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6月28日(月例映画鑑賞vol.Y「ダ・ヴィンチ・コード」)

※ダ・ヴィンチ・コードを未だ観ていない方で、これから観るつもりの方は、本日分「消息」は読まないで下さい、一応。

半年ばかり、ずっと見ていた「Fate/stay night」の録り溜めていた分を昨夜に見切ってしまい、久し振りにゆっくり足を運んだ寺町・新京極界隈のアニメイトで思わず買ってしまったのは、Fateのサウンドトラックであった。今、名匠・川井憲次の手になる皿を聴きながら、本日分「消息」を打っている。特に、前期OP、タイナカサチの「disillusion」は良い。個人的に注目である。

さて、本日、新京極に来たのは、公開から一月強が経った、「ダ・ヴィンチ・コード」を観るためである。結局原作版を読む事は出来ず仕舞いという不安要素を若干抱えていたが、この際である。仕方がない。
ここ数日の睡眠不足が解消しないままであったが、アクビは映画が始まって暫くすると消し飛んだ。西洋史の知識の蓄積を、べらぼうに要求される映画なのだ。なるほど、これは原作版を読まなければとてもフォローしきれないなと思いつつ、最初に盛り上がってしまったのはテンプル騎士団が壊滅した日の部分。1307年の、「10月13日」である。私がカイロに入城する、ちょうど693年前か。
個人的な盛り上がりポイントはさて措き、これは教皇庁が怒髪天を突くハズだ、と納得していった。
さて、問題となるポイントを列挙すれば、下記のようになるだろう。

@イエス・キリストは妻帯しており、相手はマグダラのマリア。
Aイエスの死後、マグダラのマリアは女児を出産した。
Bイエスの血脈はその後も存続し、それを守護したのがテンプル騎士団。
C一方、キリスト教会は、この子孫の血脈を迫害し続けてきた。

まあ、こんな所でしょうか。
実のところ、イエスが結婚していたというのは、新しい話でも何でもない。しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチがイエスの血族の守護者として介在していたというのが、ミソですな。しかも、レオナルドが自分の作品の中に、マリアとイエスの関係をほのめかす図像を盛り込んでいたという所が面白い。
しかし、一番教皇庁の逆鱗に触れたのは、

「マグダラのマリアを主役ではなく脇役に追い遣る事によって、キリスト教会は男性優位の論理を確立し、維持し続けてきた」

と読み取れるからだろう。否定できない部分があるからね。しかも、それを極めて説得力豊かに描写してしまっている。

当然ながら、細かい問題点を抽出し、検証しだしたら、追求の甘い所などいくらでも出てくる。しかし、そんな事は
「フィクションだから」「エンターテインメントだから」
と片づけてしまう事が出来る(実際、制作サイドは堂々と、そう宣言しているからね)し、些事であろう。そんなポイントをいくら指摘した所で、
「キリスト教会の男性優位性を確実なものとした装置を赤裸々に暴き出す」
という、この映画の根幹は、おそらくは小揺るぎもしないだろう。偉大なるヨハネ・パウロ二世教皇聖下の没後、保守的傾向を強めていると思われる教皇庁には、この映画を許容する事は些か骨が折れるだろうな。
それにしても、この映画、ヨハネ・パウロ二世が観たら、どんな感想を漏らされただろう。そして、ジェンダー史の専門家が観たら、どういう感想を述べただろう。実に面白かった。
しかし、エキサイトしすぎた。同行者は定めし迷惑であっただろう。ごめんなさい。

6月26日(多事につき遅れた月例行事)

バイトの早朝勤務は、体調最悪。何しろ、突発性不眠症のために一睡も出来ないまま、5時前に布団から身体を引きはがさなければならなかった。
ここのところ、たまに突発的に寝付きが猛烈に悪くなる。何が困るって、もともと蒲柳の質なのに、睡眠時間が減ると途端に仕事の能率が低下するのだ。通常は、身体が限界を訴えてダウンするのだ(全く無理がききませんから)が、このバランスが崩れると、今度は鬱の危険が眼前をちらつく。現在、全くその兆候は無いが、微妙に不安である。

そんな中、今日は夜に研究室の人々と疎水に蛍を見に行った。出発時間が早く、明るい時間から暗闇に差し掛かる時間帯だったために、あまり見る事が出来なかったが、さすがに日が没しきると、飛んでいる姿がよく見えた。もう少し早い時期に、みんなで見に行く事を提案すれば良かったな。

そして、夜。髭を剃る。髪は3ミリに整える。3ヶ月ぶりになるだろうか、顎の皮膚が風を感じる感覚は、悪いものではない。男性の皆さん、一度お試しください(笑)。

6月25日(多事多端な週末)

研究会終了後に同志社の寒梅館でお茶を飲んでいる時、手が微かに震えているのに気が付き、ひそかに苦笑した。二日酔いが抜けると、必ずといって良いほどに起きる現象である。

昨日、東京と伊勢から客を迎え、ドンチャン騒ぎをやった。ホストという事もあって、ガラベーヤを着て店外に経って客たちを出迎えたら、うけた。久々に会う人ばかりなのに、良く私の見分けが付いたものだと感心する。殆ど店を貸し切り状態にして呑んでいたら次第に歯止めが効かなくなり、日付が変わる頃にはしたたかに酩酊していた。幹事がこんなんでいいのかいな・・・

