしているのか、という点に関する認識が深い。
無論、そのような経歴から、彼がクレムリンの日本向けの代弁者に過ぎない、との見方も可能であろう。しかし、そうであったとしてもさほど問題とする事ではない。というのは、北野氏のメルマガや著書における国際情勢分析は、極めて正確に物事を見通しているからである。
共同通信発の外電などをみていると、プーチンの支持は低下しているような印象を受けるであろう。ところが、北野氏のメルマガを講読している人間にとっては、それが殆ど的はずれの見方である、という事を知っている。というのは、ロシアの人々は、自国を滅茶苦茶にした自由主義経済や民主主義にアレルギーを抱いている、との分析を手にしているからである。つまり、独裁者でも自分たちを豊かにしれくれるのならば、全く問題にならない。何と言っても、今ロシアでは国家を作っている真っ最中なのだ。問題は、政治のやり方が独裁的であるかどうかではない。国を作るのに有効であるのかどうか、国民が豊かになるためにはどのような手法が有効か、それが問題なのである、と北野氏は語る。
個人的な経験でいうと、5年前にロシアのウラジヴォストクに一ヶ月ほど滞在した時に、ロシアでは未だ市場経済が成立していない、と感じた。それに、民主主義の概念が確固たる支持基盤を持つ前に、共産主義国家が成立してしまったのがロシアである。そんな国で、民主主義や市場経済が絶対的な価値を持ち得ないのは当然だろう。
ついでにいえば、独裁的であるはずのプーチンの支持率は圧倒的である。つまり、如何に非難されようと、彼はまさしく民意を得た指導者なのである。その点を、日本の新聞だけを読んでいると忘れそうになる。危険な兆候である。

さて、本書については殆ど穴がないが、同氏のメルマガについては唯一、難点があると考える。それは、中国に関する分析である。どうも、この国の内政に関してだけは、やや分析が甘いのではないかと思う。すなわち、チベットやウイグルなど、中国国内の少数民族が人民政府や漢族に対して抱いている憎悪を、些か軽く見すぎではないかと思うのだ。中国の国策は、少数民族の文化をローラーにかけて叩きつぶしているようなものである。

ただし、繰り返すが、それ以外の点においては(彼のメルマガ自体に関しても)殆ど穴がない。出版から一年というタイムラグは、逆に北野氏の見解とこの一年間の世界情勢の推移を比較する事を私に可能とさせ、その結果、北野氏の見解の正確さを、一層深く確信する事となった。
現在の国際情勢を見るためには、不可欠の一冊という事が出来よう。
1500円は、破額の安価といって良い。もし内容について知りたいと思うのであれば、メルマガ『ロシア経済ジャーナル』のバックナンバーを読まれると良いだろう。その記事を読み、北野氏の分析が信頼に足るものであるかどうかを見定めてから、書店に注文を出せばよいだろう。
それにしても、一年前に出た本なのに、未だ初版・・・再販予定あるのかな。


2005年11月7日

(下川祐治著『香田証生さんはなぜ殺されたのか』)

本を読みながら、幾度となく呟いた。
この本に書いてある事は、私にはよく解る。
しかし、それは私が旅人としての経験を有しているからだろう。
果たして何処まで他の日本人に、−具体的に言えば
「旅を知らない」
人たちに、理解してもらえるのだろうかと。


昨年10月、イラクで香田証生氏という名の日本人青年が拘留された−という一報が入った時、私が真っ先に指摘したのは、
「そのルートは、あり得ない」
という事だった。その時の私の指摘をまとめれば、次の2点になる。

