三度目のエジプト


@ イントロダクション
A 初めてのツアーへの参加が決まるまでの事
B シンガポールでのトランジット
C 再びのカイロ
D 夜明けの騒動とルクソール
E 最終節〜カイロ発、シンガポール経由、日本へ



@イントロダクション
「『地球の歩き方』って、なんか書き方がエラそうだし、使える情報が少ないし、使えないよね」

ツアーに参加して5日目、ナイル河に浮かぶレストランで豪華な昼食を食べていた時の事。我々一行が食事をしている、隣のテーブルで食事をしていた一行の会話に、私は密かに激怒した。

こいつら、旅に必要なガイドブックの定義をなんだと思っているんだ。

ガイドブックに必要な情報というのは、宿と目的地へのアクセス情報、これが群を抜いて第一位を占める。買い物だのレストランだのといった情報は、はるかに必要度が落ちるのだ。 『地球の歩き方』エジプト編が必要ないと思うのは、あんたらが、ガイドブックを必要としないツアーという手法を選択しているからだ。

そう説教を垂れようとする感情を、私は密かに押し殺した。おそらくは、私の主張は彼らに受け入れられる事はあるまい。ツアーというのは、こういうものなのだ、と、自分に言い聞かせた。

『これは、私の旅ではないんだ』

このツアーで何度目になるか解らない、そんな論法で自分を納得させざるを得なかった。
それにしても、自分がツアーにそぐわない人間であるという事は既に承知の事だったが、それにしたところで当初の想定をはるかに超えていた。全く柄にあわない5つ星ホテル、現地の物価基準とはかけ離れたレストランで食べる食事・・・ 私のフラストレーションはたまる一方で、些か凶暴な気分と絶望の入り交じった、非常に不安定な状態に陥っていた。
何だってツアーに参加する事になったのか。『私の旅ではない』という泣き言とともに、改めて振り返らずにはいられなかった。

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A初めてのツアーへの参加が決まるまでの事
2006年の10月第一週、例年通りに村祭りのために帰省した時の事。叔父が私に、こんな話を持ちかけてきた。

「今度エジプトに行くツアーに申し込むんだけど、おまえも一緒に来い」
「え、またエジプトですか?」

ほざく私の横では、妹がむくれていた。本来は、妹が叔父について行くはずだったらしいが、仕事があるから無理という事になったらしい。
一方、誘われた方の私は複雑な気持ちであった。何しろエジプトは、すでに二度も渡航している。 未だアスワンやシナイ山といった名所を数多く残してはいるが、すでに行くべき所は行き尽くしたと思っていたから当然だ。
それに何より、私はツアーというものに対してアレルギー意識が強い人間である。

「何だって、日本の外に行く時まで、団体行動をしなければならないのか?」

と、平素に放言する人間が、ツアーに誘われて戸惑わないはずがない。 しかも貧乏性で、ツアーで泊まるような高級ホテルの個室に泊まった事など、最初の中国旅行の、それも初日以来、経験していない。 日本ですら、大人数部屋を泊まり歩いてきた人間だ。

結論から言おう。私は、エジプトにツアーで行っては絶対にいけない類の人間なのである。

ただ、この理屈はおそらく周囲には理解されないだろう。おそらく、エジプトに随行者として連れて行くには最適の人間・・・と、そう見られたのではないかと思う。 それに、ツアーへの出発日等は、私の都合に合わせてくれるという。
そんなわけで相当に困ったのだが、結局は行く事にした。出発は、私の都合に合わせて3月初旬という事になった。

11月末、叔父は紅葉見物がてら、ツアーについて打ち合わせるために京都に来た。ツアーの日程表を改めてじっくり眺めて、私はお茶を吹き出しそうになった。

何だ、このタイトな日程は?

