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12月27日(師でもないけど走る)

一週間、「消息」不明で申し訳ありませんでした。
特に何をしていたというわけでもなく・・・せいぜい、22日の豪雪の時に、雪だるまを作っちゃったくらいですね。あと、23日には月例SIBAの会でした。
これから、東京に向かいます。会う約束をしている皆様、よろしくお願いします。
では、よいお年を。

12月20日

いったい12月には何回呑み会があるのか?と呆れ果てたくなるような、今日この頃。
今日は、史学ゼミの忘年会。
「人生には嫌な事がいっぱいある。中でも一番嫌なモノは、男同士の晩餐だ」
という事を、あのベンジャミン・ディズレーリが言ったらしい。その事態を回避すべく努力したのだが、残念ながら今日の晩餐は男ばかり。野郎8人だと、まとまりは良いが多様性に欠けるのが残念だなあ・・・
何にせよ、皆様一年間お疲れ様でした。

12月18日(今年は寒い日の研究会ばかり)

早朝、尿意を覚えてトイレに立つと、外は一面の雪化粧。こんな天候では今日の研究会は無事に出来るのだろうか?と、かなり不安になった。
そのようなわけで、今日は古代史研究会の第四回大会。報告者の一人のレジュメ組みをお手伝いしたりしたが、懇親会の会場まで遠いのが一番きつかったな。なにしろ、雪が舞っていたから。

12月17日

一昨日あたりから、咽喉の調子が悪く、声が擦れた状態が続いている。どうも、風邪を引いたのかな・・・髪を切ったら短くなりすぎた、それが原因だろう。

自分の体調はさて置き、昨日から今日にかけてはスポーツニュースをあれこれとチェックしていた。近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブで監督を務めた知将・仰木彬氏が急逝したとの報を受けての事である。
今年「誕生」した、「オリックズ・バファローズ」なる合併球団の監督として真っ先に名前が挙がった時、
「人を虚仮にするのも大概にしろ!」
と心底激怒したのを覚えている。まさか仰木さんが監督を受けるとは欠片も思っていなかったので、監督に就任した時には心底意外だった。
しかし今思うに、あれはプレーする選手達の事を慮っての事ではなかったか。だからこそ、これまでに築いた名声を地に堕としかねないポストを引き受けたのであろう。思えば、これまでスターに育て上げた選手達を何人も、次の場所へと快く送り出してきた。それもまた、選手達の事を思えばの事だったのだと、今更ながらに気が付く。
ただ、敢えて火中の栗を拾った仰木さんには申し訳ないのだが、私はそれでも、今年一年を仰木さんのキャリアに含める事に、拒絶反応を示してしまうのだ。あの忌まわしき合併球団の存在を認める気には到底なれないのだ。あまりにも、醜悪すぎて・・・
死ぬべき人間ほど長生きし、生きる資格を持つ人間ほど早死にする。あの「オリックズ・バファローズ」なる形骸は、それを具象化して額縁に飾ったような見本である事を、この訃報ほど痛感した事は、かつてない。

ともあれ、お疲れ様でした。あの世でゆっくり、存分に三原監督と杯を酌み交わしてください。もはやドクターストップはかからないでしょうから。

12月13日(冷蔵庫の中の生活)

最近、私の下宿の室温は10℃を上回る事があまり無い。ここ十日ほどの強烈な寒気の所為だが、おかげで冷蔵庫が(冷凍庫の部分はともかく)、殆ど無用の長物と化している。
室温と、冷蔵庫の中の温度が殆ど一緒だからね・・・
寒くて外に出る気が全く起きないのだが、暖房器具がコタツと電気カーペットしかない現状では、無理矢理にでも大学に出て研究室にいかないと凍死してしまいそうだ。それは冗談にしても、体調は絶対に崩れそう。

それはさておき、本日は本年度史学ゼミ最後の報告、阿部謹也の世間論に関する報告。テーマを聞いた時、
「それは無茶だ」
と、正直思った。あの話を本気でやったら、議論の時間がいくらあっても足りやしない。報告は極めて良質だったが、阿部さんの本領である、西洋中世ではどのような業績を残したのか、それも聞いてみたかった。

12月11日

昨日は属州研究会の月例会&忘年会。白川の「如意」での懇親会に参加するのは二回目になるが、ここのメシの美味さはいつ来てもカンドーもの。

本日、バイト後に晩飯を食いながら、NHKスペシャル「新シルクロード」最終回を観る。
録画するんじゃなかった・・・
最後の最後に、うんこ番組である事を露呈してしまった。
馬脚を現したな、NHK・・・

12月9日(宴の後の芝居)

朝、大声で私を起こす目覚まし時計を止めると、激しく頭痛がする。20分ほど起きあがる事が出来ず、やっとの事でシャワーを浴びる。
頭痛の原因は、明らかすぎるほど明らかである。二日酔いだ。

