絲綢之道の道端にて

怒涛のヨーロッパ編


こんてんつ
@旅仲間と再会・・・アムステルダム(オランダ)・ロンドン(イギリス)
Aガウディの城と回教の宮殿を求めて・・・バルセロナ・グラナダ・タラゴーナ(スペイン)
B消えた「壁」を求めて・・・ベルリン(ドイツ)
C雪の無いクリスマス・・・クラクフ(・アウシュヴィッツ)(ポーランド)
Dお伽話の街・・・プラハ(チェコ)
E新世紀を迎え、日本へ・・・ブダペスト(ハンガリー)


@旅仲間と再会・・・アムステルダム・ロンドン

12月4日、冬支度を整えた私は(具体的にはフリースの上着をブダの中国人市場で買っただけの事だ)、オランダのアムステルダムを目指して北上する事とした。ここから先は、2等車が乗りたい放題のインターレールが猛威を発揮する事になる。

しかし、ウィーンのオスト駅に着いた時、最初の手違いが発生した。乗り継ぎの為に、14時から19時まで、5時間も待ち惚けを喰らう羽目になったのだ。その間に市内観光をすればよかったのだが、何故かしらその時は、ひたすら待機する事しか考えなかった。夜中には列車のコンパートメントの中に泥棒が忍び込んできたりしたから、面倒だった。

明けて、翌朝9時40分に、列車はアムステルダム中央駅に到着する。私の宿は駅から少し離れた、シェルター・ジョーダンというところ。駅から若干離れた所にあり、しかも天気は雨がちだから、移動に苦労しまくった。痔は痛むし・・・

アムスもまた、街ごと世界遺産に登録されている街であり、一日中ふらふらする事に専念?する。街は運河だらけで、駅のすぐ北側には海が広がる。
フラフラしていると、あちらこちらのコーヒーショップで声がかかる。この街で「コーヒーショップ」というとき、マリファナを商う店の隠語である事は良く知られているが、私はそんなものには興味が無かった(パキスタンで散々本物を見てきたから・・・という事にしておこうか)。 そして、ショーウィンドウ(飾り窓、という)には娼婦が下着姿で道行く人々を誘っている。この娼婦たち、往古はいざ知らず、現在は黒人女性が多い。

せっかくアムスに来たというのに、この街にはそれほどじっくり逗留する事は無かった。翌日にはデン・ハーグに、翌々日にはロンドンに向けて発ったからだ。デン・ハーグに行った目的は、日本から届いているはずの荷物を受け取る為だった。 しかし、この日本大使館、荷物の受け取りはしてくれないのだ。これがアジア横断中なら、それくらいの事はやってくれる大使館(もしくは総領事館)が多いのだが、まあ仕方あるまい。靴下の替えが効かないのは、それにしても痛い。せっかくツギを当てたのに、再びツギを当て直さなければならない。

そしてまた翌日、私はユーロスターに乗ってロンドンへ向かう。具体的には、ベルギーのブリュッセル南駅まで通常列車に乗り、そこでユーロスターに乗り換えるのだ。
ユーロスターというと、日本の新幹線みたいなものだと解釈していた(フランスにTGVという夢の超特急があるが)が、乗る時のチェックは、少なくとも百倍は厳しい。何しろ、荷物はX線透視機を通す。新幹線に『搭乗手続き』があると解釈すると解り易いかもしれない。ユーロスターを使用して残念だったのは、ドーヴァー海峡の下をくぐる為、この高名な海峡をこの目で見ることが出来なかったことだろうか。

もっとも、実のところ、私は列車の中で緊張に身を固くしていた。理由は一つ、イギリス入国拒否を危惧していたのだ。
イギリスのロンドンには、(沢木耕太郎では無いが)バイトをやって旅費を貯め、再び旅を続けるという日本人旅行者が多い為、イギリスへの陸路・海路での入国審査は、極めて厳しいものなのだ。沢木耕太郎も揉め事を起こしかけていたが、何より私はイスラエルとブルガリアでの『前科』がある。旅仲間の脳天気で無責任な意見を参考にしつつ、私の切羽詰った脳味噌が出した結論は、

「六分四分で入国拒否」

であった。案の定、ロンドン・ウォータールー駅ではイスラエル入国拒否スタンプについて質問を受けたが、あっさり入国させてくれたので、腰が砕けそうになった。イギリスを出国する(ユーロスターの)チケットを事前に購入しておいて良かった・・・