エジプトについていきなりギザ観光・・・いや、それは良い。ギザで宿泊って、あそこには何もない。 というか、市内中心部から離れすぎていて、スーク・タウフィキーヤ(スルタンホテル・サファリホテルのある界隈)を訪問するために、夜に宿を抜け出すという事が出来ない。
しかも翌日には早朝の飛行機でルクソール行きとは、そりゃ無茶すぎる。というか、飛行機で移動するんだったら、ギザじゃなくて、最初っから最終日の宿である市内中心部のラムセスヒルトンにでも泊まれ!
それから、行きと帰りのシンガポール、これがどう考えても邪魔、というか無駄だ。私はシンガポールに行った事は一度もないが、見所が皆無であるというのは、一部では有名な話で、私もその点に関しては精通している。

・・・という具合に、いきなりダメ出しの連発であるが、そうは言っても仕方がない。それよりも、3月だったら都合が良かったはずなのに、その3月にも大学の仕事が続々と入ってしまい、目の回る思いをしながら 「エジプトに行くのなんて、無理なんじゃないのか?」 とすら思い始めていた時期である。そして年が明けて2007年2月、突然に出発が一週間遅れるとの旨を告げられた。 そんなこんなで最初から波乱含み、心の準備などという殊勝なものは皆無のまま、出発前日に荷物を手持ちのソフトキャリーケースに適当に詰め込んで、実家に帰省する事になった。旅行に必要なものは、結局出発前日に名古屋の大須で揃える事になった。

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Bシンガポールでのトランジット
3月11日早朝、叔父が私を実家に迎えに来る。まずは名古屋駅まで出て、そこから名鉄特急で中部空港、別名セントレアに出る。ちなみに私の実家は名古屋空港の旧国際線ビルから歩いて5分という場所に位置しているが、私は一度も利用した事がない。逆に妹はしばしば利用したみたいであるが、何しろ名古屋は関西空港に比べると航空運賃が高いのである。そこのところはツアーだと問題にならないのだろう。 そんな事を考えながら、電車の中では叔父からガイドブックを借りてパラパラとめくっていた。

そう、渡航前日に揃えた
「必要なもの」
の中に、ガイドブックは入っていない。理由はふたつ。
ひとつは、私が今回エジプトで行くような所は大体、すでに一度足を運んでいるからである。
もう一つの理由は、基本的に、ツアーにはガイドブックなんて不要だから。何より、『地球の歩き方』エジプト編は、個人旅行には不可欠な貴重な情報を豊富に含んでいるが (ちなみに、『地球の歩き方』のシリーズも他のモノは情報の劣悪化が進んでいる。エジプト編は、未だ良心を保っていると言って良かろう)、ツアーには不要だ。
しかし、叔父の持って来ていたガイドブックは『歩き方』ではなかった。

『しまった、一昨年の版の『歩き方』を持ってくれば良かった』

と内心で舌打ちをしていると、電車はセントレアに着いた。到着は、フライトの2時間半前。まあ、妥当な時間かな。

ツアー会社のカウンターで搭乗券などを受け取り、搭乗手続きを取る。暫く空港内の待合室で待機した後(ツアーで旅行の場合には、空港内の特別ラウンジが提供されるらしい。無論、これも初体験)、シンガポール航空・SQ671便はセントレアを発つ。この便も結構、きつい。何しろ、シンガポール・ドバイと、二カ所もトランジットするのだ。離着陸が大の苦手である私には、殆ど拷問のような路線である。
そんな息も絶え絶えの状態の中、シンガポールに着いたのは、ほぼ定時の現地時間16時。シンガポールを発つのは23時30分であり、その間の時間を利用して、オプションのシンガポール・ナイトサファリツアーに出かける。

ここで日程表をじっくりと見直して、何となくこのツアーのカラクリが読めてきた。
まずシンガポール航空であるが、わざわざ自国にトランジットする時間を多めにとって、その間に利用客が強制的に観光せざるを得ないようにし、自国に金が落ちるようにしているように思われる。 ツアー会社などは、そのシンガポール航空の意のままに、ツアーの日程の中にシンガポール観光を組み込む、と、そういう構造になっているのであろう。従って、シンガポール航空を利用するツアー会社は、航空運賃で相当な便宜を図ってもらっているに違いない。
そんな事を思ったのは、シンガポールでの観光ガイド・ジャックの態度の所為かもしれない。訛りは結構きついが流暢な日本語を駆使するジャックは、完全なるインテリでありながら、同時にシンガポール国家に対して絶対的な信頼を寄せている事を、まったく包み隠す様子がない。