昨夜、バイト先のスタッフによる忘年会があった。
スタートから物凄い勢いで酒が無くなっていく。すっかり失念していたが、その日の面子は半分以上が体育会系。呑むのも呑ませるのも鍛えている。私を潰しに来ているな、と解ったがもう遅い。自分のペースを凌駕する速度で酒が回れば、必然的に肝臓の回転が速くなり、体温が上昇していく。
気が付くと、上半身裸で踊りながら酒を呑んでいた。
こんな事をやっていたら、そりゃ二日酔いになるわな。

再び、話は今日の事に戻る。
6時半近く、京都府立医大の向かいにある京都文化芸術会館へ。友人・中村健が出演する、C.T.T.プロデュース「オセロー」を観る。隣席には友人F女史が居た。
それにしてもシェークスピアって奴は、一度しか観ていない訳だが、どうにも舞台が遠くに見えて仕方がないから、実は苦手であったりする。ましてや、ちゃんとしたホールだから舞台がでかい。今日のように体調最悪の時には寝てしまうかもしれないな・・・と思っていたら、私は眠らなかったが客席のあちこちからイビキが聞こえた。筋は面白いのだが、どうにもシェークスピアの戯曲は、台詞回しがやたらに勿体ぶっているのが、間を悪くしてるのではないか、と思う次第。

12月5日

寒い。
一気に冬将軍がやってきたようである。
おまけに昨日・今日と天候が激しく変わるから、洗濯物も乾きやしない。そんな天候に左右されたのか、ドイツ語の予習が全然進まない・・・って、それは言い訳か。
いや、土曜日に帽子が行方不明になったからという事にしておこうか。

一昨日の洛北史学会例会の時に拝借した物品の返却を済ませる。
音響機材を見ながらまた今回も思ったのは、
「私の経験に思い切り特化したシステムを作り上げてしまったなあ」
という事。私がこのシステムの引き継ぎを全くしないのは、これが臨時のシステムであると解釈しているためであるが、なかなか周囲はそう見てくれないらしい。冗談抜きで、私が一度、行方不明にならないと解ってくれないんだろうか?
頼られるのは嬉しいが、それも程度問題だなあ・・・
そう思いながら、下鴨劇場の音響担当者に機材を返却した私が見上げた天空は曇天、そこから落ちてきた雪が、眼と肌と髪に染み込んできた。

12月3日

前の記事から一週間・・・私は何をしていたんだろうか?
これといって思いつかないな・・・
せいぜい、三日前に「ムーンライトながら」の指定席券を取ったくらいか。

本日、洛北史学会第7回例会。睡眠不足なのは仕方がないが、どーも無事に当日を迎えたという感じがしない。府大の文学部系諸学科の研究会が重なったという事情はあるだろうが、今回は準備から何から、後手に回ったという気がしてならない。
先ずは、水を入れる器を見直す事から始めるべきではないのか。そんな事を考えた一日だった。

11月26日(学祭2日目)

本日、学祭は2日目である。
来るはずだった知人が見あたらないままに、私は近くにあるコンサートホールへ。ギターマンドリンクラブの定期演奏会を拝聴するためである。昨年は東京行きのために聴く事が出来ず、しかもアンケートにはアナウンスの感想しか書かないという、非常に困った(と言うか迷惑な)客であろうが、何しろ関係者が二人もアナウンスを担当していれば仕方の無い所であろう、是非にご容赦頂きたく思う次第。
演奏会であるが、こんなに眠かったのは初めてだな・・・交響楽団の演奏会では遠慮も外聞もなく爆睡するが、ギタマンの時には集中していたような記憶があったのだが。気の所為か?

11月25日

今日も、我が下宿の夜(に限らず冬季)は寒い。
もっとも、酒を少々呑み過ぎた、今日のような日には丁度よいのだが。

今日と明日は、京都府立大学は学祭である。授業もなかったが、寝惚け眼をこすりながら、2限の時間帯に図書館で行われたインターネット論文検索の講習会に出る。午後は授業がないからガラベーヤで模擬店が並んでいる辺りをうろつきまわったら、目立つ事この上ない。サングラスをかけてみたら、尚のこと目立つ。
そんな企画の中のひとつに、「酒呑み企画」とでも称すべきモノがあった。夕刻五時半から、体育館内で、京都各所の日本酒を呑み比べるというもの当日券500円を買って中に入ってみると、えらく人がいた。まあ、500円で酒をしこたま呑めるんだから、無理もないか。私は辛口よりも甘口の方が好きなのだが、京都の酒は美味い。呑んでいる間に、気持ち良くなってしまっていた。そんな状態では、暖房が効いた研究室で勉強できるハズもない。
かくしてさっさと帰って来て、寒い下宿で頭を冷やしている次第。うむ、寒い。おかげで頭が冷える。やはり、酒を呑むなら冬に限る。