ウォータールー駅のツーリストインフォメーションで紹介してもらった宿のひとつ、ドーヴァー・キャッスル・ホテルに荷を解いた。地下鉄Borough駅のすぐ近く、下がバーで少々夜がうるさいが、朝食つき11£(ちなみに部屋は、10〜14£まで、5種類ある)は、ロンドンとしては格安の部類に入る。二段ベッドが4〜5基並んでいる部屋だった。

荷物を放り込むと、私はパキスタンでの旅仲間、マークに電話をかけた。パキスタンで別れたとき、ロンドンで再会する事を約しており、その約束を果たす為だった。しかしこの日は繋がらず、結果的に彼と話す事が出来たのは、到着翌々日の夜の事だった。

ロンドン到着翌日、私はロンドンでの最大の(というよりも他に行くべき所を全く考えていなかった。バッキンガム宮殿すら行っていない)目的地・大英博物館の見学に向かった。
歩いてみて思ったのだが、ロンドンという街は、古めかしいように見えて、その実、奇妙に新しい。まあナチスドイツのV2にボコボコにされた所為だろうが。

到着した大英博物館は、古代ギリシャ風の巨大な建物である。入場無料である。入るとまず巨大なホールがあって、その中央に円形の建物、大英図書館が君臨していて、その周囲には書店等の諸施設、石像を従えている。 恐ろしく広大で展示品も豊富なので、結局1日で全て見て回るのは到底無理で、翌日までかけて、じっくり見学する事になった。
アッシリアから宮殿のレリーフを丸ごと引っぺがして持ってきてみたり、トルコから墓廟を一つ持って来たりしていたが、見て回りながら不遜な事に気が付いた。

何の事は無い、ここに至るまでの道筋で、散々このような展示は見て来ていた。アッシリアのレリーフや南北米大陸の文物を除き、大英博物館でしか見ることが出来ないようなものは、実は無かった。
かなり噴飯モノだったのは、日本コーナー。茶室で茶の実演をやっているほか、現代の有田焼しか展示していなかった。それでも落涙寸前になってしまう自分がそこには居た。

面白かったのは、中国・インドの文物を展示した部屋だな。広大な部屋を半分に仕切って、半分に中国の、半分にインドの文物を展示しているのだ。
更に面白かったのは、小規模な別の部屋を設けて、そこにチベットの文物を展示していた事。博物館の展示も、政治的な色彩を濃厚に持つモノなのだという事を、感じた。

翌日は、大英博物館に行く前に、ベーカー街221のBにある、シャーロック・ホームズ博物館を訪れた。ヴィクトリア朝期のコスチュームを着た警官に警備されている扉を入ると、階上に上がる階段の所に、揉みあいながらライヘンバッハの滝に落ちるホームズとモリアーティ教授の図が飾られている。
2階のホームズ氏の居宅には、再現された19世紀ロンドンの下宿屋に、ホームズゆかりの品々、そして蝋人形が、所狭しと展示されている。日本からの来客も多いんだろうなあ、と思わせるのは、私がもらった日本語のパンフレットである。 (シャーロック・ホームズ博物館の写真

この翌日、私はウォータールー駅で、カシュガルからフンザまで行動を共にした旅仲間、マークと再会した。私よりも5歳年上のマークは、既に再就職して働いているという事だったが、精悍なイメージは欠片も損なわれていなかった。

「ヒロシ、もう日本が懐かしいんじゃないか?僕も10ヶ月は長すぎたけどね」

こう言う一方で、

「次はロシアに行きたい」

なぞと言っていた。やはり旅好きは不治の病なり、である。

さて、二人で自然史博物館という所に行ってみた。・・・ここの鯨についての展示は爆笑モノだった。反捕鯨団体の宣伝場と化している。すなわち、捕鯨の残虐性について得々と語っているのだ。さすがに大声で笑い出すということはしなかったけど。夕食は、

「日本食は寿司くらいしか食べた事が無い」

というマークと共に日本料理屋に入り、彼は鳥の照り焼きを、私はカツ丼を食べていた。

その翌日、私はウォータールー駅から、アムスへと戻る。このときには、アンネ・フランク博物館を見学に行った。歴史学徒の義務である。

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Aガウディの城と回教の宮殿を求めて・・・バルセロナ・グラナダ・タラゴーナ