『日本のインテリがこんな姿勢を見せていたら、右翼扱いだな』

そんな事を思いながら眺める窓外の、緑の濃厚な光景に驚く。国民の殆どが、国営の集合住宅に住まわされており、一戸建ての住居は金持ちしか所有できないらしい。なるほど、下町が見当たらない。

・・・そんな国で、観光なんかしてもおもしろくないんだが・・・

そうはいっても、観光にも力を入れているという事は、ナイト・サファリツアーに出てみてよくわかった。緑の濃い特性を活かし、その一区画をサファリパークにしているのである。しかしこれは、これから巨大な文化遺産見学のためにエジプトを目指す一行にとっては、どう考えてもミスキャストだな、と、そんな事を思いながら、とっぷり暮れた街を抜け、空港に到着した。

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C再びのカイロ
飛行機の中で日付は変わり、翌・3月12日、飛行機はカイロ空港に到着した。空港に到着してまず違和感を覚えたのが、全てが人任せである事。ビザの取得がエージェント任せだったのはともかく、入国ゲートをくぐった後、荷物をポーターに運んでもらうところで、ものすごい気持ち悪さを覚えた。言うまでもない事だが、これまでの旅では、自分の荷物は自分で運ぶ(担ぐ)のが当たり前だった。それが、ツアーでは人に運んでもらうのが通例なのである。新鮮であるが、爽快感は欠片もない。言うなれば、

「新鮮な気持ち悪さ」

とでもいうべきものであろうか。ああ気持ち悪い。
そんな私の違和感に周囲の人は気付く由もなく、一行はバスに乗り込み、カイロ市内へ。窓外のカイロの光景は、気持ち悪いほどにカイロだった。 気持ち悪さの原因はハッキリしている。海外にいるのに、旅行の仕方を知り尽くしているエジプトの来ているというのに、自分がツアーに参加し集団行動をしているという、それが耐え難いほどの居心地の悪さを生み出しているのだ。
カイロ市内を突っ切り、バスは初日の宿、ピラミッド・パーク・インターコンチネンタルに到着する。この宿では、翌日にとんでもないトラブルを起こされるのだが、それはまた後で述べる事になるだろう。

さて、到着早々であるが、宿の部屋に荷物を放り込むと、目の前に君臨する3つの玉座、ギザの三大ピラミッド見学に出発する。 カイロ市街からバスで訪問する時にはスフィンクスの正面から入るのだが、団体は別の所から入り、最も大きいクフ王の大ピラミッドの目の前にバスをつける。そして、殆どすぐにピラミッド内に入る事に。
ところでツアーだけあって、ホテルからガイドが合流する。我らが一行のガイドをするのはムスタファというのだが、これがエジプト人らしく、縦にも横にも巨大である。で、玄室(王の柩が安置してある部屋)にも同行するのかと思いきや、
「私はこの中に入れません」
体が大きい所為、ではない。ガイドは王の墓室には入れない規則があるのだという。 かくして、我々一行は、ピラミッドの中に突入。来ていきなりピラミッド内に入るのだから、感慨に浸るヒマもないが・・・
さて、現在開いているピラミッドの入り口は、アッバース朝の名君、アル=マームーンが掘らせたものであるという。この通路は狭いのだが、そこから大回廊に抜けると、俄然、道が広くなる。 見上げてみれば、天井にいくにつれて、道は狭くなっていっている。そして玄室内には、相変わらず空の石棺が横たわるのみだった。
大ピラミッドを見た後、他のピラミッドを見学する、のではなく、三大ピラミッドを見渡す事ができるパノラマビューポイントへ連れて行かれる。 ここには、昔はピラミッド周囲にたむろっていて評判が悪かった土産物屋や駱駝乗りが集められている。

駱駝に乗って喜ぶ他のツアー客を尻目に、私の視線は、ずっと三大ピラミッドに注がれていた。このまま、化粧石にヒエログリフが彫られているメンカウラー王のピラミッドを見ないのは勿体ない、と思いながら。
しかし、私の思いを裏切るがごとく、我々を乗せたバスは、我々をスフィンクスの目の前に運んだのである。ちなみに個人で来る場合には、カイロ市内からのバスはこのスフィンクスの目の前につける。そしてここから入場するのだ。
それはさておき、スフィンクスを見てしまうと、バスはさっさと昼食のレストランへ行く。確かに昼飯時だが、

未だピラミッドが2つ残っているぞぉ!