11月20日(メインの目的がよく解らない一日)

昨日の酒のおかげか、睡眠不足気味であるにもかかわらず、体調はほぼ戻った。
休日でバイトもないのに睡眠不足気味なのは、関西学院大学の西洋史研究会大会に出席するためである。何がしんどいって、スーツで行くのが一番しんどい。二週連続で週末にスーツ着用となる訳だが、つくづく、柄に合っていないんだなあと、着るたびに痛感する。もっとも、それはスーツそのものよりも革靴が好きになれないからだろうか。
関学の西洋史研究会では、自分の分野に関連した話は聞けなかったが、近現代ドイツにおける「記憶の歴史」を前面に押し出したシンポジウムは面白かった。
最後の報告の真っ最中に、会場を抜け出す。梅田で、今日も珍友H氏、および後輩Oの三人で、どんちゃん騒ぎ。大丈夫か?私の肝臓は・・・

11月19日

バイト先は、私も含めて風邪ひきさんだらけである。
「それもこれもブッシュが悪い」
と訳のわからん事を言いつつ、昨日がバイトの泊り勤務だったから、今朝は早めに帰る事が出来た。
そして眠る。
夕刻、「山口 霞夢」こと、違大なる珍友H氏が、拙亭に来訪。そして気が付けば、府大生行きつけの某居酒屋にてどんちゃん騒ぎ。懐が一気に危機的状況。

11月17日

眠い。本日の会議の関係で夜更かしをしたのが祟ったのだろうか?これまでは、ギャラリートークの関係で気を張っていたのが一気に消し飛んで、ついでに寒くなったからなあ・・・なぞと思っていたら、晩飯後に鼻水が止まらなくなった。毎年恒例、季節変わり目の鼻風邪らしい。どうにかならんモノかな。

11月14日

昨日は、大谷大学のシャアとアムロのトークショーに行く事が結局出来なかった。当日券を狙っていったら、会場では
「見ろ!人がゴミのようだ!」
と言いたくなるくらいに並んでいて、当日券がある訳もない。泣く泣く引っ込んだ。

さて今日は、大学院の同僚O氏と共に、府大のt-kawase先生の研究室に入ってあれこれ雑談。いいのんかいな。まあ良いか。

11月12日(ギャラリートーク「アレキサンダー大王の遺産」)

13時30分から京都文化博物館でギャラリートークをやるので、定刻より45分ほど前に会場に到着してみると、そこには張り紙が。

「特別展ギャラリートーク 
 『アレキサンダー大王の遺産』
       講師 柴田広志先生 」

そんな名前の先生がいたっけ?と本気で考え込んでしまったが、要するに私の事である。気が付いて、思わず笑い出してしまった。
客足はイマイチ、と聞いていたからお気楽に構えていたら、20人ぐらい聴衆が居て、私はいきなり冷や汗をかく。まずは地図を前にして地勢と歴史背景を語り、それから数点の品に関するトークをし、更にまた歴史背景を語り・・・とトークを展開する事30分。一応、場は持ったのかな?
ここ一週間ぐらい関連資料の山に埋もれていた甲斐あってか、反応はさほど悪くなかったし、メモを取りながら聞いてくれた方も居たし、質問してくれた方も居たから、まあ良しとすべきか。
自分でこのタイトルを選んでおいて言うのも難だが、タイトルが事実に即しているかというと疑わしい。派手なモノは、アケメネス朝時代のモノが多かったから。本当はこのタイトルは
『アレクサンドロス大王の先駆者と後継者たち』
という題にしようと思ったのだが、長すぎるという事で今回のタイトルになったのである。
友人に添乗員をやっている人がいるけど、こういう事やっている訳だよなあ。私には無理だ。今回も、準備にえらく時間をかけてしまったからな。昨日などはほぼ一日中、トークの準備に時間を割いていたし。
一番吃驚したのは、両親が予告抜きで来ていた事だった。

11月10日(広河隆一講演会)

学部生の演習の後、3回生の何人かが史学科の院生室に来て史学雑誌を見ていってくれた。望外の喜び。

さて、この後。
府大史学科の院生全体演習では修士論文の中間報告会が行われたが、私はそれを放り出して、立命館大学で行われたフォト・ジャーナリスト広河隆一さんの講演会を聞いてきた。
「メディアは人を救えるか」
と題された講演会、広河さんは予想していたよりも語り出しはボソボソとした喋り方で意外だったが、写真のスライドが開始されると語気が次第に強くなっていった。もっとも、淡々とした語り口は変わらなかったが。
チェルノブイリを初めとする原子力開発の被害の現場と、パレスティナを中心に取材を重ねてきた人である。スライドされる写真の全てが圧倒的だった。睡眠不足の上に駆け込んできてフラフラだった私だが、聞けば聞くほどに眼も頭も冴え冴えとする。隣で誰か寝てたけど、よくあの話を聞いて居眠りできるな・・・

