絲綢之道の道端にて

V、「バックパッカ−の聖地」へ・・・インド・ネパール編

こんてんつ
@ネパールへのトランジット・・・アムリトサル・デリー
A「奇跡の国」の不思議な首都・・・カトマンドゥ・ポカラ
B「バイバイ、ガンジス」再びインドへ・・・バラナシ・デリー・マナリ・ダラムシャラ・アムリトサル


@ネパールへのトランジット・・・アムリトサル・デリー

「真っ直ぐ西に行けばいいのに、何でインドに寄り道してるの?」

・・・とまあ、帰国後に散々訊かれたものである。実際、私自身も、出国直前の時期には、親しい間柄の人たちに

「インドはね、今回は行かないよ。行きたいんだけれどもね」

と語っていたのだから、最初は行く予定は皆無だった。しかし、旅は、始めてみるまでは解らないもんである。当初パキスタン国内で取るはずだったイランビザが、5月の時点では、パキ国内での取得が不可能、という事になってしまっていた。このため、イランビザが確実に発給されているインドに足を向けざるを得なかったのだ。もう一つの理由が、ネパールでの寝袋の調達。トレッキング王国ネパールでは、寝袋を始めとするトレッキング用品が、安価で調達できるという情報を仕入れていた私にとって、ネパールに行くためには、どうしてもインドを通過しなければならなかったのだ。それに加えて、体調不良を癒す、という大きな目的が、加わったわけである。それほどに私の体調不良は深刻化していた。

印巴国境のシーク教の聖地アムリトサルから首都デリーに辿り着いた私は、とてもイランビザの申請に行けるような体調ではなかった。当然、市内観光も夢のまた夢という状態。宿でゴロゴロしているしかなかった。救いは、この時期にデリーによく雨が降ったこと。おかげで、パキスタンよりも涼しかった。この時期、私と同じ昭和53年生まれの学生が、近くの宿に二人泊まっていた。この宿に日本を出てから5年という旅の玄人がいた事もあって、私は良くその宿、ナブランホテルに遊びに行った。しかしこの時期デリーに集まっていた「昭和53年組」3人は、全員下痢で死にかかっていた。この当時の写真を見ると、哀れなほどに肉が落ちている。

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A「奇跡の国」の不思議な首都・・・カトマンドゥ・ポカラ

もはや躊躇する事は許されなかった。何時またインドが暑くなってしまうか解らないのだ。私は、涼しい気候が続いているうちに、ネパールの国境へ向かうバスに乗った。デリーから一番近いネパールとの国境は、バンバサという。ネパール側のポストをマヘンドラナガルというので、この国境の事はバンバサ−マヘンドラナガル国境と称される。しかし、この国境はマイナーである。それは、ここに至るバスの料金が高いからだ。それよりは、バスと列車を乗り継ぎ、メジャーなスノウリ国境を抜けていった方が安く上がる。しかし、私の体調は最悪だった。そのような事をする余裕は、とても無かった。

バンバサ国境のバス停に到着したのは、まだ涼しい朝。国境までは少し離れているため、私は3人ほどと一緒にジープに乗って、国境を流れる川の近くまで行った。同じジープに乗っている3人のうちの一人は、若いチベット人の男だった。

「俺か?チベット人さ」

そう、さりげなく言ってのける彼が、弱り切った私の目には、溌剌として見えた。

国境の川にかかる大きな橋を越えて、ネパールに入った。実はネパールでは、インドルピーが、使えてしまうのである。その為、この国境、マヘンドラナガルから首都カトマンドゥまでのバス代は、インドルピーで支払い、釣りをネパールルピーでもらうという、ややこしい事になった。

再び夜行バスに乗って、カトマンドゥに着いたのは翌朝10時過ぎ。カトマンドゥでバックパッカ−が集まるのは、王宮に近いタメル地区である。2001年に起こった一連の騒動のために、不安定と騒乱のイメージが一気に定着してしまった感のある街だが、実際のカトマンドゥは、中世の佇まいを今に残す、静かな街だ。

「まるで映画のセットみたい」

と感想を述べる人までいる。「不思議な首都」と評したのが何故かといえば、この街の街並みの、奇妙なまでの古さを指しているのだ。

それでは、「奇跡の国」とは何か。

つまり、ネパールという国が、中国とインドという二大国の間に存在しているということそのものが、「奇跡」の名に値する、と言いたいのだ。何しろ、中国とインドである。世界でも有数のワガママ国家、といってしまって、差し支えないだろう。一方ネパールは、世界最貧国の一つであり、インドからの輸入品が無ければ国が立ち行かないほど立場は弱いのだ。よくぞ両大国の間で国家を維持していく気になるものだと感心してしまう。日本も幾つかの大国に周りを囲まれているが、日本の場合は海の存在が大きい。おかげでどれほど救われている事か、と私は考え込んでしまった。

