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3月31日

曽祖父母の五十回忌ということで、実家に帰ってきた。この春休み中、実家に帰るのは三度目のことになる。うーむ、次に帰るのは夏休みですな。

もう桜も満開です。先日、府立大学のグラウンドで花見をしながら昼寝をしました。最高の気分です。

3月23日

昨日、卒業式が終わった。くどいようだが、同期よりも1年遅れである。
せめて、天気がもう少しよかったらな・・・
悪友たちの肖像」で公開しているのと同じモノを、今年も着てみた。莫迦ウケした。史学科の先生方も、大爆笑していた。貸してくれた、友人みよちゃんに感謝。
「卒業式は目立たなきゃ損」
というのが、下鴨劇場1期生男子の合言葉だったが、今年は最後に残った私がそれを実践したということである。
それにしても。
よく卒論書けたものである。よく卒業できたものである。

謝恩会は、派手でなく地味だったが、手作りの味が出ていて、良かったのではないかと思う。

3月18日

東京遠征から帰ってきました。以下に、概略を書きます

 15日
  夜行列車「ムーンライトながら」にて東京到着。指定席券を取っていなかったため、連結部 付近ドア開閉部にて根性で耐える。当然着いた頃にはへろへろ。
  荷物は新宿駅コインロッカーに預け、山手線に乗って、椅子に座って気が付いたら時計が 1時間進んでいて焦る。神田神保町と秋葉原の電気店街を彷徨。非常に愉しいひと時。
  夜は厚木の伯母の家に投宿。
 
 16日
  靖国神社と国会議事堂を見学した後、渋谷を徘徊した後、ユーゴ訪問時の同志の一人、 庄司君と再会し、有楽町から渋谷までを、徒歩にて散策。軽く2〜3時間は歩きました。

 17日
  友人たるt.saito氏の華燭の典に列席。
  心中に、天地の神々に祈る。
  我が友夫妻の行く末に平安を、我には旅を賜らん事を、と。
  そしてその日のうちに夜行列車で帰京。

 18日
  京都に到着早々、京都外国語大学に科目等履修生の願書を提出。

うーむ、無茶しとるなあ。まだまだ若いということで。
確実なのは、体脂肪が著しく減少したであろうことのみ。    

3月10日

実家で、厄払いの行事に参加してきた。地元に残ったわけでも無いのに参加する物好きは私だけだった。当たり前といえば当たり前か。
この行事、毎年行われるわけだが、色々区分けがあって、私は「二十五厄」。それ以外にも数え年40代前半の人たちの「本厄」、その他いろいろエトセトラ。それを一緒の日にやるわけだが、二十五厄は参加者が集まら無かったという年もあるらしい。去年もやらなかったらしい。一昨年は、私の兄貴がしっかり参加していた。
で。
スーツを着てみた。・・・やはり似合わぬなあ。

3月8日

バイト先の有志数名にて、徳島県に行ってきた。讃岐うどん食い倒れツアーである。食いすぎで腹が・・・
讃岐では、右翼の宣伝カーを見たが、京都のと違い、理路整然と共産党を弾劾するので、なんだかのんびりしているな―とほのぼのしてしまった次第。

3月4日

バイト先の飲み会。火傷をした人がいたり酔っ払って大騒ぎする人がいたり、私は火事を消すのに必死だったり、賑やかなひと時でした。

2月24日

一年間、中国の西安に日本語教師として赴任していた、下鴨劇場で同期(一期生)の、須磨佐也加が帰国した。当然嬉しかったのだが、ついつい、彼女の姿に1年前の自分の姿がダブった。いったい、どういう気持ちで皆は待っていてくれたのだろう。佐也加の場合は、中国という比較的近くにあってアクセスも容易な国だから、いわば
「その気になれば、何時でも会える」
という感情があった。つまり、ある種の「安心」が、日本で待つ側には存在した。
一方の私は、
「何処に在るんだその国はその街は一体」
という、「得体の知れないところばかりを訪ね歩く」「危ない」旅を続けていたというイメージを持たれているから、一概には比較できないだろうが・・・
ただ、私の場合、日本から送られてくるメッセージが、どれほど心の支えになったのか、心の癒しになったのか・・・計り知れぬといってよい。
いずれ、そのこともまたじっくりと話す機会が在るだろう、佐也加とは。