一番面白かったのは、あのイスラエルですら、ジャーナリストのいる所では手荒な事が出来ないという話。だから、戦場にジャーナリストが居るという事は、国家などの公的権力の暴力行為に対する抑止行為になる、というのだ。先生の居る所では悪い事が出来ない、という理屈だろう。
だから、アメリカにせよイスラエルにせよ、レバノンの難民キャンプやアフガンなどの
「人にはとても見せられない事」
をやった所ではまず、現場を占領してジャーナリストを閉め出すのだそうな。広河さんがウェブサイトで公開した、イスラエルが虐殺した挙げ句に更地にしてしまったジェニン難民キャンプの写真、あれが珠玉の価値を持つという事が、非常によく解った。

最後に。
下に書いた書評で、「旅が殺されている」と書いたが、それを更に言えば、
「好奇心を持つ事が禁じられている」
のが、今の日本であるように思う。では、何よりも
「知る事」
に関心を抱かねばならないハズのマスコミはどうか。無論の事、戦争などに関する一方を発信する現場では、深刻な記事を書くらしい。ところが、編集サイドに没にされてしまうそうな。マズイ事を書いたらいけない、と判断するらしいが、それが日本だけではない、という話に眉をひそめた。
こういう判断は、日本では「世間」というモノがさせるのだろうが、阿部謹也が「世間が無い」と明言した欧米においても、同種の監視機能が何処かにあるらしい。

「死に瀕した、ジャーナリズムの危機」
それが、広河さんの講演会で発せられた、悲鳴にも似たメッセージだった。

11月7日(書評 下川祐治著『香田証生さんはなぜ殺されたか』)

本を読みながら、幾度となく呟いた。
この本に書いてある事は、私にはよく解る。
しかし、それは私が旅人としての経験を有しているからだろう。
果たして何処まで他の日本人に、−具体的に言えば
「旅を知らない」
人たちに、理解してもらえるのだろうかと。


昨年10月、イラクで香田証生氏が拘留されたという一報が入った時、私が真っ先に指摘したのは、
「そのルートは、あり得ない」
という事だった。その時の私の指摘をまとめれば、次の2点になる。

@ルート選択が間違っている
 イラクに限らず、中東関連の情報が豊富に蓄積されていそうな場所として、真っ先に思い浮かぶのはイスタンブールとカイロの二カ所である。この両都市であれば経験豊富な旅人も多く、最新の情報を得る事が出来る。また、この両都市を出発点にすれば、目的地に至るまでに旅行者としての経験を積む事が出来る。
 しかし、香田氏のルートには、この両都市はおろか、アジアの他の国も殆ど入っていない。そこから、次の事が指摘できる。
Aオセアニアに滞在する事の無意味さ
 具体的には、オーストラリアとニュージーランドである。このうちニュージーランドに長く滞在したにもかかわらず、彼の行動からは
「経験を積んだ旅行者」
の臭いを感じる事が出来ない。長期旅行者であれば、イラクに行く事を試みる前に、ほぼ間違いなく上記両都市を経由するはずである。それをしていないという事は、ニュージーランドではバックパッカー、もしくはビンボー旅行者としての経験や嗅覚を培う事がまず不可能、という事である。

上記二点に加えて、私の思考に方向性を与えたのは、事件から一ヶ月後に東京で会った、旅の道連れの1人であるS君の

「彼の行動は、(この年の)4月に捕まった人たちよりも理解できるんですよね」

という指摘だった。
言われてみれば、確かにそうである。旅行者にとって、
「その場所へ行く意味」
を問う事は、全く無意味な事だからである。

かつて、私は「シルクロード横断」をした時、あるいはした後に
「自分の研究に必要だから」
という理由付けをした。それは嘘ではないが、全くの後付けである。
本当は、ただ単にシルクロード横断がしたかっただけである。
「危険だから」「人に迷惑をかけるから」
というのは、旅人を抑制する材料には殆どなり得ない(私の好きな旅人の名言のひとつに、「迷惑かけて有り難う」という快言があります。ね、フクさん)。彼らが立ち止まるのは、沈没している時でなければ、病気になった時か、自分の経験が
「これは危ない」
と告げる時だけである。

だから、イラク国境で足を止める事が出来なかった彼の心理は、
『何でも見てやろう』(小田実の著書のタイトル)
という旅人の根本心理と、それを止める事が出来なかった香田氏の
「危険を嗅ぎ取る嗅覚の欠如」
という、旅人としての未熟さにアクセスする事が出来る人でなければ、迫る事は出来ないだろうと考えていた。
案の定、下川氏の本が出るまで、私を納得させる活字のレポートは出ていないのである。