アムスの宿を出た私は、取り敢えず、南のミラノに行く列車に飛び乗った。理由はパリを通過するのが何となく嫌だったから、だったような気がする。
列車の中で寝て起きて、ミラノ中央駅に着いたのは8時ごろ。しかしミラノ観光に繰り出す事もなく、私はジュネーブ行きの列車に乗り換える。このルートだと、溜息が出るほどに美しいアルプスを窓外に眺めながらの移動となる。非常に贅沢なひととき。

やがて、国境ポリスがパスポートチェックにやって来た。考えてみれば、スイスはEU外だから、国境でパスポートコントロールがあるのは当然なのだが、このときの国境警察の職質は傑作だった。

(イタリア側)
「お前さんは日本人かコリアンか?日本人?ノープロブレム」
(スイス側)
「あんたはサムライか?」

・・・私のスイスに対して持っているイメージは、「ハイジの国」というよりも「インテリの国」というモノだったのだが、そのイメージは、この呑気な国境ポリスとのやり取りで、綺麗サッパリ崩れ去った。

この日、列車の乗り換えがまるで巧く行かなかった。ジュネーブで6時間も待ち惚けを喰らう派目に陥り、その間はひたすら呆っとする他は無い。
スペイン国境のポルトボウへは、22時発車の夜行列車に乗る事になるが、この列車は何故かしら、殆ど空。オープンルーフの二等列車には私と綺麗なフランス人娘の二人しか乗っていない。私がコンパートメントに移動すると、この娘も同じ車両に移動してきた。一人は怖い、といっていた。

早暁5時半、列車はスペイン国境に到達。ここで列車を乗り換え、バルセロナ行きの列車に乗る。
バルセロナ・サンツ駅に着いたのは8時半。この時間になって、ようやく空が明るくなる。冬だから夜明けが遅い、と考えるのは間違いであろう。無理やりにGMT(グリニッジ世界標準時)マイナス1時間で標準時を設定しているから、こんな事になってしまうのである。

バルセロナの目抜き通りを、ランプラス通りという。この地下を地下鉄が走っていて、安宿なども、この通りに沿った所に多くある。 サンツ駅からこの地下鉄に乗り、私はリセウという駅で地下鉄から地上に出た。少し路地に入った所にある、ユースホステル・アルコという名の安宿が、私がスペインで基地として選んだ所だった。

チェックインを済ませると、私は早々に宿から外に出て、朝食を済ませると、市バスに乗った。程無く、天を指して聳え立つ、巨大な尖塔が目に入ってきた。
サグラダ・ファミリア聖堂。『ガウディの城』といった方が、通りが良いかもしれない。
何度もTVで映像を見てきた、大聖堂が眼の前にある。覚えず、微かな快哉が口から漏れてしまった。未だ外郭しか出来ていない・・・というより、マトモに鑑賞に耐えるのは、前面・後面の4本の尖塔のみなのだが、この8本の尖塔だけでも、見るものを充分に威圧するに足る。 車の排気ガスのために煤けながらも優美さを失っていない、正面の彫刻。エレベーターで上階まで上ってみると、随所に破損したガラス瓶を埋め込み、装飾の一部としている。下を見下ろせば、見事なまでに工事現場。

入場料を取る工事現場

というのは、帰国後に、この聖堂を肴にして酒を飲んだ時に飛ばした諧謔である。

地下に下りてみれば、ヨハネ・パウロ2世がミサを行った地下礼拝堂や、博物館がある。そして地上一階には売店があり、ここで絵葉書などを売って建設資金の足しにしているのである。

宿に帰ってみると、宿の主、西村氏がフロントに座して朝日新聞を読んでいた。このお人は我が郷里の隣県、松阪の産だが、この人は、結婚した相手が凄い。かなりかなり年下の女性なのだが、なんとイラン人である。 逆のパターンはともかく、日本人男性がイラン人女性を嫁さんにしてしまったという例は、私は彼以外には知らない。それほど稀有の事である。