そして今日は、二日酔いの頭痛と睡眠不足のダブルパンチで困憊している中、同志社で属州研究会に出席。比佐篤氏の著書『「帝国」としての中期共和政ローマ』書評会である。参考として引用しておられた、渡辺信一郎先生の『天空の玉座』を併せて読んでいたら、一読しかできなかった。しかし、私の出る幕なんて無かったね。でも、この本の最後に提出されている
「中華帝国との比較」
という視点は、ローマ史の人は皆、違和感を禁じ得ないみたいだが、比佐さんの本を読み、信一郎先生の本を読み、そして再び比佐さんの本に戻り・・・という作業をここのところずっと繰り返してきた私には、違和感はともかく、気持ちは解るような気がした。比佐さんと似たような悪戦苦闘を、信一郎先生もやっておいでだったから。
ところで、属州研究会では、研究会が終わったあとは必ずお茶となるのだが、そのときにはすっかり二日酔いの頭痛は消えていた。その代わり、手が震えていた。
そんな中でも、その後は京大のブンピカに行って、やみいち行動「十五そうめん漂流記」を見てきた。笑いましたね。

6月18日(一部、特殊事情により伏せ字)

久し振りに連絡を取った後輩から、
「華燭の典を挙げるから来て」
といわれる。それは良いのだが、良いのだが、日取りが(私には)悪すぎて、私は携帯電話を持ったまま暫く動けなかった。額と背中にはぐっしょりと汗。あーもう天よ、私は甘んじて(各所よりの)罵詈雑言を浴びますから、我が後輩には恩寵を垂れ給え。

さて、本日は関学・関西・同志社・立命館の四大学が主催する歴史家協会の大会に出席してきた。良くは知らないが、関関同立の西洋史研究者たちの研究会、という位置づけで正しいのだろうか?報告者は、みなさん西洋史の人たちばかりだったし。
夜にバイトの関係で、聴く事が出来た報告は三本、古典期が二本で中世後期が一本。いずれも面白かったのだが(内容に関する詳細は特殊事情により伏せます)、出来れば最後まで聴きたかった。第一次大戦前夜の、ハプスブルク帝国のボスニア統治の方策とか、ウクライナの研究なんて、面白そうですから。

それにしても暑い日だった。スーツなんて、こんな日に着るものではない。・・・ハズだけど、私が現在所有している唯一のスーツって、確か三年前のこの時期に買ったのである。それを久し振りに思い出しつつ、受付では額を伝う汗をぬぐっていた。

6月14日

昨日分消息内の、独書講読に事寄せて。

現在、読んでいるのはドイツ語のルター訳聖書を現代風にアレンジしたものの、本文ではなく解説の部分を読んでいくという授業である。史学科の院生二人しか出席していないのだが(その割に国際文化配当の授業だ・・・)、これがまた大変なのだ。
聖書というやつは、ギリシア語にしてもラテン語にしても、本文自体は易しい。だから、簡単すぎて講読のテキストとしては適さない、という事らしいのだが、現在は旧約聖書のサムエル記から列王記の上に差し掛かったあたりである。

ここで困ったのが、ダビデ王が王位をかためていく過程で、シオン山の要塞を陥して本拠地とする(それが後にイェルサレムになっていくわけです)、という箇所に差し掛かった所である。この授業では、まずドイツ語の文章を読んで、それを和訳していくという作業を積み重ねているのだが、一緒に授業を受けている同僚のN君が、シオン山のことを真っ正直に
「ツィオン」
と発音している時に、どうにも魂の慟哭を押さえこむ事が出来なくなってしまって、思わず頭を抱え込んでしまった。

違う、そこはそう読むんじゃない、「ジオン」と読まないと意味が無いんだぁ!

誤解の無いように言っておくと、ドイツ語でシオンの事はZionと書く。で、Zの発音は「ツェー」だから、シオン山の発音は「ツィオン」となる。だから、ドイツ語の授業では、シオン山の事は「ブルク ツィオン」と読まないと駄目なのだ。
しかし、私は中東問題を専門領域としている人間で、しかも(自他共に認める)ガンダムおたくである。ここはやっぱり英語風に
「ジオン」
と読まないと、ガンダムの世界観の中に塗り込まれた巨大な要素をひとつ、見落としたままで過ごす事になるように思い、我慢が出来なくなってしまうのである。この「消息」で何度も繰り返している(例えば、このページの一番下の方に書いた、「ZガンダムV 時の鼓動は愛」の感想を見て下さい)事であるが、すなわち富野氏がジオンのモデルとして他ならぬイスラエルを選び、しかもこの国(ジオン、すなわちイスラエル)の事を
「ヒトラーの尻尾」
と評価している、という事を見逃してしまうのは、どうにも歯がゆいのである。よくぞまあ、こんな中東情勢を鋭く赤裸々に、しかも的確に描写した作品がお茶の間に流れたもんだと、私はこの講読の最中に、改めて感心してしまった次第である。同時に、中東古代を専門としていながらドイツ語と本格的に向かい合ってこなかった自分の怠け者ぶりを、改めて深く恥じる次第である。学部時代に真面目にドイツ語をやっていれば、これくらいの事、すぐに気が付いたはずなのに・・・
もっとも、そうなっていたら専攻変えていたかもしれないけれども。