さて、ネパールは観光による収入が国家収入の三割に達するともいわれる国だ(事実かどうかは知らない)。カトマンドゥはその最大の拠点である。インドから暑さを逃れてきた観光客や、チベットを抜けて来た者たち、トレッキングに挑戦する為にやって来た強者などで賑わう。私がカトマンドゥに着いた6月は、既に雨季に入っていた。山に挑戦する事が難しいこの時期はオフシーズンとされ、観光客は少ない。したがって、宿代を値切るのも容易い。この街では各国の料理を食べる事が出来る。日本食屋も数件、存在する。しかし私にとってはどうやら、日本食は胃に負担がかかり過ぎるようだった。 到着したその日の夜に日本食屋に行って定食を食べた私だったが、消化しきれずに戻してしまったのだ。自分のあまりの衰弱振りに愕然とした。翌日からは何とか食べ切れるようになったが、それでも苦しいほどだった。

このカトマンドゥでは、トルファンの宿で同じ部屋に泊まった服部君に再会した。二人ともネパールに来る予定など無かったので、再会を喜ぶよりも、互いに呆れ果ててしまった。再会した少し後に服部君も体調を崩し、哀れな我々は、異国の空を眺めながら、己が体を嘆くという日々が続く。

傍から見ても、深刻な状態だったらしい。このカトマンドゥでは、私はフンザで同宿したユカさん(先述)に再会した。彼女がチベットに行くルートというのが、行方不明者が続出する事で有名なカイラスルート(カシュガルからチベット仏教の聖地カイラス山を経由してラサに出るルート)であったため、安否を心配していたのだが、丁度チベットの祭りの時期(6月ごろ)だったために巡礼者も多く、それほど危険でもなかったようだ。私は試みる事さえしなかったそのルートを踏破した人は、我が京都府立大学の一年先輩にも一人いるが‥‥ともかく、そのユカさんに言われてしまった。

「痩せたねぇ。人格まで変わってるよ」

そういえば、このときに同じ宿(タメルゲストハウス。シングル一泊100ルピーは150円くらい)に投宿していたみよちゃんに、帰国後に再会したときも、こんな事を言われた。

あの時は、目が死んでたよ

・・・それにしてもこのとき、私の体重は何kgあったのだろうか。出国したときの体重は、61kgあったのだ。それがこの時期には、おそらく50kgを割っていたのではないだろうか、と思う。この時期の写真は大して手元に残っていない。せいぜい、ワガボーダーを越えたときとデリーのナブランで「昭和53年組」で一緒に撮った写真、そして下痢から回復したときの写真があるくらい。これを見てみると、哀れなほどに頬の肉が落ちている。デリーに続いて、このカトマンドゥでもインターネットカフェにはよく通ったのだが、おそらくこの時期の私のメールは、全て弱音で占められていたのではないかと思う。

この時期、私はほぼ10分に一度の割合で帰国、或いはイスタンブールへのフライトを検討していた。その理由は、下記の通りである。 

一、 一向に回復の兆しを見せない体調。
日本に帰国すれば、回復するのは間違いないだろうと信じて疑っていなかった。
二、 イランビザの状況。
「インドで取得可能」と述べたが、デリーのイラン大使館で取得可能なのは、7日間のトランジットビザのみ。これを延長しても、最大で12日間の滞在が可能であるに過ぎなかったが、日本は言うに及ばず、イスタンブールのイラン総領事館をはじめ、トルコ国内のイラン大使館・領事館では、数回の延長が可能なツーリストビザの取得が可能という情報が流れていた。
三、 ホームシック。
体調不良に因るところが大きいといえるが、自身ではホームシックとは無縁と考えていたが、これには思いのほか悩まされた。

・・・とまあ、上記のような理由で、私は日本、もしくはイスタンブールへの飛行を検討していたわけである。まあ、最大の理由は、雨季で涼しく快適なカトマンドゥに居たにもかかわらず、一向に回復しない体調にあったのは間違い無い。私はしんどいままだった。結局、このカトマンドゥでやったことといえば、寝袋を買い換えた事と、宿のすぐ近くの古本屋で、講談社学術文庫の『ガリア戦記』を購入した事くらい。(カトマンドゥ旧市街の写真

十日ほど待ったが体調は回復の兆しを見せず、私はアンナプルナトレッキングの基地、ポカラに移動する事にした。同じ宿から、高野さんという男性と、先述のみよちゃんが同じ日に、同じバスで移動した。私の体調が回復の兆候を示したのは、このバスに揺られているときである。まったく久しぶりに、正常に空腹を感じたのだ。そしてポカラ到着の翌日、私の下痢は完全に治った。しかし私は、先を焦らなかった。これから先は、強行軍が続くのだ。私は、このポカラに腰を据えて、体力の回復に精進した。‥‥よ−するに、きちんと飯を食って適度に散歩をして、雨が降ったら読書して、ということを繰り返していただけだが。