この「稀有の人」の勧めで、私はランプラス通り沿いの写真屋で、それまでに撮り貯めた36枚取りのフィルム20本ほどを現像した。現像代が日本と変わりが無いのが痛い・・・おかげで6000円相当の現地通貨を消費してしまったわけである。
その翌日、現像の済んだフィルムを回収するついでに、ランプラス通りをフラフラしていた私は、とある両替屋の前で、サークルへのメッセージを届けてくれた田村君に会い、互いに驚愕した。 彼は、クリスマスはモロッコに行くと明言していたらしい。それならばスペインにくる事を想定していても良さそうなもんだが、私はその後の多事多端のために、そんな事はすっかり忘れていた。面倒くさい通信配達人の役割を果たしてくれた礼を、まさか海外でする事になるとは、全く考えていなかったのである。
彼とはその後、帰国後に、京都の木屋町で再会する。

フィルムなどのデカい荷物は一切合切アルコに預けておいて(預け賃1日500ペセタ)、私は夜行列車でグラナダへ行った。グラナダに着いたのは8時少し前、バルセロナよりもかなり冷え込みが厳しい。

列車を降り、アルハンブラの近くまでバスで行き、そこから宮殿への坂道を登り始めた私は、途中で声をかけられた一人の女性と、何となく一緒に城を見て回る事になった。
ダリアという名のこの女性は、私よりも若干年上の、イラン系ユダヤ系アメリカ人・・・と書くと解り難いだろう。つまり、1979年のイスラム革命までは、イランには、ユダヤ人が数多く住んでいたのである。ダリアはそんなイラン在住ユダヤ人だったわけだが、イスラム革命で多くのユダヤ人が国外に逃れ、ダリアは両親に連れられてアメリカに移り住んだという事である。
もっともダリアはアメリカよりもイスラエルの方に愛着を感じる、と言っていた。なかなかこんな話は聞けるモンじゃない。実に貴重な、生の声である。

え、イスラエルは私にとっては憎たらしい仇敵だろうって?いいじゃないの。嫌いなのはイスラエルであってユダヤ人じゃないんだからさ。
ちなみに、イランにはまだユダヤ人が多く住んでいるようである。そんなユダヤ人と、イスファハーンのイマームの広場で雑談した事がある。
ダリアも結構したたかで、宮殿を出た後に足を踏み入れたシリア人のオヤジがやっているファラフェル屋では、「ファールシー(イラン人)」と自称していた。

グラナダは、なだらかな平野から山地の斜面を駆け上るような格好で市街地が広がっている。その山地のひとつの、中腹から頂上を扼するような格好で、アルハンブラ宮殿は位置する。宮殿の下の山肌は切り立っていて、いかにも攻めにくそうな造り。宮殿を囲む城壁も、非常に重厚で堅固であり、攻めるに難く、守るに易い、難攻不落の名城の体を為している。
しかし、その武骨ながらもどこか優美な、赤レンガで化粧された城壁に守られた宮殿は、繊細で優美な、脆い美しさを持っている。イランやトルコで見た、「堂々たる美」ではなく、触れるとすぐに折れてしまいそうな危うさが、そこにはあった。

この宮殿からは、旧市街アルバイシンを見下ろす事が出来る。白壁の美しい街並みである。城を出てダリアと別れた私は、その日の午後を、このアルバイシンを散策する事に費やした。旧市街のカテドラル(教会)には、グラナダを征服したフェルナンド・イサベル両王の棺が安置してあった。

グラナダには丸1日居ただけで、翌日にはバルセロナへと帰ったが、バルセロナから電車で1時間ほどの所にある、タラゴーナという街に寄ってみた。ここはローマ時代に属州ヒスパニアの首都になっていた所で、市内・郊外の至る所にローマ都市の遺跡が転がっているのである。
丁度日曜日で、駅から近い教会前広場では蚤の市がやっていた。ここでもいろいろ面白いものが集められそうだが、それはさて措いて市内を見て回ると、線路のすぐ近くに円形闘技場があるし、市内各所にインフォメーションがあるし、非常に観光がしやすくなっている。そして、市壁も未だに健在である。
この市壁をくぐり、郊外へ向かうバスに乗って途中下車すると、緑深い丘陵地帯に、ローマ時代の水道橋がある。フランスのガール水道橋ほど大きくは無いが、実にしっかりとした造りだ。かつて水が流れていた最上部は、幅は狭いが、今でも歩いて渡れるほどの強度がある。こんな所に日本人の団体観光客が来ているので腰を抜かしてしまったが。 (水道橋の写真