やはりここは、テキストをひったくって「ツィオン」を高らかに「ジオン」と「正しく誤読」するべきだったかなぁ・・・

6月13日

今年度は毎週火曜日が授業が2コマ、3・5限にある。片方は慣れないドイツ語の講読の授業、もう一つは西洋哲学系の授業と、実にハードである。一週間の間で一番頭を使う曜日であろう。5限の授業とか、キェルケゴールからアリストテレスに話が飛んで、次がルターと来ると、知的刺激は著しいが、やはりハードワークである。
放課後は史学ゼミの新歓コンパ。新入生諸氏は楽しんでくれたのだろうか?なかなか難しい所だ。あれこれ話したが。

6月11日(ある、曇りの日に)

本当に久し振りに、睡眠時間をたっぷり取って熟睡する。今週はずっと睡眠不足だったから、こんなにスッキリするのは久し振りだ。
大学の研究室に行っても、殆ど誰もいなかった。おかげで本を読む速度が物凄く早かった。いかんな、こんな日しか勉強できないようでは・・・

6月9日(公開講座始末記)

最近、週末の「〜始末記」と銘打った「消息」がやたら多いな・・・
今日は、授業後に西洋文学の加藤先生が主催する、

「いただきます!ドイツ」

と題した公開講座が、京都府立大学の食保健学科・調理実習室で行われた。何時の間にやらスタッフとして動き回る事になってしまったが、まあ普段お世話になっているから、良いか。今日から開幕するワールドカップの開催国であるドイツについてもっとよく知ってもらおうと、日本が試合を行うニュルンベルク市での滞在が長い加藤先生が、食保健学科の南出先生と、下鴨本通り沿いのドイツ菓子屋「グリュックス・シュヴァイン」のオーナーシェフ・大塚さんと一緒に講演会を開こうというものである。
ここ暫くは、先生はこの対応で逐われ、授業中にも電話がひっきりなしにかかってくる状態だった。こんなに大変では、先生方は講演会とかあまりやりたがらないわけだ、と妙に納得してしまう。
内容は、まずは加藤先生がニュルンベルクの歴史と文化を紹介し、次に講演会に来た人たちにニュルンベルク特産のお菓子・レープクーヘンを食べてもらいながら、ニュルンベルクのクリスマス市の光景をおさめたVTRを見てもらう。そして、大塚シェフがドイツでの修業時代の事を語り、最後に南出先生がドイツの食の代表的素材という事で、ジャガイモについて詳しく紹介する。
私の仕事は主にカメラマン。一眼がフル稼働であった。異色のコラボレーション、なかなか面白かった。

6月3日(洛北史学会第八回大会始末記)

うおお、また今年も西洋古典学会の一番聞きたい報告が聞けねえ!
理由は、洛北史学会のためです。
俺、西洋古典学会での報告とか、絶対に出来ないよな・・・

そのようなわけで、遂に第八回を数えるに至った洛北史学会の大会である。
久しぶりに、下鴨劇場時代は半分我が家みたいなものだった京都府立大学の大学会館多目的ホールで行われた大会だが、久し振りに行われただけに、想定外の事態のオンパレードとなった。
一番困ったのは、音響設備。数年前にリニューアルされたのはよいが、おかげで有線マイクが使い物にならなくなってしまっていた。そのため、今回はワイヤレス・マイク2本で全てをまかなう事になってしまった。しかも、今回は私はずっと客席にいたので、音響設備に張り付いている事が出来ない。まあ、それはM3の後輩・masatix君に一任したけれども。

さて、シンポジウムは
『「信仰」の「力」ーその可能性をめぐって』
と題され、報告者は下記の通り。

内田鉄平氏(日本近世史)
 「信仰から見る庶民の旅行」
守川知子氏(イラン史)
 「聖なるものを求めて−シーア派イスラームの聖地巡礼−」
橋川裕之氏(ビザンツ史)
 「魂を穢す平和−ビザンツの信仰とリヨン教会合同−」
コメンテーター:川瀬貴也氏(日本・朝鮮近代宗教史)

実のところ、いままでイスラームやビザンツの専門家を呼んだりした事はなかったので、個人的には呼べただけでも満足である。それに、宗教史の専門家にコメントをお願いできたというのもまた、大きなメリットだったのではないだろうか。
内容だが、まず前半二人が巡礼にスポットを当てたもの。内田さんの報告はイマイチ解らなかったが、守川さんのものはイランからイラクへのシーア派信徒の聖地巡礼の心性を探るという、現在的話題としても通りそうな内容。ラストの橋川さんは、ビザンツとローマの神学論争を分析するという、なかなかタイトでヘヴィーな内容である。
聞き応えはあるし、非常に興味深くもあるが、その分だけ頭を物凄く使った。おかげで、冗談抜きで頭痛が何度も繰り返し起きた。そして、コメンテーターによる議論総括も極めて興味深かった。なにしろ、普段殆ど授業を聞かない人によるコメントだからね。下手すると報告者よりも難しい役どころだったと思うけど、川瀬先生ありがとうございました。
ただ、面白ければ面白いだけ、悔いが残った。今年の参加者は多い方と言って良いと思うが、情宣のシステムをもう少し確立していれば、もっと多くの学部生が来てくれたのではないか?
「この人には是非、この話を聞いて欲しい」
と思い当たる節が、何人も頭に浮かんだから、尚更の事である。
それに巡礼なんて、旅道楽にはたまらないネタである。何だかムラムラしてきて困る。まあ、聖地巡礼は「性地」巡礼でもある(爆)らしいから、別に「ムラムラ」してもかまわないかな?