そんな心の絶叫はさておき、ここからが、個人旅行とツアーの最大の違いを露骨に示す時間帯だった。
まず、昼食は、ピラミッドを見る事ができるレストラン。此処では昼食の時に別途ドリンク代というのがかかる。まあ、確かに生水を飲むのは危険かな、と私が思うのは滑稽の限りだが、そのお代を聞いていたら凍り付いた。 凍り付いた理由は、このレストランでの価格設定と市価を併記しますので、そこから類推できるかと思います。

ステラビール(エジプトの地ビール)が25エジプト・ポンド、略してエジポン(市内相場の5倍強)、オレンジジュースが10エジポン(市価の3倍強)、水500ccがやはり10エジポン(市価の10倍以上)、・・・etc.

という具合で、私は次第に唖然から愕然へと表情を変化させていった。エジプトの物価を知っている人間にとっては、文字通り水も喉を通らなくさせるような価格設定である。 如何に叔父にカネを出してもらっているとはいっても、実際の物価を知っている私には、ビールをねだる事はとうてい出来なかった(ちなみに叔父は下戸である)。

そして、ツアーというものの本質をこの時、深々と悟った。
すなわち、受け入れ側(この場合はエジプト)としては参加客というカモから如何にしてカネをふんだくるかという事が肝要なのであり、送り出す側(日本の旅行会社)は、それと承知で片棒を担ぐ、という構造である。 そのためには、客が無知であればあるほど都合がよい。ちなみに、今回のツアーでエジプト側のエージェントであるバヒ・ツーリズムは、エジプトで最大の旅行会社との事である。
この時、事のついでに、このツアーという旅行手法を推奨する日本という国にも絶望した。国際化が聞いて呆れる。ツアーで海外事情に精通する人間を作る事が出来ると、果たして考えているのだろうか。

そんな事を考えていたら、次に連れて行かれたのはパピルス屋だった。

ところで、ツアーでは必ず一日一回は土産物屋に連れて行かれるんですが、なぜだかご存知ですか?それは、本来ツアーで設定されている金額だけでは赤字が出るので、こういった土産物屋にツアー客を連れて行く事によって、土産物屋からマージンを得て、それで収支が見合うようにしているのである。 これは、秘密でも何でもなくて、岡崎大五氏の一連の著作、添乗員騒動記シリーズで堂々と暴露されている事実である。ちなみに添乗員さんはツアーの添乗では色々と付帯商売をするみたいで、それは後の方で述べるだろう。ちなみに私の知人には洋物のエロ本の運び屋をやっていた人もいるけど・・・

閑話休題。

パピルス屋を出た後(私が何か買うなんて思ってもらったら困る)、バスはメンフィス、続いてダハシュールへ。どちらも、私は行った事すらない。こういう行き難いところにパッと行けてしまうのは、まあツアーの利点ではある。 メンフィスは、つい最近までカイロのラムセス中央駅の駅前に君臨していたラムセス二世像が発掘されたところで、エジプト古王国時代の都。ちなみにこのラムセス像は対になって神殿を守っていたものであり、現在でも破損の激しいラムセス像が横たわって安置されている。
ちなみにラムセス駅前のラムセス像(面倒くさい言い回しだな)は、手狭になったカイロ考古学博物館が移築されるギザに、一足先に、移築予定先に行っているそうな。
そしてダハシュールはクフ王の父で最初の四角錐形ピラミッドを建設したスネフル王の赤ピラミッドと屈折ピラミッドがあるところ。しかし、赤ピラミッドの近くまでは行ったものの、屈折ピラミッドまでは行けず。 すぐ目の前なんだから、ちょっと足を伸ばすだけなのに・・・という心の声はぐっと喉の奥に押し込む。魂の絶叫を仕舞い込むという苦行は、この日あたりから本格化したのである。写真で見るよりもはるかに優美な赤ピラミッドのたたずまいのみで満足せざるを得なかった。
そして、バスはサッカーラへ行く。このサッカーラは一昨年、私が行き帰りに一日かけたところである。しかし、ツアーである。そんな一日もかかるわけがない。最古のピラミッド・ジェセル王の階段ピラミッドは、相変わらず修復工事の足場が組まれていた。 地震で一部が崩れ、玄室への立ち入りが禁止されているとの事だが、それにしてもエジプト、意外と地震が多いな。ひょっとして、アスワン・ハイダムによる気候変動と関連性があるのかな。