前にも述べた(10月21日条10月31日条)が、下川氏の著作は、私が上でダラダラ考察した事を大きく裏切るモノではない。むしろ、私の思考を裏付けてくれるモノである。
丹念に香田氏のコースを追いながら思考を重ねた下川さんの本を読みながら、やはり私は繰り返し冒頭に書いたような事を思わずにはいられなかった。これは、海外に一歩も出た事がない人に理解できるのだろうか、と。
では、下川さんにこの本を書かせた原動力とは一体何だろうか?と考えて、思い当たった。

前に、
「今の日本では旅が殺されている」
という、岡崎大五氏のコメントを紹介した。おそらくは、下川さんも同じ事を考えているのだろう。かつて、
「些細な賭け」
でロンドンまでバスで乗り継いだ人のレポートをドラマにして2時間ずつ、3回に分けて放映した(『深夜特急』のことですよ、勿論)過去は何処へやら、今の日本では、下川さんや私の愛したスタイルの「旅」を全面的に否定する方向に突っ走っている、様な気がする。
議論の前提−「旅人の心理を知る」という行為を一切欠いた報道が、真に迫る事が出来ないのは当然である。だからこそ、その前提を再提示する為に、愛する旅を彼方へ追い払ってしまわない為に、下川さんはこの本を書いたように思う。
そして、彼は必死で訴える。
「確かな目的もなく、知らない国に分け入っていく。旅はそれでいいはずだ」
と。この叫びを聞きながら、私の耳に飛び込んでくるのは、前川健一さんが『旅行記でめぐる世界』で繰り返した、
「旅に、理由など一切無い。旅が好きです、それだけで良いのだ」
というフレーズである。
しかし前川さんは、その後で呆れたように、
「しかしそれでは、世間が許してくれないらしい」
とぼやいている。その世間が今、旅を殺そうとしている。

そんな「世間」の築いた死体の山が今、なんとバンコクのカオサンに出来つつあるらしい。下川さんの本の末尾に近い辺りで、
「僕のような旅人は『トラディショナルパッカー』と呼ばれている」
とあった。
衝撃であったが、同時に納得もしてしまった。旅人の質が変化した、とは私も前の旅行の時に痛感した事だからである。
それでも、私は旅を続けるのだろう。自分のスタイルを変える事無く。
他人に旅を勧め続けるのだろう、成長することなく。

11月3日

休日であるが、西洋史読書会の為に朝早くに起きねばならず、今週頭以来の睡眠不足が一向に解消されない・・・まあ、報告は面白いモノを3本聞けて良かったが。
その後は、スーツを着たまま百万遍知恩寺の古本祭りをまわってきた。そこそこに収穫もあったので良かった。

11月1日(月例映画鑑賞vol.9「ZガンダムU−恋人たち−」)

夕刻、下宿に帰って干していた布団と洗濯物を取り込んでから出かけた三条新京極のMOVIX京都で、3人で観たのがこの映画。
うーん、出来ればやっぱり全編作り直して欲しいなあ。新しい箇所と古い箇所で、画のクオリティや画質が全然違うのが歴然だから。ストーリーの展開上、無理があると思われたりする所はゴッソリ入れ替えられているが。おかげでスッキリした構成になっていると思う反面、展開が早過ぎて目が回る部分が、無きにしもあらず。サラ・ザビアロフの声にも吃驚。声優、当時と変えているじゃあないか。
最後に。どーしても気にくわなかった事を叫ばせてください。

ハマーン様は、キュベレイに乗らなきゃハマーン様ぢゃありません!

せっかくの永野護作画の美しい女神が・・・嗚呼。

10月31日

うえーん雑事に追われて勉強が出来ない。
明日の予習、どうするんだ・・・

さて、昨日一日中バイトの間に、ようやく下川さんの本を読み始めた。一気に読み通してしまいそうな自分の手綱を締めながら、そろそろと読んでいる状態である。全体の五分の一ほどを読了した所だが、今のところ、私の見解と下川さんの調査・考察にそれほど隔たりはない。嬉しい事である。

10月29日(酒には弱い、ハズですが)

京大で、ポール・カートリッジの講演会があったので顔を出してきた。ここのところ、講演会だらけで勉強がろくすっぽ進んでいないようにも思うが、気の所為だという事にしておこう。
聞き取りやすい英語でテキストも読み易く、内容も簡明であったので非常に楽しめたが、きつかったのは質疑応答と懇親会。講演の後、インターバル抜きで質疑に突入した為に質問がすぐには出て来ず、思いついた頃には続々と質問が出て来て、とても挙手が出来ない状態だった。
といっても、懇親会の時に用意した質問を聞く事が出来た。当然である、私の席の隣に座られたのだから、話すネタを必死で捻出しなければならなかった。スィーワに行った話をしたら食いついてくれて嬉しかったが、おかげで呑めども呑めども酔いが回らず。下宿の近くでふらついた時に、やっと自分の酔いを自覚する有様であった。哀れ。