懇親会では、報告者のうちお二人、およびコメンテーターのお相手をしつつ(玩具にされつつ?)、修士課程時代に同期だった人々とのトークを楽しんだ。ここでも頭をフル回転させた分、サッパリ酔いはまわらなかったが、楽しい一日であった。
報告者・コメンテーターの皆様、企画委員長のO氏、お疲れ様でした。


詳細はこちら:洛北史学会HP

5月31日

日本史のある先生に依頼され、短い文章を英語に翻訳する作業を行う。
ところがどっこい、安請け負いしてしまったものの、これが相当に難航するハメに陥る。理由は単純明快で、私の日本史に関する知識が著しく薄いのと、日本史に特有のシステムや用語(例えば「近世」とか「門跡」とか)を英語に変換するのが難しいためである。
そんなわけで肝心な箇所を英訳する事が出来ないまま、先生と二人で思案投げ首しながら、実に2時間半以上も時間をかけて何とか訳してみたが、感想は

「もとよりこれは試訳に過ぎない」

ああ、これでは私の師匠筋のある先生(一応名前は伏せますけど、関係者が見れば一目瞭然だよな・・・)の口調そのままになってしまうが、思わずそう言ってしまいそうになる。
まだまだ修行が足りないな・・・

5月26日

今日は二限、H.A.R.ギブ『アラブ征服期の中央アジア』の講読、担当がまわってきた。演習報告翌日だというのに、無茶も良い所だ。しかも、3・4限も英書講読の授業があるから、起床時には死にかけだった。こんな日にはチョコレートが欠かせない。
ギブの著作は、極めて読みやすい。ただし、凝った英文ではない、というだけの話であって、内容は極めてしんどい。これまでに得た知識をフル稼働しなければならないし、何よりもきついのはアルファベットの音価に変換された漢語を読まなければならない、というのがしんどい所である。

授業後、国際文化学科のt-kawase助教授の所に遊びに行ったら、30分ほど話し込んでしまった。まあ、抱えまくっていた報告の類が全て一段落したから、まあいいか。
蓄積した疲労の所為か、今日は咽喉がかすれきってしまった一日だった。

5月25日

PCをいじっている時間は長いが、この「消息」を更新する時間はない、というのが、ここ最近の傾向だなあ。
で、今週は、というと、今日の史学科院生全体ゼミの報告準備をしていた。
とは言っても、完全に手詰まりで、どの史料にあたるべきかと思案投げ首、という一番良くない傾向に陥っていた。実のところ、こういう時には必要か否かはさておいて、ひたすら史料に没入するというのが最も良いのだが、それをやるには時間が足りず、
「空間的な視野に固執するよりも、時間軸を広く展開した方がよい」
と思い至ったのが、報告一週間前。それでは、巧い事いくわけがない。何とか50分喋ったものの、質疑応答の最初の質問に巧く答える事が出来ず、哀れ爆発炎上してしまった。やはり、前回報告から殆どレジュメが変わっていないのが拙かったなあ。研究の軸の所を問われたのに、返答する事が出来なかった。
報告の題目に引き摺られた、やってはいけない失策だったな。

5月21日

髪を刈った。
初めて、自前のバリカンで刈ったのだが、イマイチ巧い事いった気がしない。
まあ、時期を勘案して(下記5月19日分記事参照)、12ミリの長さに丸刈りである。

5月19日

雨の中、北白川の京都造形芸術大学で行われている、旅仲間「チャリダー王子」こと本郷毅史氏の写真展、「喜望峰からの回帰録」を見に行ってくる。
昔の下宿の近くにありながら、私の記憶の範囲では、造形大の構内に入るのは初めての事である。何しろ、造形大に行く用事が無かったしね。
写真展の会場は、造形大1階のカフェの片隅にひっそりとある、「地球回廊」という小さなスペース。人が二・三人、横臥できるかどうかという僅かなスペースの囲壁に、これでもかとばかりに並べてある写真の群れ。

これは、サグラダファミリア教会だな。
ああ、これはブダペストだろう。
あっ、フンジュラーブ峠じゃないか。そうか、国境までは自転車で行く事が出来たっていっていたっけ。カラコルム・ハイウェイ、全線走破したいって、凄く口惜しがっていたっけ。
三年半かかったのか、私よりも四倍時間をかけたんだな。

ひとつひとつ辿りながら、私は胸が熱くなった。私もよく知る道の、あるいは知らない道での、彼の見てきた旅のエッセンス、その一欠片が散りばめてあった。

夕刻、抱えていた仕事がひとつ、取り敢えず一段落。今年6月3日に行われる洛北史学会大会の宣伝を、HPにアップロードする作業を行った。
成果のほどは、下記をご覧ください。