比較的ゆっくりと階段ピラミッドで見学した後、一行はピラミッドの近くにある絨毯屋へ。胡散臭い日本語が外壁に書いてあるところで、そういえば2年前も通ったっけ・・・まさか自分がこの中に足を踏み入れるなんて欠片も想像していなかったが。
作業工程を見学し、その後はシャイ(チャイ)を飲みながら商談、となったはずが、何故か私は日本語が喋れる店員と政治談義にうち興じてしまい、現政権についての愚痴をこぼす店員の言葉を聞きながら、
『そんな事言っていたら危ないんじゃないのか』
と、余計なお世話な事を考えたりしていた。

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D夜明けの騒動とルクソール
カイロ入りの翌日は、朝の飛行機でルクソールへと向かう。そのため、何と起床は3時。こんな早朝の出立でなければ、おそらくはスルタンホテルの「臥竜庵」を訪ね、アモーレまる塾長とハルコス先生と酒を呑みながらドンチャン騒ぎを楽しんでいたのに・・・
・・・という愚痴以外にも言いたい事がある。
こんなハードな日程を組むものだから、日本人ツアー客は、海外のホテルで人気がないんだそうな。マナーが悪いからではない。欧米人のように、ホテルで過ごす時間そのものを楽しんでホテルにカネを落とすという事が殆ど無いから。 折角ツアー客には料金面で優遇しているのに(ちなみにカイロのラムセスヒルトンなど、ツアー客は個人客に比べて宿泊料金は四分の一ほどらしい)、ホテルにカネを落とさないのでは、そりゃ嫌がられるわな。我々ビンボー旅行者の方が、よっぽど一箇所の滞在日数やホテルの活用法を知っている。

・・・うぐぐ、今回の私はビンボー旅行者じゃないか。苦しい。

さて、朝食を済ませた後、部屋に戻るとドアの外で叔父が困っていた。このホテルは本棟と客室棟が離れているのだが、この客室の二つの扉のうち、それまで開け放されていた外扉が閉じているのだ。我々が渡された鍵は、しかしながら、内扉の鍵だけ。そして、この外扉の鍵は、ボーイも持っていない。 私がフロントまで走っていったり添乗員さんやガイドのムスタファが駆け付けたりして、結局フロア・マネージャーが鍵を持ってくるまで、実に30分ほど待ち尽くす事になった。その間、私はイライラしながら、
『もし、これで飛行機に乗り遅れそうな時間になったら、スルタンに行って酒でも呑むか』
と、その場合の計画を頭で練っていた。嫌な奴である。

幸いな事に、飛行機の時間には間に合った。ツアーだと、殆どチェックなどしないというのが面白い。ルクソール行きは1時間に一本ほど出るというメイン路線だが、航空機は三列×三列の、小さいエアバス。揺れるんだこれが・・・エジプトの国内線なんて乗るのは、もちろん初めて。勘弁願いたい。

1時間ほどの空の旅で到着したルクソール空港は、相変わらず沙漠の中。そしてもうひとつ、この空港はルクソールの東岸側にあるという問題があった。 ルクソールはナイル河を挟むように拡がっている街で、現在の市街地やルクソール神殿・カルナック神殿などは東側(右岸)、ツタンカーメン王などの墓がある「王家の谷」やハトシェプスト葬祭殿などは西側(左岸)にある。従って、王家の谷に行くためには河を渡らなければならない。私の記憶では渡し船に乗らなければならないのだが、そうなるとバスをどうにかしなければならない。
『どうするんだろうか』
と思っていたら、バスは渡し場を無視して、ナイル河を横断する橋を渡り始めた。風情が欠片もない・・・