@ルート選択が間違っている
 イラクに限らず、中東関連の情報が豊富に蓄積されていそうな場所として、真っ先に思い浮かぶのはイスタンブールとカイロの二カ所である。この両都市であれば経験豊富な旅人も多く、最新の情報を得る事が出来る。また、この両都市を出発点にすれば、目的地に至るまでに旅行者としての経験を積む事が出来る。
 しかし、香田氏のルートには、この両都市はおろか、アジアの他の国も殆ど入っていない。そこから、次の事が指摘できる。
Aオセアニアに滞在する事の無意味さ
 具体的には、オーストラリアとニュージーランドである。このうちニュージーランドに長く滞在したにもかかわらず、彼の行動からは
「経験を積んだ旅行者」
の臭いを感じる事が出来ない。長期旅行者であれば、イラクに行く事を試みる前に、ほぼ間違いなく上記両都市を経由するはずである。それをしていないという事は、ニュージーランドではバックパッカー、もしくはビンボー旅行者としての経験や嗅覚を培う事がまず不可能、という事である。

上記二点に加えて、私の思考に方向性を与えたのは、事件から一ヶ月後に東京で会った、旅の道連れの1人であるS君の

「彼の行動は、(この年の)4月に捕まった人たちよりも理解できるんですよね」

という指摘だった。
言われてみれば、確かにそうである。旅行者にとって、
「その場所へ行く意味」
を問う事は、全く無意味な事だからである。

かつて、私は「シルクロード横断」をした時、あるいはした後に
「自分の研究に必要だから」
という理由付けをした。それは嘘ではないが、全くの後付けである。
本当は、ただ単にシルクロード横断がしたかっただけである。
「危険と言われているから」「人に迷惑をかけるから」
というのは、旅人を抑制する材料には殆どなり得ない(私の好きな旅人の名言のひとつに、「迷惑かけて有り難う」という快言があります。ね、フクさん)。彼らが立ち止まるのは、沈没している時でなければ、病気になった時か、自分の経験が
「これは危ない」
と告げる時だけである。

だから、イラク国境で足を止める事が出来なかった彼の心理は、
『何でも見てやろう』(小田実の著書のタイトル)
という旅人の根本心理と、それを止める事が出来なかった香田氏の
「危険を嗅ぎ取る嗅覚の欠如」
という、旅人としての未熟さにアクセスする事が出来る人でなければ、迫る事は出来ないだろうと考えていた。
案の定、下川氏の本が出るまで、私を納得させる活字のレポートは出ていないのである。

下川氏の著作は、私が上でダラダラ考察した事を大きく裏切るモノではない。むしろ、私の思考を裏付けてくれるモノである。
丹念に香田氏のコースを追いながら思考を重ねた下川さんの本を読みながら、やはり私は繰り返し冒頭に書いたような事を思わずにはいられなかった。これは、海外に一歩も出た事がない人に理解できるのだろうか、と。
では、下川さんにこの本を書かせた原動力とは一体何だろうか?と考えて、思い当たった。

前(2005年10月21日条)に、
「今の日本では旅が殺されている」
という、岡崎大五氏のコメント(→こちら。是非一読あれ!)を紹介した。おそらくは、下川さんも同じ事を考えているのだろう。かつて、
「些細な賭け」
でロンドンまでバスで乗り継いだ人のレポートをドラマにして2時間ずつ、3回に分けて放映した(『深夜特急』のことですよ、勿論)過去は何処へやら、今の日本では、下川さんや私の愛したスタイルの「旅」を全面的に否定する方向に突っ走っている、様な気がする。
議論の前提−「旅人の心理を知る」という行為を一切欠いた報道が、真に迫る事が出来ないのは当然である。だからこそ、その前提を再提示する為に、愛する旅を彼方へ追い払ってしまわない為に、下川さんはこの本を書いたように思う。
そして、彼は必死で訴える。
「確かな目的もなく、知らない国に分け入っていく。旅はそれでいいはずだ」
と。この叫びを聞きながら、私の耳に飛び込んでくるのは、前川健一さんが『旅行記でめぐる世界』で繰り返した、
「旅に、理由など一切無い。旅が好きです、それだけで良いのだ」
というフレーズである。
しかし前川さんは、その後で呆れたように、
「しかしそれでは、世間が許してくれないらしい」
とぼやいている。その世間が今、旅を殺そうとしている。