2月21日

成績表の交付を受けた。単位を計算してみたところ、卒業単位は全てそろっていた。これで卒業はほぼ確定的になったといって良い。
そして、写真集の大幅改定。これで、「シルクロード横断」編は、ほとんど完成。それにしてもパキスタンの写真が多い。ヨーロッパの写真が無い。

2月19日

今日の印象に残る言葉。
「人は自ら老いるものではない。周囲が老いさせるものである」(今西師匠)

2月17日

近々引越しをする後輩の下宿に、遊びに行った。目的は、彼女の所有する、CD/MD/カセット/ラジオの四種機能を備えたコンポである。それを利用して、外国語のカセットテープをMDに落とすという作業をしていたのである。音響屋としては、自宅にカセットデッキを所有して居無いのは、ある意味屈辱であるが・・・
その際に聞いたのが、下鴨劇場のOB会のホームページが出来たという事。早速アクセスしてカキコを入れて見たりする。

2月14日
 
下宿に後輩が来て、私のパソコンは後輩約二名の玩具と化していた。哀れ。

2月12日

今日、卒論の口頭試問があった。外国史で卒論を書いた学生の場合、東洋史2人・西洋史2人の、計4名の教員の試問に答えなければならない。恐怖である。私の卒論は、付属資料として旅行中に撮りためた写真を用いているのが最大のウリだが、おかげで思わぬ副産物を生んだ。。
以下は、その最終段階での状況の実況中継である。主にネタになっているのは、付属資料として用いた、私の写真である。
「この写真は、君が撮ったものなの?」(某助教授)
「はい、まあ、全部僕が撮ったものです」
「この写真、もらえんもんやろか」(某教授)
「でしたらインターネットで公開中ですんで・・・・アドレス教えましょうか?」
かくして史学科の先生方に、我が「洛北孫子亭」は、住所を後悔、もとい、公開された次第である。

2月9日

再び大幅に更新。一番衝撃的なのはやっぱりボスニアの写真かなあ。それとも、相変わらず「暴走また暴走」なのかなあ。
昨日、少し事情があって、京都駅から下宿まで歩いて帰ってきた。0時に出発して、実に2時間掛かった。こんな夜遅くに歩いて帰っても平気とは、日本は平和な国である。

2月1日

東京行きを断念した。金欠である。

最近は軍事関係の本とパソコン関係の本を買い漁る日々である。ドクターサーブ(ペシャワール会の中村哲医師)に関連した本がほしいとも思う今日この頃である。

1月30日

祝!新掲示板開設。

1月29日

今日から後期試験である。私は2回生に混じって日本美術史の試験を受けた。これを含めて8単位、加えて卒論諮問を突破しなければ、卒業式に出席できないのである。まあ卒業式用の衣装なんて去年と同じなんだが・・・母が出席すると言っているし、果たしてあれ着ていいのかな。
そうそう、かねてから公言していることだが、W杯の時期は中国かパキスタンに行くのである。しかし今日、さっそく「待った」が掛かった。同期の某F女史が「5月末までは海外渡航禁止」とのたまった。おいおい。

1月23日

二年ぶりにボウリングをやった。4ゲーム投げたら腕が痛い。

1月12日

卒論を提出した後、10時間ほどぶっ通しで寝たら頭が痛い。
で、昨夜は、同じく卒論提出を終えた京大のT2氏や総長氏と四条川端某所の飲み屋で卒論打ち上げ。おお泥酔。飲みすぎ。以上。

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