さて、バスは一路、王家の谷へ。駐車場にはズラッとバスが並び、一昨年にはなかったエントランス・ホールみたいなのが出来ていた。このホールをくぐり抜け、王家の谷へ。入り口の入場券を買うと王家の谷の墓三カ所に入る事ができるのだが、ツタンカーメンの墓だけは別料金。ちなみに此処もガイドは入る事ができない。うーむ、此処は前に一度入ったから、もう良いのだが・・・ というのは、副葬品とミイラが完全な形で発見されたから価値があるのであって、墓室の規模は大したことがないのである。とはいっても、墓室の中にはミイラが安置してあって、壁画もきっちり残っている。ちなみに副葬品はカイロ考古学博物館に詰まっている。

さて、王家の谷を出ると、続いてハトシェプスト葬祭殿へ。前に行った時には
「つまらない」
という感想を残していたが、それはどうやら1階部分から上に上がる事ができなかったから、らしい。1階部分は柱に飾りっ気もなくて面白くないのだ。今度は最上階のテラスまで行く事ができ、此処は非常に良い感じ。ただし、人も多い。

でも、神殿だったらラムセス三世葬祭殿もあったのに・・・

その次、今日も行くか?という感じで土産物屋、本日はアラバスター細工のお店。気乗りしない様子で、あるコップの値段を訊いてみる。
「そんじゃ」
と、それっきりにしようと思ったら、店員にしがみつかれる。面倒くさいな・・・と思いつつ値段交渉を重ねた結果、20ドルにて酒盃購入。まあ、そんなものかな。
そして一行は、ひとまずは宿所、ナイル・パレス・ホテルに向かう。長袖のシャツを羽織ったままでいる必要があるカイロとは違い、ルクソールは暑い。30度を超している。昼食を食べると、宿に戻って休憩。
夕刻に再集合して、ナイル河をファルーカ(帆掛け舟)でセーリング、そしてカルナック神殿の「音と光のショー」を見学に行く。仕掛けが大袈裟だが、遺跡の何処に照明やスピーカーが仕掛けられているのかという事が、やけに気になった。

翌朝、一行はデンデラのハトホル神殿へ。数あるエジプトの神殿の中でも、際だって保存状態の良いところとして知られている。私自身も2000年にはこの神殿を訪れており、今回のツアーに参加するにあたって、是非にも行きたかった所である。 というのは、ここ数年、この神殿に行くには警護のコンボイ付きというのが原則になってきているからだ。要するに、一人では行き難くなっている、という事。
「実際には、警護なんかなくても行ける」
というのが、まる塾長のコメントなのだが、一人で行くのも面倒くさい・・・のである。

ルクソールから2時間ほどバスで走ったところに、デンデラはある。ここも、整備が進んでいて、エントランスホールや綺麗な歩道ができている。脳内にある昔の姿と比較して、私は独り楽しんでいた。 また、この神殿は、近年入場料のインフレ化が急激に深化しているエジプト各地の遺跡の中でも数少ない、良心的な入場料を守っている。でも、ツアーだとガイドがまとめてチケットを買うものだから、こういうところに意識を向ける人間なんて、あまりいないだろうなあ、と思う。

さて、そうはいってもハトホル神殿は相変わらず壮麗である。日干しレンガで作られた外壁は崩れかけて大きく傾いでしまっているが、本殿はガッチリした威容を誇っている。 綺麗なままで残っている理由のひとつは、創建年代が新しいから。プトレマイオス朝時代の建設である。外壁のレリーフを見る時には、陽光で目が痛いほど。やはりカイロと違って、此処は南国である。神殿の中はヒンヤリと涼しく、ライトアップの光がなければ迷子になりそう。

ルクソール市内に戻って、今度はカルナック大神殿へ行く。「音と光のショー」を見学した昨日とは相当に様相が変わって、今日は強風で砂ぼこりが舞う。口の中に舞い込んでくる埃をたびたび吐き出しつつ、途中からは自由行動なので、広い神殿を堪能する。 カルナック神殿の後、今度はルクソール神殿へ。二人の王による突貫工事で建設された神殿は、カルナックに比べれば、余程小さい。ちなみに発掘前は砂に埋もれていたということで、神殿の上には、埋もれている時期に建設されたモスクが鎮座している。

最後はルクソール博物館で観光を締めくくり、夕食を食べると、駅から夜行列車に乗ってカイロに向かう。2年前には工事の資材がホーム内に散らばっていたが、既に工事は終了、綺麗な姿になっていた。この駅から、高名なナイル・エクスプレスに乗る。 ベルギーのワゴン・リー社製の寝台車両で、いわば
「走る骨董品」
として有名であるのだが、外装は他のエジプト国鉄と何ら変わるところがない。やや、がっかり。車両内はコンパートメントになっていて、いささか狭苦しいのは仕方がないか。