そんな「世間」の築いた死体の山が今、なんとバンコクのカオサンに出来つつあるらしい。下川さんの本の末尾に近い辺りで、
「僕のような旅人は『トラディショナルパッカー』と呼ばれている」
とあった。
衝撃であったが、同時に納得もしてしまった。旅人の質が変化した、とは私も前の旅行の時に痛感した事だからである。
それでも、私は旅を続けるのだろう。自分のスタイルを変える事無く。
他人に旅を勧め続けるのだろう、成長することなく。

2004年12月1日
(城江良和訳・ポリュビオス『歴史』)

待ちに待った、と言うべきだろうか。長い事、邦訳の出版が待たれていたポリュビオスの『歴史』が、西洋古典叢書から城江良和氏の訳でようやく出た。ローマ史・ヘレニズム史の第一級一次史料として欠かせぬ文献だが、歴史学に対する無教養と無関心の愚風が吹き荒れるこの嵐の時代に、世に送り出された事を心から祝したい。いや、本当に助かる。

2004年11月16日
(安部謹也『日本人の歴史意識』・井沢元彦『「言霊の国」解体新書』)

今日の史学ゼミはは、安部謹也『日本人の歴史意識−「世間」という視角から−』がテキストであった。この世間というモノへの検討、まるで気が付かない概念だから思いつかなかった。そして、この本には極めて勇気付けられた。西洋古典古代期の中東なんて、やる意味とか言われても結構困るのだが、その私の背中に強い支持が与えられたような心強さがしたのだ。あ、「世間」というものを対象化し得る視点を獲得する糸口だけは掴んでいるんだな、と、密かな自信になった。

議論が終わってホッと一息ついていたら、また別の考えが湧いてきた。安部さんは、学校で教えられている歴史というものを、「世間」に属する人々にとっては参加の対象とはならない、無縁のものとしている。とすれば、次のように結論付けられるのではないか。
すなわち、「世間」に属する人々にとって、「日本の歴史」とは自分に無縁の所で展開されるものであり、それは「西洋の歴史」と同様に、自分と無縁の遠い別世界で展開される出来事の記録に過ぎないのだ、と。
いうなれば、「自国史」である故に変化の必要性に鈍感な日本の日本史学界や、世界最高のレヴェルにあるが故にその地位に安住する日本の東洋史学界に対する、痛烈な批判であり、彼らを、危機に晒されている日本の西洋史学会と同じ地平に引き摺り下ろしているのである。そして今一度、同じ歴史学徒として歴史をやる意味をそれぞれに追い求めていかなければならないのだ、と。そう考えたら、すっきりした。

何しろ、E.H.カー『歴史とは何か』を、
「日本人の歴史の教科書とすることは出来ない」
と断じている時点で、歴史学徒ならば誰もが愕然としてしまいそうなものではないか。
井沢元彦『「言霊の国」解体新書』を読んだ後でなければ、こうもスッキリと私の腑に落ちる事は無かったかもしれない。その意味で、『日本人の歴史意識』と『「言霊の国」解体新書』は、私の中では相互補完的なものである。そして、これほどまでに蒙を啓かれる書には、歴史の領域では近年は出会わなかったのではないか、と思わせる絶品の二冊である。

2004年10月25日
(岩明均『ヒストリエ』)