洛北史学会第八回大会

実はこのサイトの原形を作ったのは私じゃなくて先輩なのだが。
いやあ、形が美しくて、何とか原形を崩さないように、四苦八苦したのだ。
取り敢えず、面白くはなりそう。客が来ると良いのだけれど・・・

5月15日(アナウンス)

今朝、千葉で行われた第56回西洋史学会から帰ってきた。
帰宅した私の荷物がやたら重いと思ったら、藤縄謙三著『歴史の父ヘロドトス』が入っていた。おかしいな、何時の間に買ったのだろう・・・
ついでに、痔も何だか、痛みが酷くなっているような気がする・・・
取り敢えず、順を追って思い出してみるか。
回想の部分は段差を付けてあります。全画面表示でご覧ください。

それから、当HPをご覧になってくださる皆様方にアナウンスがあります。
昨年の年末より悪質化の一途を辿ってきた、当サイト掲示板への「荒らし」対策を、拙いながらも講じてまいりました。
しかし、それでは対応しきれない事態になった事を承知の方も多いと思います。
そこで、当サイト掲示板に書き込まれる際、URLの直接入力を全面的に禁止とさせて頂きました。
はるこ先生やレッツゴロー氏をはじめ、本当に有用なサイトを私に教えて下さる皆様には大変にご迷惑とは思いますが、なにとぞご理解を宜しくお願いいたします。

5月14日

本日は、専門に分かれての部会報告。
といっても、今年は古代史は中世史と合同で
「古代史・中世史部会」
となってしまっている。要するに、報告者として手を挙げた人が少なかった、と、こういう訳だね。古代史の報告者なんて午前中でフィニッシュしてしまった。そこで帰っても良かったのだが、夜行バスのチケットもあるし、何より午後の報告者の一人には、来月初週の洛北史学会大会でお世話になるから、報告を聞いておかねば、と思ったのである。まあ、半分くらいはこのような雑務の為に東京に行ったわけだし。

そんな事をやっていたら、秋葉原を回っている時間が少なくなった。

5月13日

夜行バスにて、東京・京成上野駅に到着。既にして睡眠不足でへろへろであり、山手線に乗って気が付いたら2時間が経過していた。
ひとまず神田神保町の宿に荷物を預け、古本屋街を彷徨う。神保町巡りなくして、東京に来たとは言い難い。ある古本屋で、ヘルマン・ベングトゾーンのGriechische Geschichteが5000円で売っていて、手にとって思わず懐をまさぐってしまい、苦笑しながら同書を本棚に戻して暫くしてから目に飛び込んできたのが、藤縄さんの本。
そうか、この時に買ったんだな。

で、11時過ぎには切り上げて、千葉大学へと向かう。総武線で水道橋駅から56分、千葉大学に到着する。
初日は公開講演、「世界史とヨーロッパ史」と題したものが行われた。歴史学は国民国家の枠を越えていく、というのが、樺山紘一・南塚信吾・高山博・秋田茂という報告者四氏の共通認識となっていた。なるほど、と思ったが、果たしてそれは、国民国家というシステムが必ずしも確立していない、あるいはその様なシステムがそもそも国家システムとして適しているのかどうか疑わしい東アジア・南アジア諸国間の関係においては、適切な議論なのだろうか?
6時まで公開講演の後、今度は東京に戻って、旅仲間S氏などと共に呑む。昨年年末以来半年ぶり、久しぶりに旅仲間と呑む酒は、格別の味であった。

5月11日

次回洛北史学会の大会案内発送の後、史学科大学院の全体ゼミ。報告者は中国唐代史と日本中世史だったのだが、専門領域外の報告で居眠りしなかったのは、かなり久しぶり。ついでに、質問したのも久しぶり。しょーもない質問だったが。再来週は、私の挽歌、もとい番か・・・
そして新「入院」(爆)院生の新歓コンパ。一ヶ月前にもやったような気がするが、気の所為だろう。非常に愉しかったが、呑みすぎた。

5月6日(客人をもてなす)

朝10時起床後、下宿の掃除に精を出す。体調は、昨日よりも余程良い。
掃除をしてみて、自分の下宿の汚さに呆れ返ってしまう。どれだけ要らないモノを抱えていたというのだ、一体。

で、1時過ぎに、うちの大学の史学科の2回生が4名ほど、拙亭を訪れる。私から供したモノはトルコのチャイくらいなモノだが、旨かったのかな、あれ。トルコで飲んだ時のような濃さと郷愁は、日本でいくらトライしても出せないのだが。
それにしても、楽しんでもらえたのだろうか?楽しんでくれたのならば良いのだが。あまりホストとして優秀であるという自信が無いので。あああ、しまった、言いたい事言い損ねた・・・

夕刻、京大西部講堂へ行く。年少の友人多数が参画している、ナントカ世代「ミナモ世代」を観てくる。バックパックを貸した縁で、ついフラフラと。ここの代表がバックパックを芝居で使用する時には必ず私のモノを使用している、というのはどうでも良い話である。芝居は・・・きつかった。静かな芝居だっただけに、芝居小屋を広く作るとしんどい。舞台の中央に針千本をぶちまけたのは物凄い愉しかったが。こういう小細工をもっと全体にちりばめたら、もっと面白い芝居になったのかな・・・