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B消えた「壁」を求めて・・・ベルリン

イベリア半島を東進すればユーラシア大陸の西の端・ロカ岬に到達するのだが、私の中では既に「ユーラシア横断」は終わっていたので、イベリア半島を西進する事は無かった(でもジブラルタル海峡は見たかった)。
そしてバルセロナからイベリア半島の付け根、ポルト・ボウまで出て、そこからパリ行きの夜行列車に乗った。パリでは、到着した駅と乗りたい列車のある駅が別だった為、いろいろと移動せねばならず、何処も観光していないのにセーヌ川だけは渡った。

パリからは平野部を突っ切ってルクセンブルクに達し、そこからトリアーに出る。1時間ほどの待ち時間を利用して、世界遺産のポルタ・ニグラ(黒い門・・・という意味だったかな)を見物し、再び列車に乗ってケルンに出る頃にはすっかり真っ暗で、せっかくの駅前の大聖堂も、満足に見る事は出来なかった。
教会の周りにローマの都市の残骸が散在している、奇妙な所だが。ここから乗ったベルリン行きの夜行列車は、二等にもかかわらず素晴らしい乗り心地で、私は爆睡して翌日はひたすらに元気だった。

翌日早朝6時半頃、ベルリンのツォー駅(正式名称はツォーロギシャー・ガルデン駅と、やたらに長い。訳すると「動物園前駅」)に到着するが、周りは暗い。少し待ってから、地下鉄でベルリンYHの近くまで行く。このYHに宿を定めると、私はフロント近くに居た日本人女性を誘って、ペルガモン博物館に行く。あまりに寒いので愕然とした。それまではヨーロッパでも海に近い所が多かったので、それほど寒さは厳しくなかったのだ。ましてや、温暖なスペインから、いきなり冷え込みの厳しい内陸に来たのだから、余計に寒さが身に沁みて感じられた。
ペルガモン博物館は、かつての『東ベルリン』『西ベルリン』の区別で行くと、『東』に当たる。そこまではベルリンの大通り、ウンテル・デン・リンデンを真っ直ぐに進んでいくのだが、途中にブランデンブルク門がある。ベルリンの壁の中で最も有名な場所だが、・・・なんと工事中だった。来るべき21世紀を迎える為のお色直しだろうが、物凄く空しい気分になった。
ペルガモン博物館の名の由来は、かつて小アジアのペルガモンにあった神殿をひとつ、丸ごと持ってきているからである。丸ごと持って来ているモノはそれだけでは無い。圧巻は、メソポタミアのバビロンから持ってきた、イシュタル門の内門である。見上げれば、遥かに高い天井まで、鮮やかな青のタイルで化粧された城門が聳えている。ここは、日本語の解説機を無料で貸し出してくれるので、非常に有り難かった。それにしても、稀有壮大な博物館である。
翌日には、ベルリンの壁の残骸を見学する。壁は殆どが破壊され、その周辺では大開発工事をやっているのだが、残されている壁は、かつての東西ベルリンのチェックポスト、チェックポイント・チャーリーという場所の近くに残されている。このかつてのチェックポイントは、現在、壁博物館となっており、壁の欠片を買う事が出来る。頑丈そうな壁は、分断された28年間の怒りと憎悪を叩きつけられたかのように無残な姿を晒しているが、実は撤去された壁のラインに沿って、周りの舗装とは色の違う石ブロックが埋め込まれ、所々にベルリンの壁の所在を示すプレートを配している。全く、ドイツ人の妥協のなさには恐れ入る。(ベルリンの壁の跡の写真
ドイツでは、お昼はクリスマスの屋台で済ませる事が多かったが、晩飯にドイツ料理は殆ど食べなかった。トルコ人が多いので、トルコ料理屋が多いのである。従って、トルコ料理が私のディナーだった。宿に帰れば、スーパーで買ってきたビールを飲むという日々。私がシリアで会ったドイツ人に言わせれば、
「ビールはドイツ人にとっては水である」
という事になるが、成る程、美味い。

C雪の無いクリスマス・・・クラクフ(・アウシュヴィッツ)