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E最終節〜カイロ発、シンガポール経由、日本へ
  非常に良く揺れる列車の中で寝る私には、ひとつ大きな懸念があった。
いったい、カイロではどの駅に停まるというのか。
カイロの玄関口、ラムセス中央駅は常時大渋滞で、とてもツアーバスが待機するような場所的余裕はないのだ。そう思っていたら、ナイル・エクスプレスは郊外のギザ駅で我々を下ろした。私はギザ駅なんて地下鉄でしか降りたりした事がないからびっくり。 小さい駅だけにポーターの絶対数も少なくて荷物を出すのに手間取り、下車してからたっぷり30分以上経過してから、やっと出発する事ができた。 列車を下車する前には車内で朝食が供されたのだが、叔父は昨日から腹の調子が悪いとかで、私に全て譲ってきた。まあ、途上国初体験だし、無理もないかな・・・ と思って周囲を見渡して、愕然とした。70の坂を越えようかという人が半数以上に達しているのに、殆ど体調を崩している人がいないのだ。正直、恐ろしい。

さて、バスは先ず宿所・ラムセスヒルトンに向かい、ここで荷を下ろして洗顔・排便を済ませた。このホテルはナイル河に面し、少し歩けば考古学博物館やタフリール広場に出ることができる、超高級ホテルである。私は此処では、免税店とトイレくらいしか使った事がない。ええ、無縁の場所ですよ当然じゃないですか。
で、それから向かったのはシタデルの丘。此処は、あの英雄サラーフ・アッディーン(サラディン)が城塞を築いてから、長きにわたってエジプトの政庁が置かれてきたところである。良質の石材を切り出す石切場がすぐ近くにあり、この丘に立てばカイロの市街地の主要なところは一望できる。 この巨大な政庁ではガーマ・ムハンマド・アリー(ムハンマド・アリー・モスク)を訪問したのだが、よく考えてみたら、このエジプト旅行ではモスクを訪れるのは初めてである。

「モスクで午睡をするのが趣味」

と公言する私には、甚だ遺憾と申し上げざるを得ない。そんな不平を心中で並べ立てる私の眼下、市街地への道を視線でたどると、すぐ近くにも巨大なモスクが二つ、向かい合って立っている。当たり前だがカイロにもモスクは多くある。 イスタンブールのブルーモスクを模したというムハンマド・アリー・モスクは確かに美麗だが、もうひとつくらい、良い感じに星霜を感じさせるモスクを見たかったところだ。
そして、カイロ考古学博物館へ。カイロに来るたびにここを訪れているが、人の量は今日が頭抜けて一番多かった。入り口から人が溢れだしているのが見えた。そのため、通常であれば入り口の警備室に預けなければならないカメラの類も収容は到底不可能なため、
「撮らないでください」
との念押しとともに各自持ったまま入城する事に。守らない奴多いだろうな・・・相変わらず此処の遺物は超一級品だらけだが、中でも二階のツタンカーメン王墓の遺物は、何度見ても圧巻。素晴らしいの一言。ただ、厨子などをよく見てみると、作りが粗い。
「未完成の王墓」
と言われる所以がよく解る。この博物館で体調がすぐれなくなってしまった叔父が休んでいるのを後に残し、私は博物館一階の、ヘレニズム期の遺物に刻まれているギリシア語碑刻とにらめっこを展開していた。どうもこのあたり、職業病が順調に深刻化している。