今日、大学院の同僚に紹介されて、面白そうなので買ってしまった一冊。漫画であるが、主人公の設定が、頭抜けて面白い。

「カルディアの人、エウメネス」
といって分かる人が、一体何人居るだろうか。アレクサンドロス大王の宮廷書記官として常に大王の側近に居た人物で、大王の死後に起こったディアドコイ(後継者)戦争期には一軍を率いる将軍としてアンティゴノス一世独眼王と死闘を展開し、最後までアレクサンドロスの王家に忠誠を尽くし続けて敗死した、非業の英傑である。
つまりはこの本もアレクサンドロス大王英雄伝の一つとなる・・・のだろうが、まさかこの人物に目を付ける人が居るとは思わなかった。まずその時点で、この本は大きく読者の意表を付いている。アレクサンドロス大王の伝記をリュシマコスに語らせた安彦良和氏も面白いが、その着眼点を遥かに上回るといって良いのではないだろうか。
もし仮に、このエウメネスの一代記で卒論を書きたいという人が出て来たら、私は全面的にバックアップするのではないかと思う。退けるには勿体無い、面白すぎる観点を設定しているからである。
第一巻は抑え目の筆致だが、それでもメムノン・バルシネ・アリストテレス・カッリステネス・アンティゴノスと豪華な登場人物が顔を並べており、初っ端からこれだけのキャストを繰り出して来た力量には脱帽する。特に後年の最大の強敵となるアンティゴノスをいきなり出して来るなど、実に楽しい構成である。この後が楽しみな一冊。

2004年8月7日
(岩本悠『流学日記』)

共にすごした時間のトータルとしては少ないか知れぬが、思い入れ深いルートの幾つかをを共に歩いた旅仲間のひとりとして、読後の感想を書かせて貰おう。

まずは、旅をしていた時の思い出から。
「旅」にどっぷり浸かってしまっていた私にとって、各地のNGOなどを精力的に訪問してまわり、観光名所には目もくれず、かといってピラミッド盗頂は単独で成功させてしまう本書の著者である著者・悠君には、かなり新鮮さというか、面食らった事を良く覚えている。
そんな彼が旅行記を書いたというので読んでみた。・・・いや実は、本の形で世に問われる前に、彼の原稿はメルマガみたいな感じで私のところにはちょくちょく来ていたから、内容は大体知っていたのだが。

通常−とくにここ数年の紀行文には、その傾向が顕著なように思われるのだが−、旅行記を書く人にとって真っ先に重要なことは
「ある場所に行った」
ことであり、その次に
「そこでこんな事を感じた」
と来る。だから、筆者の内面の想いは重要性において二の次、三の次になってしまい、見え難くなってしまう事が多い。
しかし、海外を旅する人たちは、こと内面の思索においては、日本に居る時よりも遥かに深い。基本的にずっと独りで異文化と向き合わねばならないのだから、それは当然だろう。
しかも海外を長く旅していると、結構暇な時間が出来てくる。特に、アジアを旅しているとそうだ。
それに、旅人たちも、絶えず移動を続けているわけでは無い。時には一ヶ所に長く逗留して旅の疲れを落としたり、床に横たわって下痢を癒したり、情報収集をしたりしなければならない。そんな時には、自分と向き合う時間が膨大に出来てくる。移動にしたってそうである。現地の人と筆談する手を休めたり、必死の英語を駆使する必要が無い時などは、窓外の景色に見入りつつ、思いは内向して行く。
そんな時に。

あるいは、列車やバスの窓ガラスに映る自分の顔が、語りかけて来るのかもしれない。
あるいは、繰り返し読んだ文庫本の行間が語りかけて来るのかもしれない。
あるいは、沙漠の蜃気楼が、砂丘が、問い掛けて来るのかもしれない。
あるいは、異境の河や海の水面に映った自分の顔が問い掛けて来るのかもしれない。
あるいは、便所の尻洗い用水桶の水に映る己の双眸が、問い掛けて来るのかもしれない。
あるいは、

・・・と、もうキリが無いのでここら辺にしておくが。そんな具合に、自分自身と向き合う機会が多いのだから、思いは深く沈潜し熟成されて行く。誰の中でも、それは同じ様に。スピードは、違うかもしれないけれども。
私も、数限りなく深く自分と語り合った。特に、下痢で死んでいてホームシックでのたうちまわっていた時に、向き合う相手は日本にいる懐かしき朋友たちの幻影と自分の影であった。