12月22日夜、ベルリン・ツォー駅は、クリスマス休暇で一時帰国するポーランド人出稼ぎ労働者で一杯だった。私がこの日の昼頃に残席の問い合わせをした時には既に予約が埋まっており、座ってポーランドに移動できるかどうかは賭けだったが、奇跡的に空のコンパートメントを発見し、座る事が出来た。通路にまで人が溢れていた。
あまり睡眠をとることも出来ぬまま、クラクフのグローヌイ駅に到着する。薄氷の張るクラクフ市街を走るトラムに乗って、オルドリーYHに宿を定める。クラクフは、16世紀頃までポーランドの王都が置かれていた街で、日本でいえば京都に当たる。この街は第二次世界大戦の破壊を免れ、旧市街は世界遺産に指定されているが、それはこの街にナチス・ドイツが司令部を置いていた為、という。そして、このクラクフ中央駅には、アウシュヴィッツに送られる人の姿をイメージした像がある。
私がここに来た最大の理由は、この街から程近い所にある、アウシュヴィッツ収容所に足を運ぶ為である。ユダヤ人に対して抱いている感情はさて置き、歴史学徒である以上、この強制収容所を見学するのは、当然の義務と考えていた。しかし、近く、と書いたが、実はなかなか着いてくれない。列車がEC(ユーロシティ。速さのランクでは、ユーロスターに次ぎ第2位だから、ユーロスターを新幹線とするとECは特急という所)のくせに、やたらと遅いのである。
アウシュヴィッツ収容所というが、実は2ヶ所あり、第一収容所と第二(ビルケナウ)収容所との間は何kmか、離れている。どちらも基本的には無料だが、27ズロティ(確か、100円が4ズロティに相当すると思う)出すと、職員がガイドをやってくれるのである。私は一人で見て回るつもりだったのだが、私のすぐ前にいたメキシコ人達が、私も巻き込んでガイドを頼んでしまったので、彼らと一緒に回ることになった。
第一収容所は、レンガ造りのガッチリした建物が、ワリと狭い敷地に並んでいる。こちらもビルケナウも、ナチスドイツの撤退時に灰燼に帰したそうだが、戦後に再建したのだそうだ。第一収容所が博物館のような感じで、死体から集められた髪や靴や衣服など、見ていて気が重くなるようなものがズラズラと並んでいる。死体焼き窯も、再現されていた。広大なビルケナウ収容所は、鉄道の引込み線が中央を走っている。この線路の両側に、再建された板作りのバラックが並んでいる。その周りを、ぐるりと二重のフェンスで囲んでいる。
記念写真を撮りまくる同行者たちの、底抜けの明るさに呆れつつ、私は何処か冷め切っていた。
この収容所に、いったい何を語らせたいというのだろうか。民族浄化の愚かしさか、あるいは「ユダヤ人に対する差別」への声高な反対の声なのか。しかし、この収容所を見て、果たしてパレスティナのアラブ人たちは、一体どのような感想を抱くのだろうか。
自分の経験上、多少の偏見は混じっていたかもしれない。しかし・・・私は、この収容所に対しては、冷ややかな眼差ししか持てなかった。冷えるといえば、強烈な寒さにも拘らず、アウシュヴィッツには積雪が無かった。ガイドの職員氏曰く、
「アウシュヴィッツに来てから雪の無いクリスマスは初めてだ」
ということである。
さて、クラクフは近郊にもう一つ、ヴィエリチカ塩鉱という、またひとつの世界遺産がある。アウシュヴィッツ訪問の翌日、私はヴィエリチカへと足を伸ばした。
しかし、である。この日は、クリスマスイブにあたった。
当然、塩鉱が開いているはずも無い。私は賛美歌が響く塩鉱から引き返すしかなかった。
ちなみに、世界遺産というと、クラクフそのものも世界遺産に当たる事は先述した。ヴィエリチカから戻り、クリスマスの屋台でごった返す、世界遺産・クラクフ旧市街の中央広場は、その中央にある織物市場(現在その中は土産物屋に占領されている)も含めて、4時ごろまでにはすべて閉まってしまう。皆、ミサに行くのである。ヨハネ・パウロ2世を生んだ国は、国民の殆どが敬虔なクリスチャンであり、私はこの日は中央広場の教会で、そして翌日にはクラクフの王宮ヴァヴェル城内の教会で、ミサを見学する。こんな土地柄の故か、現法王ヨハネ・パウロ2世の人気は絶大なものがある。その一方で、旅行者は思わぬ副産物に悩まされる。一切の店が閉まってしまう為に、飯屋を探すのに苦労したのである。やっと見つけたアラブ系の飯屋で、YHで同室したスコットランド人と飯屋探しの苦労を慰めあう羽目になってしまった。