10月28日(久しぶりにスーツを着た)

京都文化博物館特別展「偉大なるシルクロードの遺産展」のオープニングセレモニーに出席してきた。ギャラリートークをやる関係で、招待状が届いていたのである。授業も無いし、さほど暇でもないが顔を出してきた。昨日が莫迦ほど酒を呑んだモノだから、若干フラフラする。
取り敢えず面白かったのは、ウズベキスタン側のゲスト。一人は訛りの強い英語を喋っていたが、残る二人はロシア語を喋る。通訳者も、アドリブのスピーチには四苦八苦したようだ。加藤九祚の名前なんぞ、完璧に抜かしてしまっていたが、そりゃ無理もない。あの人の名は中央アジアに詳しくなければ知る訳もない。
さて、どうやってトークをやるか、これから二週間ばかり困りそうである。モノが少ないから。

ふと思い出して一筆。トルコについて、二度ほど
「EU加盟はまず不可能だろう」
と述べた。それでもヨーロッパ諸国が加盟交渉をしているのは何故か。
思うに、彼らはただイスタンブールが欲しいだけなのだろう。本音を言えば、
「イスタンブールだけ寄越せ。後は要らん」
といいたい所なのだろうね。

10月27日(卒論中間報告会)

学部生の卒業論文中間発表を聞きに行った。私が突っ込めるようなモノは無かったなあ。いや、よく解らなかった。
で、その後。ゲーテ・インスティトゥートで行われた、ドイツ人ジャーナリスト、ユルゲン・エルゼサー Jurgen Elsasser氏の講演会に行って来た。そーちょーの誘いによるモノである。
「どこへ向かう?日本とドイツ −二つの総選挙から考える−」と題された講演会はしかし、「看板に偽りあり」とでもすべき内容だった。日独両国の経済構造についての調査分析が主で、投票に関しての分析が、特にドイツに関しては殆ど無かった。
ゲーテの館長とエルゼサーのやりとりを、そーちょーはこう評した。
「統一後ドイツの東西対立」
ゲーテの館長は西側の人間だが、エルゼサー氏はおそらく東側の出身だろう、というのがそーちょーの分析であった。

10月26日(一日雑感)

マリーンズ優勝に関するコメントですか?いやもう、おめでとうございます、強かったですね、以外出て来ないな・・・
いや、実は、その持つ意味について語り出したらキリがないから今日は省略。寝ます。後日改めて語ろうか。

それより、旅行記を収めた「旅の徒然」コーナーの、
絲綢之道の道端にて
中華三行
オリエント珍道中
の、三大コーナーをいじりました。多少は見易くなったはずです。

で、旅に引っかけまして。
下の方でも紹介した、下川祐治著『香田証生さんはなぜ殺されたか』を購入してきました。いずれ本格的に書評をしますが、取り敢えず。

10月23日(たまには息抜きを)

ここの所、この「亭主消息」のコーナーには重い記事が比較的多かったような気がするので、たまには底抜けに軽い軽い記事を。

旅を筆頭とする私の行動を支配する最大の法則、それは

「基本的にミーハー」

であります。
それを象徴するように、「もう終わった」と公言していたはずのプロ野球の日本シリーズを観戦し、アンダースローの渡辺俊介の投球フォームを見て興奮しております。アンダーハンドスローって色気があると思うのです。今日の試合とか、マリーンズの攻撃の時には晩飯を作っていて、守備の時しか観戦しておりませんでした。阪神ファンの彼女とテレヴィ観戦していたハズの、命知らずの友人(ドラファン)の消息が心配です。彼の無事を祈ってやってください(爆)。

10月21日(私の旅のスタイルと魂は死ぬのか?)

昨日、うちの研究室の連中と一緒に体育館で3on3をやったら、今朝になって背筋と腰に張りが出た。それでも今日は一日中バイト。こんな時に限って、やたらに重い荷物が多いような気がする。そのバイトから帰ってみれば、『旅行人』最新号が来ていた。

さて、ネットを検索していたら面白い記事を見つけた。昨年10月にイラクに入って亡くなった香田氏に関して、高名なバックパッカーである下川祐治氏が追跡調査した『香田証生さんは何故殺されたか』について、知る人ぞ知る旅行作家である岡崎大五氏が、書評しているのである。
詳細はその記事にリンクを張るからそちらを読んで頂く(→こちら。是非一読頂きたい!)として、そこから、特別に強い共感を覚えた一節を紹介したい。