この日は天候が悪く、曇天から僅かではあるが雨が落ちてきた時には驚いた。エジプトで、初めての雨に遭遇したから当然だ。不快指数MAXにさせられた(本編冒頭@参照のこと)昼食の時には長袖シャツだけでは寒いほど。 しかし、レストランからラムセスヒルトンに戻って上着を取って来るには時間が足りなかった。このまま、ハーン・ハリーリに向かったのだ。
旧市街の雰囲気を濃厚に遺すハーン・ハリーリは現在、有数の土産物街と化している。此処のメインストリートを突っ切っていくとカイロの一大スーク、アタバへと通じるのだが、それはさておくとしよう。ここでは1時間半ほどの自由時間が宣告された。やれやれ、やっと私の時間だ。
「さて、喧嘩に行ってくるか」
と一言呟き、腕をグルグル回して気合いを入れる。スークの中に紛れ込み、土産物屋をひやかし、モスクに足を踏み入れる。この時に買ったもののうち、灰色のガラベーヤは今でも下宿に転がっているが、三本セットの香油瓶は妹と旧友二人に進呈し(略奪され)たため、手許にはない。
着たら同じツアー参加者たちにはウケてましたけどね。
しかし、周りを見て欲しい。此処はエジプトでっせ。客観的に見たら、目立つ格好ではないはずである。

大渋滞をくぐり抜けて一旦宿に戻ると、夕食までは自由時間。その間に、私は宿を抜け出してする端ホテル・サファリホテルの入っている安宿ビルへ向かう。 ラムセスヒルトンからは歩いて15分ほど、まさに指呼の間にあるといってよいスーク・タウフィキーヤでは、骨の底まで馴染んだ光景の中で、深々と深呼吸する。一車線ほどの道、車も通れないほどに果物や雑貨を積んだ屋台がズラリと並ぶ、私のカイロの原風景。その中で、思う存分に手足を伸ばした。

 嗚呼、俺のカイロに帰ってきた。

心の中で大声で叫びながら、スルタンホテルを訪れた。アモーレまる塾長は、カイロに留学している東京外国語大学の学生たちと歓談しているところだった。カルカデ(ハイビスカス)のシャーイ(紅茶)を振る舞われながら、あれこれと雑談に花が咲く。アモーレ塾の至宝、サファリホテル以来の情報ノートは未だ健在だった。
そしてエジプト最後の晩餐は、ナイル河に浮かぶレストランでディナークルーズ。生涯無縁と思っていたモノの嵐も遂に最終盤である。バンドなどによるディナーショーがあるのだが、そのショーの中にスーフィー・ダンスがあって、いささかげんなりした。ここで観るもんじゃないだろう、このショーは・・・ ベリー・ダンスにもさほど興をそそられなかった。時計とずっと、にらめっこをしていたのだ。
ディナー・クルーズが終わって大渋滞の中をホテルに帰ると、私はシャワーを浴びて、再びスーク・タウフィキーヤへ。タウフィキーヤの酒屋で一本4エジポンほどのビールを買って呑んで語らい、寒空の下でシャーイをすすりつつ、カイロ最後の夜を満喫した。 やっと自分のカイロに帰ってきたように思うが、時はすでに遅かった。心中に、懐旧と哀愁、異なった種類の二つの涙が入り交じって流れるのを、甘ったるいシャーイが洗い流してくれた。

そして翌朝、遂にカイロ出立の日。痛恨の思いで私は空港に向かうバスの中にあった。ターメイヤのサンドイッチもコシャリも食べないまま、であるのだ。およそ、そんな旅程になるとは、流石に想像の範囲を遥かに逸脱していた。 結局、エジプトの「古き」にばかり触れ、「今」に触れることが一度もなかったツアーに、私は苦り切った思いを感じずには居られなかった。

帰りの飛行機は、またもドバイとシンガポールを経由して、セントレアへと帰って行く。ドバイでは空港の免税店の規模の壮大さに唖然としたが、シンガポールについては、もう・・・語るのが面倒くさい。行きに拠った時に感じたことを、また繰り返しただけのことである。

おそらくは初めてであろう、ストレスが蓄積すること留まることのない「旅行」から帰ってきた後、私はかつて大学の学生劇団「下鴨劇場」で同僚だったN女史―ちなみに現在、添乗員として某旅行会社勤務―と会った時に、こんな会話を交わしたモノである。
「もし、君が添乗員をやっているツアーに俺が参加していたらどうする?」
「絶対に嫌だ」
「だろうなあ、俺も俺みたいな客が居たら嫌だもんなぁ」

・・・およそ「あり得ない」海外渡航から帰った後、私には、この時を遙かにしのぐ「あり得ない日々」が待っていた。私の黒歴史、2007年はこの時、未だ三分の一も経過していなかったのである。

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―終わり―


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