Dお伽話の街・・・プラハ

クリスマスの夜、私はクラクフを発った。クラクフからは、豪勢に(というより、他に手段が無かったので嫌々)、寝台車でプラハに向かった。プラハに着いたのは朝7時半だったが、かなり暗かった。プラハ・フラブニ駅では、宿の客引きもうろついていたりする。その客引きの一人から宿を紹介されて、そこに行くつもりだったのだが、バックパックを担いでヴァーツラフ広場(大通り)を歩いている時、メトロの駅から数名の韓国人女性を引き連れた日本人男性に、ホステル・ソコルという宿を勧められたので、そこに行ってみる。駅やヴァーツラフ広場などは、市内を流れるウルタヴァ側西岸にあるが、ホステル・ソコルは、川の東岸にあった。私の泊まった部屋は、デカい部屋にベッドを10数台並べた所。この宿の住人がまた、みんな、宵っ張りの朝寝好きなのである。つまり夜も遅くまでワイワイガヤガヤ。しかし神経質なはずの私は、夜も早めに爆睡していた。
さて、宿を定めた私は、外に歩き出す。プラハは、ヨーロッパの中でも有数の美しい街という定評があるが、歩いてみると、成る程それは嘘では無いと思わされる。曇天続きであるのは残念だが、石畳が、並ぶ建物によく似合う。市内を流れるウルタヴァ川に架かるカレル橋は、両岸に塔が立ち、非常に優美である。東岸には、15世紀にローマ教皇庁に血祭りにされた宗教改革者のヤン・フスの像が立つ旧市街広場等があり、東岸には、現在は大統領府となっている、プラハ王宮がある。 
私は着いたその日には、旧市街広場近くのレストランでピザを食いながらチェコ特産の黒ビールを煽っていた。美味い。この東岸では、ユダヤ人のシナゴーグ巡りをやった。このチェコでは、第二次大戦前までユダヤ人が非常に多く、独立チェコスロバキア初代大統領のマサリクは、聖地イェルサレムに訪問したり、ユダヤ人閣僚を入閣させたりと、ユダヤ人には気を遣ったそうである。私が気にしたのはその事よりも、このシナゴーグでの展示である。パレスティナ(今のイスラエル)という書き方は如何なものか。地域名として、イスラエルという表記は不適切なものであろうこのシナゴーグで私が一番憤激したのは、キッパ(敬虔なユダヤ教徒がかぶる、白い小さな円錐形の帽子)を頭に載せて観光する、日本人観光客の姿を見た時だった。この人の姿を見た時、私は、後ろから思い切り蹴飛ばしてやりたいという衝動を、必死で抑えなければならなかった。その姿をパレスティナのアラブ人が見たら、どういう感情を抱くのか、想像してみろというのだ、まったく。
翌日には、丘の上にある王宮を訪ねた。この王宮には聖イジー教会というデカい聖堂があるが、この教会のステンドグラスは、チェコが生んだ芸術家、アルフォンス・ミュシャ(チェコ語ではムハ)がデザインしたものである。彼の絵を(色の濃淡までも)忠実に再現する、そのガラス工芸の技術の高さには感嘆する。考えてみればこのチェコは、旧ソ連傘下の共産主義諸国では、資本主義経済の導入にいち早く成功した工業国だった。聖イジー教会には神聖ローマ皇帝カレル4世をはじめとする諸王・英雄の棺も安置されている。カレル4世については、正しくはボヘミア王カレル1世・神聖ローマ皇帝カール4世なのだが、「カレル4世」呼び方が慣例になっているようだ。ま、ルターの宗教改革に直面したカール5世も、本国スペインで「カルロス5世」(正しくはカルロス1世)と呼ばれていたことではあるが。
このプラハでは、駆け出しの演奏者たちによる、ミニコンサートも多く行われている。まあ、例えるならインディーズ・バンドのライブみたいなものか。私も、ある日、このようなミニコンサートを聴きに行った。弦楽器奏者6人による、演奏会だった。
プラハではまた、旧市街広場やヴァーツラフ広場などにいっぱいに並ぶ、出店を冷やかして歩くのも楽しみだった。ヴァーツラフ広場は、その片隅に、1968年の『プラハの春』の際、ソ連の介入に抗議して焼身自殺を遂げた青年の記念プレートがある。名前は・・・春江一哉の『プラハの春』に載っている筈であるが。このときのソ連の親玉ブレジネフという男は、ソ連共産党書記長のうちでもおそらく最大級の愚物だろうが(アフガニスタンでも大失敗をしている)、この愚物のしでかした愚挙は、幸いな事に、この美しいプラハに致命的な傷をつける事無く終わった。