「明確な目的もなくイラクという国に入っていったことに人々は非難を集めた。しかし、その言葉に旅人としての僕は違和感を覚えていく。
「旅とはそういうものだ。確かな目的もなく、知らない国に分け入っていく。旅はそれでいいはずだ」と。」

昨年、好著『旅行記でめぐる世界』で前川健一氏はくどい程に、
「旅をするのに理由なんて無い。旅が好きだから。それで良いのだ」
と、繰り返した(繰り返さなければならなかった)。前川氏と同じ台詞が、此処でもまた、別の旅人によって繰り返されている。私自身も、香田氏の気持ちは解る(ただ、やらなかっただけの事である)。昨年、事件直後に東京で会った友人も、同様の事を言っていた(→こちらの11月26日条をご覧あれ)。
そして、上述の文章の後に岡崎氏は淡々と、しかし悲痛な叫びをあげる。

「どうしたわけか、今の日本では旅まで殺されている。」と。

長旅から帰って以来、私は折に触れてマスコミの旅行系番組を罵倒してきた。
「奴らには、旅人の心情を理解しようという意欲が何処にもない」と。
繰り返した私の罵倒と徒労感を蓄積し、凝縮し、一言にまとめると、岡崎氏の言葉になるのだろう。そう、旅が殺されている。

だから私は、年下の人たちと会うと偉そうに繰り返すのかもしれない。
「旅をしなさい。出来れば一人が良いね」
と。旅は良いものだ。どのように良いのかは、行けば解る。そう、外の空気が教えてくれる、何もかも。
だから私は海外旅行が好きなのだ。国内旅行に見向きもしない理由もそこにあるのだろう。 

10月19日(史学科の学科旅行)

本日まで、史学科の学科旅行で根来寺と高野山に行ってきた。
短いが報告を載せる。段差を付けましたので、読みたいと仰る物好きな方は、全画面表示でご覧下さい。

10月19日(和歌山城〜京都)

朝7時過ぎに起床した時には、きつかった。
今日の全体訪問の場所は、和歌山城のみ(一部は砲台の跡を見に行った)。そして、この和歌山城の天守閣最上階で解散となる。
解散後、白から南海和歌山市駅まで歩いて行き、難波に出る。少しばかり日本橋徘徊をした後、京都に戻る。

10月18日(高野山一日遊〜和歌山)

前日に12時半までどんちゃん騒ぎをやっていたのに、6時に鐘の音で目が覚める。起きた時に少し足元がふらついたのでぎくりとしたが、幸いに酔いは残っていなかった。ちょうど朝の勤行が始まる時間であり、それを見学する。最後まで見学していた訳ではないけれども。
朝食後、今日もまた雨の中を総本山・金剛峰寺を見学。案内役は高野山に来てから未だ半年という若いお坊様にして頂いたが、これは他のお坊さんが皆所用で引き払っていた為という。もっとも、私には、それを口実にして案内役のお坊さんにU先生の講義を聞かせるという住職さんの策略だったように思われた。
さて、前回訪問時は何故か全く見学しなかった(かわりに酒ばかり呑んでいた)金剛峰寺だが、全ての建物がやけに新しい。落雷でしょっちゅう焼けているらしい。うーん、さもありなん。
全体での金剛峰寺拝観が終わった後、自由行動に移る。私とM1某氏は、空海の廟である「奥の院」を目指す。「一の橋」という所からからこの「奥の院」へと至る道筋が、墓地になっている。此処は日本の名家の墓がズラリと並ぶ。買ったばかりの一眼の調子がイマイチなのでヤキモキしたが、非常に面白かった。
高野山から下りて和歌山市内の宿所へと移動する電車の中では、皆疲れ果てて眠っていた。さながら溺死者の群れ。宿舎では、各部屋ごとに風呂が付いている構造の為に、酒宴の時間が充分には取れなかった。やっぱり、こういう合宿の時には大浴場が不可欠だなあ・・・ってそりゃ『ラブひな』の読み過ぎか。

10月17日(京都〜根来寺・高野山)