5月5日

体調が悪い。原因は、昨日・一昨日と、八条口のバイト先に釘付けであった所為だろう。さらにそれを加速させたのは、渋滞の所為だろう。もともと体調が不良で口内炎を抱えているのに、渋滞による乗り換え案内をし続けなければならないのである。3日に悪化した体調が全く回復しないまま、4日もまた案内に立つなんて、無茶も良い所。他にも言いたい事はあるが、敢えて言いません。
その悪い体調を引き摺ったまま、今日はみやこめっせに行く。本日は古本祭りの最終日、買い損ねたモノがないかを見回る。ハンカチが、鼻水であっという間に冷たく重く湿ってしまう。プトレマイオスの地理書の訳本があったけれども、1万5千円の価格を見て断念した。まあ、今回買った本を、何時読み切る事が出来るのかという問題もあるけれども。
そして、悪い体調のまま、GWを利用して京都に帰ってきている、違大なる珍友H氏を下宿に迎え、夕刻から下宿で呑む。さらに7時過ぎからは、府大近くの某所にて、三名にてドンチャン騒ぎ。こういうのをロクでもないという。
好天のおかげで、布団がフカフカになったのはよかった。

5月1日(体調は若干優れないが)

授業が無いのを良い事に、みやこメッセで今日から始まった春の古本祭りに行って来た。11時過ぎに入場したら、既に中は一杯の人。予算の都合もあって、締める所は締めたのだが、それでも買ったつもりの本が数冊、抜け落ちていた。ちなみに、欲しいのに諦めた本の合計金額は一万円は軽く超す。色々ありましたよ、著者寄贈の本とか時候の挨拶を記した書簡の挟まった本とか・・・今頃、殆ど売れているだろうなあ。大学の同僚も来ていて、何だかなあもう。
その後は、同行者と一緒に、名探偵コナンの映画を観てきた。アニメのコナンは久しぶりに観たが、やはりスタッフワークが良い。ついでに、私が未だ名古屋にいた頃から続いているアニメだから、声優が誰かが解るのが有り難い(笑)。だから、観やすかったね。
最近は全然読んでいないけれども、もう連載開始から十年を超すのね、あの漫画。どうやってオチを付けるのか、青山剛昌さんも頭を抱えている事だろうなあ。多分、フィナーレだけは決まっているんだけれども(そりゃまあ、新一と蘭の結婚式でしょ)、そこに到るまでの過程が組み挙がっていないんだろう。

それにしても、暑い一日だった。洗濯をしておいて良かった。良く乾いていた。

4月28日

火曜日よりこの方、体調がイマイチ優れない。喉が痛いのは風邪気味である所為だが、その風邪は寒暖差が日によってデタラメな程に違う事と、乾いた日の黄砂の為であるらしい。
で、今日は演習での報告。体調不良でも休んでいられなかったのは今日の報告の為だが、起きた時にはへろへろ。当たり前か。報告の内容は、今までの報告でやってきた事を、意味が通り易いように組み替えたものだが、それにしてもレジュメを作るのは骨が折れる。喉はかすれる、眠い、とボロボロだが、徐々に内容はマシになって来ているようだ。でも、終わった時には、やっぱりへろへろ。来週には古本祭があるのだ、此処で意地でも体調を回復させねば・・・

4月23日(月例映画鑑賞・番外編、「立喰師列伝」)

本日は本年度の属州研究会第一回。論文を(と言っても原稿用紙20枚ほどの小論であるが)会報に載せたら、20部ばかりもらってしまった。どうしよう・・・今日は主催である中井先生が帰国されてから最初の会合であるので、帰国祝賀の懇親会が催された。

その後TOHOシネマズ二条へ。レイトショー時間枠で、押井守監督作品の
「立喰師列伝」
を観に行く。ネット上のCMを見る限りでは、物凄く怪体そうな作品だったので、敢えて誰も誘わずに一人でフラリと行った。
一言で評すると、
「何この映画?」
・・・要するに、訳がわからない。私は眠くなるし、客は少ないし席を立つ人は後を絶たないし・・・キャスティングは豪華なのだが、日本最高の裏方さんのオン・パレードという、私のような悪趣味な人間が喜びそうな類の豪華さだから、これは訳が解らないのは当たり前。隣の席を見たら、おっさんが居眠りしていた。怪体な映画だったなあ・・・「莫迦」と言っても良いか。

4月22日(オタクとウヨ・サヨ論争の怪体な共通項)