E新世紀を迎え、日本へ…ブダペスト

プラハの美しい街を歩いている間に、私はウィーンに行く気が完全に失せてしまった。かくして、私は、ウィーンに留まる事無く、ブダペストに直行する事にした。
早暁7時10分、私はプラハ駅を出発する。乗った列車の行き先ははチェコ・オーストリア国境だが、途中から半分が別の所に行くので、乗り間違えると悲劇になる(ヨーロッパではこんなタイプの車両が多い)。国境の駅で列車を乗り換えるのだが、この駅では、それまで見た事も無いほどにドカ雪が積もっていた。
ウィーンでは、到着したフランツ・ヨーゼフ駅から、ブダペスト行きの列車が出る西駅まで路面電車で移動する。結局、ウィーン市街はこの時くらいしか見ていないな。そして16時発のブダペスト行きに乗る。この車内では、たまたま乗り合わせた日本人男性と延々と雑談をしていた。
ブダペスト・ケレティ(東)駅到着は19時少し前。そこから歩いてテレザハウスに行く。ヨシさんは健在だったが、なんと家主のテレザが他界していて、息子が後を継いでいた。確かに、前回訪問時も寝たきりではあったが…全く、世の中何が在るのか解らない。
後は、日本へ帰る日までブダでのたくらしていた。観光…も、したか。ちなみに、観光というと、この街の建物の壁には、1956年の『ハンガリー動乱』の際の弾痕が、未だに残されている。注意して見てみると面白いだろう。
どちらかというと、ブダでは、どうもひたすらに、旧知の旅人たちとの旧交を温めてばかりいたように思う。盟友T2氏の友人・若林君、一緒に印巴国境を越えた宮脇さん、イスタンブールのガラタで同室だった充代ねえやんは、テレザ近くのヘレナの客となっていたし、年が明けてからは、ラワールピンディーで死んでいた頃に同宿した、江崎さん夫妻がテレザにやって来た。
そして新年。宿のみんなと一緒に、ブダペストを流れるドナウ川の河岸に繰り出す。物凄い人だかりが出来ていた。川に架かる橋はライトアップされ、年が明けると同時に、橋に並べられていた大砲から号砲が鳴り響く。花火が打ち上げられる。皆大騒ぎ。実に愉しいひと時であった。
そして2001年1月5日、私は、ブダペスト・フェリヘジ国際空港から、スイス・チューリッヒ国際空港を経由して日本に向かう。このとき使ったスイス航空、今やもう無い。手元に残る航空券を見ると、感慨深くならざるを得ない。巨大なチューリッヒ空港から日本へ、11時間のフライトを経て到着。私は関西空港では、一つの事を覚悟していた。すなわち、別室にて全ての荷物を調べられ、身体の隅々まで調べられる事である。その際、肛門に指を突っ込まれて、麻薬を持っていないかどうかを調べられるというのは有名な話である。別室送りの際にどう言って切り抜けるかという事に全頭脳を傾けていたが、幸い、バックパックを中途半端に開けられただけに留まり、私は脱力した。後に、
「日本の税関はチェックが甘すぎ」
と、散々おちょくられまくったものである。
関空のキオスクで新五百円玉を手にした私は(この時初めて見た)、列車を乗り継ぎ、懐かしの母校、京都府立大学へ。さすがに冬休み中で、知り合いは殆んど居なかった。せいぜい、私を散々玩具にして遊んだF嬢が、私を見て愕然としていたくらいだ。サークルのクラブボックスで、見たことも無いサークルの1回生に、声を掛けられた時には驚いた。
「柴田さんですか?」「すぐに解りました」
こんな事言われてごらんなさい。頭を抱えたくなるよ。その他、盟友T氏と雑談をしたりして、名古屋に帰り着いたら夜になっていた。妹には開口一番に
「髭を剃れ」
といわれた。
再び京都に戻り、旧友たちの爆笑と新入生たちの絶句の充満する中で(大袈裟な表現だな)帰国報告したのは、それから4日後の1月10日、京都府立大学史学科の卒業論文提出日の事である。


終わり

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