朝8時半に府大に駆けつける。貸し切りバスにて目的地の和歌山県に向かうが、思わしくない天気の中、最初の目的地に着いたら雨が降り出した。
最初の目的地は、根来寺。戦国時代に強力な鉄砲衆を抱えていたのは専門外の私でも知っている事だが、それにしても未だ在ったんだな。真言宗の一派だという事も全然知らなかったし、秀吉に焼き討ちにされたという事も初めて知った。大寺院の焼き討ちというと信長をすぐに連想してしまうが、なかなかどうして、秀吉も似たような事をしっかりやっているのだなあ。
根来寺の後は、国分寺跡を見学し、九度山の(という事は真田幸村父子が幽閉されていた所だな)自尊院・丹生神社を経由し、高野山へ。ここへ来るのは二度目になるが、前回は雨など降らなかったし天気予報も雨は降らないという予報のハズが、しっかり降っていて山中はガスだらけ。何だかネパールやインドのダラムサラ・マナリを思い出すが、それより視界が悪い。それにバスが道で出会うと擦れ違う事が出来ない。
何とか高野山中に到着し、親王院という塔頭に宿泊。宗教施設に宿泊するのは、三回目か。場所が場所だけにお坊様に給仕して頂くのだが、皆雰囲気に呑まれてしまい、なかなか雑談の声も弾まない。食事の時に酒を出して頂いたのには吃驚したが、考えてみれば、このような寒い所では、酒でもないと冗談抜きで死んでしまうだろう。酒に関しては、彼の弘法大師もさすがに大目に見て許していたらしい。そこから考えて
「イスラームとお酒の関係」
なる話を、食事の後に酒を呑みながら披露する(真面目に考察したが、裏付けはしていない。良いのか?)。そう、今回の参加者は、私とM1の某君、それに先生方を除けば皆女子、それも一回生と三回生ばかり。こら二回生はどうした!男共もどうした!それにしても私の漫談、果たして面白かったのだろうか。全く自信が無い。とはいえ、そこは何しろ、府大で過ごした星霜は他の学生さんよりも遙かに永いので(号泣)、昔話だけでも唸る程に抱えている。嗚呼。でも結構皆さん聞いてくれたなあ。
12時半までどんちゃん騒ぎをやっていたが、前回訪問時も夜までどんちゃん騒ぎをやって酒が数本空になって転がっていたし、何とも罰当たりな事である。

10月15日(パキスタン大地震に関連するコメント)

今までコメントを殆ど書いてこなかったが、パキスタンの大地震に関する情報の薄さには、苛立ちを禁じ得ない出来た。
やはりこういう場合には「旅行人」のサイトが参考になるのだが、こちらについても書き込まれる情報が薄い。往時であれば、この程度の情報しか流れないという事はあり得なかったというのに・・・
知人のブログで書いたコメントからのコピペになるが、この際問題ではあるまい。下に転載させて頂く。当サイトを見る方の参考になれば、この上ない幸いである。
  ↓
例の事故があって以来、ほぼ毎日「旅行人」のサイトを参照しているのですが、どうやら現在、パキスタンの首都イスラマバードから同国北部を通過して中国・カシュガルへと至るルートは現在小型車の通過のみが可能な状態であるが落石が続き、余震もしばしば起こるとの事です。
もともと、雨が降ったらすぐに崖崩れが起きて交通不能になるほどに、言ってみれば
「脆い」
ルートですから、今回のような地震が起きたら即座に連絡が壊滅的になるのは逃れられぬ宿命と申せましょう。
なお、同国最大の観光名所(言い過ぎではないと思う)のフンザは、辛うじて地震の被害を免れたようです。不幸中の幸いでしょう。

10月14日(一応コマーシャルを)

今更ですが、CMを致します。
来月、ギャラリートークを京都文化博物館でやらせて頂きます。
こっそりリンクを張っておきます。興味のある方はご来館下さい。
特別展の題目は「偉大なるシルクロードの遺産」展です。
え、ギャラリートークの詳細ですか?それはご勘弁を。
文博のHPを見れば解りますんで。

10月11日

ドタバタ慌ただしかった実家滞在から帰って来て、今日は早速授業。とはいっても後期第一回目のドイツ語聖書講読の授業は、殆どがドイツ文化論特殊集中講義みたいな感じになった。それはそれで愉しい。
夕刻は、史学ゼミ後期第・・・1回だっけ2回だっけ。宮崎市定に関する研究。以前、卒論の中間報告だったかな、O本先生に
「君にはシリアを研究して欲しい」
といわれ、イマイチ理由がわからなかったが、今日の報告を聞いて漸く合点がいった。なるほど、市定さんの影響か。

10月10日(毎年恒例、秋祭り)

秋祭りで太鼓を叩く為、この連休は実家に帰っていた。
とはいっても、連休中の毎日ずっと練習がある訳では勿論無く、フリーな日中は帰省時の恒例となった古本屋巡りをしてきた。
昨年と違って今年は夏休み中一度も練習に出なかった為、子供たちの熟練度を測る事が出来ず、当日神社に行っても仕切りに一苦労した。苦労したといえば、雨。例年、祭り当日の午後、山車を引き回す時間帯には雨が降ったケースが(私の記憶では)無い。結局、道中では太鼓の上にビニールシートを引いてその上から叩くという事になった。小雨だから、何とか強行軍できたというのは不幸中の幸いなのか?特異日も形無しの祭りの後、その夜の内に京都に戻る。ああ、疲れた。

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