私がいる大学の研究室内では、私は「オタク」という事になっている。
まぁ、確かにアニメは好きだし、最近のオタク用語には他の院生よりも精通しているし、東京ビッグサイトには行っちゃったし、オタクであると言ってしまっても良いんだが・・・厳密にいえば、私は自分ではオタクではないと考える。
というのも。
私は受験で四苦八苦していた1996年以降、2002年頃までは明らかにオタクをやめていた。この時期はテレビでアニメを見る機会に乏しく、自然、オタク的な行動から離れざるを得なかったのである。裏を返せば、高2までは自他共に認めるオタクだったのであるが。
ところが、そのオタクをやめている間に、オタクの定義が変わってしまった。具体的には、それまでオタクの一つの典型というべき存在であったガンダム・マニア(略して「ガノタ」といいいます)が、オタクから離れてふつうの趣味を持つ人として、つまり「一般人」の方向にシフトしていった一方で、オタク(こちらは稀に「逸般人」といいます)の主流が
「萌え」
に移行していたのである。最近アニメ大好き人間に復帰した私だが、未だに私は「萌え」に重心を置く事が出来ないし、イマイチ最近のオタクには付いていけない。そんなわけで、自分はオタクではない、と定義せざるを得ないのである。
もっとも、そんな事は、他の人から見たらどうでもいい話であり、私の事は相も変わらずオタクとして見られているのである。

で。
この図式を何処かで見たなあ、と思ったら、何の事はない、右翼と左翼の自己規定の為の不毛な喧嘩の図式にそっくりだ、と思ったのである。どちらも自身の立場の正当性を信じ、グレー・ゾーンもしくは「中道」を認めないが、少し離れた所から見たら、その偏狭性、もしくは原理主義的な体質は、滑稽でもあり危険でもあるものとして映るだろう(例えば、自身が「グレー・ゾーン」の人間であると考えている、私のような人間にとっては)。
オタクであるか否かという議論も、左翼vs右翼の議論も、自身の立ち位置を確認する作業としてはそれなりに有効であるが、それを越えた所で、すなわち他者を規定する議論としても有効な「真理」である、と盲信すると、視野狭窄との嘲笑を免れまい。
つまりは、異なった角度から眺めた時に自分がどう映るか、と考える視線を有する事が重要、という事である。

4月18日

西洋文学の加藤先生から著作を頂く。『シュトルム・回想と空間の詩学』というのがタイトル。いやあ、私も先生から著作を頂く身分になったか、と感慨にふけったりは到底出来ないのが哀しいところ。
取り敢えず吃驚するのは、今時の学部生は、この三千円しない本を
「高い」
と評するのだそうな。それでは本など買えないではないか。

授業後は史学ゼミ第一回ミーティング。まあ、顔合わせだな。新入生が来て良かった。

4月16日

昨日が一日中バイトで、そこの夜勤明けの今日は、当然ながらヘロヘロ。加えて、今日は晴れの予報だったのに、夕刻に強烈な雨が降った所為で思い切り萎えてしまい、それ以降も調子が出なかった。そこに、友人そーちょーから誘いを受けてホイホイと乗ってしまって、四条川端で一杯やってしまう、救い難い私。大丈夫か?私の肝臓は。
酒と、久しぶりに三条京阪のブックオフに足を運んだ事が、今日の癒しの清涼剤だな。

4月14日(学部生との貴重な交流会)

最近、全然勉強していないなあ・・・本業以外の事に(それも、公言は控えた方がよいような事に)、時間を取られすぎ、という事にしておくか。
今日の授業は2限、京大から非常勤で、中央アジアのイスラームを専門にしている稲葉先生が来られたのだが、欣喜雀躍しながら授業に出ると
「彼が色々とお世話をしますので」
とうちの先生が私を指さしながら仰る。よろしくお願いします、と言ってしまったのが運の尽き。その後、せっせとテキストのコピーを黙々とやるハメに陥る。こんな事をやっていりゃ時間もなくなるというわけだ。哀れなるかな、愚かなるかな、我。
実際問題として言えば、この授業を除けば、イスラームを専門にする授業ってのは府大にはないから、極めて貴重な機会だし、中東を専門領域としている人間としては、出ないわけにはいかない。

雑務に逐われる中、今日の放課後は史学科のタテコン、すなわち学科の交流会。1回生から4回生、そして教員陣が参加する一大呑み会に、喚ばれてもいないのに飛び込みで参加してきた。なかなか学部生と交わる事が無い院生としては、このような機会は貴重なのだ・・・が、連絡来ていないから、院生は私しか参加しなかった。途中で離脱してきたが、若々しい力に溢れる学部生たちのパワーに触発されてスパークし、6時間ばかり喋りまくっていたら喉が痛くなってしまう。翌日はバイトだというのに、相変わらず莫迦である。
それにしても。
皆、若いな・・・私にも、彼らのように春秋に富む時期があったのだなあ・・・
今しかできない事、それに思いっきり没頭して欲しい。大人しくまとまらないで欲しい。莫迦をやって欲しい。きっと、後悔はする。でも、満足感の方が大きいだろうから。

4月11日(桜が散る前に・・・華のうちに・・・)

本日は、大学院のガイダンスの後、花見をやるはずだったが、全ておジャンとなった。そりゃ無理だろう、強い雨に強い風が叩きつける天気だったから。
花見の代わりに、新入生たちを交えての食事会・・・のハズが呑み会になってしまった。いろいろ、新しく入ってきた院生たちの面白い側面を眺める事が出来て、非常に愉しかった。

4月9日(時事・真面目・不真面目・軟派な話題)

アメリカとEUが、パレスティナ自治政府への資金援助を停止したらしい。
これでアメリカは、民主主義の守護者という「正義」を、公然と自ら放棄したわけだ。だって、自治政府の現政権は、紛れもなくパレスティナの民意によって選出されたのだからね。それに対する支援を停止するという事は、民意を得た政府を見捨て否定するという事になる。
このご都合主義、ちょっと見過ごされがちだが、銘記するに足る事件であろう。