そういった内面の「想い」を出し切れないままに筆を進めて行くと、全体の構成が流れて行ってしまって、パンチの効かない文章となりかねない。

その点、悠君の場合は、
「俺がこんな事を考えた」
という事が一番はじめにポンと来て、その場所が「どこそこだった」とくる。従って、溢れ出す「想い」がストレートに読者の目に飛び込んでくる。だから、裸の「岩本悠」が、まさしくスッポンポンでフルチンの姿(ピラミッドの頂上ではホンとにフルチンになって立ち小便してますけど)を我々に真っ直ぐにぶつけて来ていて、思わず唸らされてしまう。それも、幾多の珍道中を共にしてきた私も見抜くことが出来なかった姿が殆どである。
その為、私が読んだ旅行記の中では、白眉のものに仕上がっている。

最後になったが、やはり彼は溢れ出す感性の人間なのだなあと思う。旅を
「流学」
と称し、旅の記録を
『流学日記』
なぞと銘打ってしまえる所など、脱帽するしかない。私の書いた文章なんて、
「シルクロードの道端にて」
だもんね(未出版、というか出版の予定無しだが)。平凡なもんです。

で、長々と書いてきたけど、結論。
「面白かった!」
以上です。皆さん、手にとって読んでみてください。

なんだか「流学」って言葉、流行りそうな予感がするなあ・・・もう一部では流行る兆しを見せているしね。

2004年4月12日
(小島剛一『トルコのもう一つの顔』)

バイトの時、小島剛一著『トルコのもう一つの顔』を貪り読んだ。恐ろしく面白い本だった。平凡なのは、タイトルだけである。私が愛するトルコの裏の顔を冷徹に、しかし愛情込めて抉り出した名著である。眠気も完全に忘れさせる一冊であった。
アジアとヨーロッパの出会う国、そしてEUへの加盟をめぐって悪戦苦闘を繰り広げる国、トルコ。第一次大戦後の、ギリシアとの間に為された
「キリスト教徒とイスラム教徒の住民交換」
という強硬手段によって無理矢理成立させた国民国家、日本とは趣をかなり異にするが、
「単一民族国家」
を神話として掲げるトルコの、暗黒面と言うべきクルド人たちの姿を、自らの足でもって見て回り、知識を駆使して語る。しかし、退屈な専門書などでは全くない。むしろ、著者の体験がドラマチックであるため、読む人をドキドキさせてくれる。読み進むにつれて、ページを繰る手を止める事を忘れさせてしまう。ドキュメンタリーとしても一級品と言って良いだろう。

2002年11月11日
(春江一也『プラハの春』)

年来の想い人に会ってきた。と言っても、書籍なのだが。春江一也著『プラハの春』(新潮社)である。その昔、ハンガリーのブダペストに居た時、テレザハウスのすぐ近くにある日本人宿ヘレナハウスに置いてあったので、よく読みに行ったのだ。
この本の白眉は、著者の経歴だろう。外務省の職員、しかも、プラハの春当時のチェコスロバキア大使館館員。従ってこの本は、単に『小説』として切り捨てるような事は出来ない。内容が、ズッシリと重い。充分、検討に値するようなモノと言えよう。何、役人の書く事は所詮公式発表だから信用できない?新田次郎も役人だぞ。

2002年7月14日
(中村哲『医は国境を越えて』・丸山直樹『ドクター・サーブ』)

 心ある人たちに

先日、つい衝動買いしてしまった、中村哲著『医は国境を越えて』と併読するような形で再読を始めた、丸山直樹著『ドクター・サーブ』の、全ての文章に先立つ、言葉である。
丸山氏は、NGOが嫌いである、と書いている。私も、実はイマイチ好きではない。
そのNGO嫌いを公言している人間に、評伝を書かせてしまう中村医師の懐の深さを感じ入らせる、ひとつのささやかなメッセージである。

 心ある人たちに

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