そんな事を思いながら、今日の昼はサッカーにうち興じていた。久しぶりにグラウンドでやるサッカーだが、以前使っていた靴が何処かに行ってしまったので、この年齢にして生まれて初めてスパイクなるものを買ってしまった。さすがに違うモノですな。グラウンドでの動きが、まるで違う。走り易い事この上なかった。

で、夜には晩飯を食べながら、先週分の世界遺産・空から観る万里の長城を観ていた。スペシャル版という事でナレーターを普段とは違う人にしていたのだが、これが何と高倉健さん。吃驚悶絶。健さんのナレーションを聴きながら観る世界遺産、最高でございました。

ところで最近ハマっているのが、友人から借りた「かしまし〜ガール・ミーツ・ガール」というアニメ。いやあ面白い。ふざけているのか真面目なのかサッパリ解らんが、設定がぶっ飛んでいて、あかほりさとるの本領発揮である。

4月8日

外は黄砂が吹き荒れる強風の一日。桜は大丈夫かな?と心配していたが、まだまだ残っている。当分、大丈夫そうだ。
風の所為、という訳でもないが、今日は下宿にこもって片づけをしていた。これまで冬季仕様の為にコタツの周りに本が積み上げてあったのを本棚に戻し、人が来ても困らない状態に戻すのが目的。
これが、大変だった・・・
冬の間に本が増えたという事を、改めて実感せざるを得なかった。
本棚、次はいつパンクするかな・・・

一息吐いて、府大に出てみると、下鴨劇場の2回生たちがお喋りをしていたので、混じってお喋りをしてきた。若い子たちと話をするのは愉しい。

4月6日(月例映画鑑賞vol.V「Zガンダム−時の鼓動は愛−」)

昨日、ようやっと「ZガンダムV−時の鼓動は愛−」を観てきた。本来であれば1日に視る予定であったのだが、緊急事態の為にこの日になった。同行者にも無理をきいてもらって、非常に有り難い次第。

さて、一応劇場版Zガンダムはこれで終了という事になるが、観終わった第一の感想は、
「ああ、富野さん(由悠季監督)、ZZがよっぽど嫌いだったんだな」
という事。今回のような「ファ・ユイリィ・エンド」で、しかもアクシズが平和のうちに兵を収めるという展開だと、ZZは存在しようがないもんね。ZZという作品では、富野さんの愛弟子の永野護先生が、直前になって(スポンサーの意向で)メイン・デザインから引きずり下ろされるわ、モビルスーツのデザインがやたらに無骨で不格好だわ、とまあ、かなり無茶苦茶だったからな。

次に、一番ビビッたのは、カミーユが狂わなかった事。Zが「救われない」作品として今まで物議を醸し続けてきたのは、主人公カミーユが狂ってしまうからだからね。勿論、ZからZZに続ける為には、カミーユを狂わせるしかないだろう。カミーユは、主人公として一年以上最前線を張り続けるには、あまりにも重い。だからジュドーというポジティブで明るいキャラに移行せざるを得なかったわけだ。しかもアクシズが巨大な戦力を残したままだったから、終わるに終われない。だからこの映画版では、
「何時、我が麗しきキュベレイが沈むのか」
とハラハラし通しだったのだが、結局はアクシズが矛を収めて、幼い当主を地球留学に出すという、なんだか現在的な描写になっている。

最後に、Zという作品全体の、「ガンダム」世界全体における役割というモノを、改めて考えてしまった。ガンダムといえば、雑誌名にまでなってしまった
「ニュータイプ」
論であるが、ニュータイプがある種の「エスパー」的存在としてのイメージを確立したのは、この「Z」なのだな、と感じた。世にあまたあるガンダム研究の中で、この作品を
「中東情勢の実情をいち早く精確に見抜き批判した、とてつもなく先見性にあふれた作品」
として評価しているモノは少ない。そこら辺をデギン・ザビ風に言えば
「ジオニズムはシオニズムの尻尾だな」
となるわけだが、初代ガンダムの終盤からZガンダムへ移行する中で、このような現代情勢批判という側面は、「ニュータイプ」の持つ意味の変化とともに背景に押しやられ、余程気をつけて観察しない限り、見え難くなってしまっている。功と罪、いずれの方がより大きいのか、何とも結論は述べ難いが、その様な見方をする事も可能なのだ、という事だけ申し上げておきたい。

一番感動したのは、セイラさんが最後に喋っていた事。声を当てていた井上さん、あの世に旅立ってしまったのに、わざわざライブラリーから声を拾い上げてきてセイラさんを喋らせてくれたくれた、その手配りが物凄く嬉しかった。

4月2日

急遽、強制招集が実家からかかった為に、昨日・今日と、帰省していた。
本来は春休み中は実家に帰る予定は皆無だった(というより不可能になってしまっていた)のだが、これもまた天命というモノだろう。
それにしても、慌ただしかった。おかげで、先週以来の睡眠不足がサッパリ解消されていない。きちんと睡眠を取って、新年度に望むとしよう。

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