ポカラは、ネパールトレッキングの一大基地だが、実は田舎町である。旧市街地もあるのだが、カトマンドゥよりは遥かに見劣りがする。この街の旧市街地では、ある日40年程前の型と思しきカローラが、舗装もされていない道を、排ガスを撒き散らしながら走るのを見て呆然とした記憶がある

ついでに、ポカラはインターネットカフェの使用料金が高いのだ。残念ながらポカラのネットカフェについては記録と記憶が殆ど残っていないので、うろ覚えの記述になるが、カトマンドゥでは1時間40〜50ルピー(100円=約63ルピー)ほどだった使用料金が、このポカラでは、その十倍ほどもしたのではなかったかと思う。これでは、ひたすら体力の回復を待つより他に、やる事は無い。よく晴れた朝に時々顔を出すアンナプルナに見惚れながら、私のポカラ滞在は過ぎていった。いい具合に、宿(マウントビューホテル。シングル88ルピー、ツインだと150ルピー。ただし、これはオフシーズン料金。オンシーズンだと、この2倍の料金)には『深夜特急』や『ゴルゴ13』が置いてあったし、日本料理屋には貸し本をするところもあって、私はそこで借りた、蔵前仁一・旅行人編集長の『旅で眠りたい』に深くハマったりしていたので、それほど退屈もしなかった。
チベット人難民キャンプで土産物を買ったり、トレッキング屋でベストを買ったりと、今後の準備を整えていった。このとき買ったベストとは、旅の最後まで、付き合いを続けていく事になる。そうこうするうちに、みよちゃんはカトマンドゥに戻り、高野さんはお釈迦様の生地ルンビニを目指して去っていった。(ポカラの写真

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B「バイバイ、ガンジス」再びインドへ・・・バラナシ・デリー・マナリ・ダラムシャラ・アムリトサル

今にして思えば、「元医者」という、隣の宿の旅行者の、

「あなたの腹、もう大丈夫でしょう」

という言葉が、旅を再開させるゴーサインだったような気がする。カレンダーが7月に変わり、ポカラでの滞在も十日を超えた。もはや体調も万全である、と判断した私は、ポカラを遂に発つ事にした。

7月1日、私はポカラを朝7時に出発する、インド国境行きのバスに乗った。小雨が降りしきり、霧で視界が最悪な山道を、バスは進んで行く。この道の状態も、到底良いとはいえない。所々クレーターがあいているし、もちろんガードレールなどというものは存在しない。途中の宿場町でタイヤの交換をしたり、昼食を摂ったり、客を降ろしたりしながらインド国境の街スノウリに着いたのは4時過ぎ。私の頭の中では、ここでインド政府経営のバスに乗り換えてバラナシに出るつもりだった。ところが、その時、一緒にいたスコットランド人ウィリーが、

「ゴラクプルまで乗合ジープで行けば、そこから列車に乗れる」

と聞いて、了見を変えた。事情は良く解らないまま、私は彼の意見に従った。彼によれば、インドの政府バスの乗り心地は、それはもう

「泣きたくなるくらいに素晴らしい」

というものだそうである。

かくして、私はウィリーに引き摺られる格好で、ゴラクプルまで乗合のジープに揺られる。そしてゴラクプルの駅前に着いた我々は、そこから列車に乗り換える。といっても、切符の値段交渉をやったのは、全てウィリーである。私は、初めて見るインドの鉄道駅の様子に呆然としていた。待合室では、列車待ちなのかどうなのか良く解らないが、大勢の人々が座り込んだり寝転んだりしていた。呆然とし終わった後は、プラットホームで荷物番をしていた。中国は改札が厳しかったが、インドの駅のプラットホームは出入り自由である。このゴラクプル駅では犬が走り回っていたような記憶がある。で、運良く二等寝台の切符を買うことが出来たため、結構快適な道程であった。

翌朝、バラナシ駅に着いた二人は、オートリキシャーで安宿の並ぶベンガリートラ小路へ行く。そこのアルカ・ホテルというところでウィリーと分かれた私は、ガートに沿って、伝説の安宿クミコハウスへ足を運ぶ。現在はオフシーズンらしく、ここには日本人は数人しかいなかった。欧米人も時々は泊まっていったが、あまりの汚さに辟易したのか、みな一泊ほどで宿を出て行った。そんなわけで、私が宿を出るときには日本人5人くらいしかいなかっただろう。

この宿では、服部君と待ち合わせをしていた。しかし、カトマンドゥから下りて来た彼は、危機的な状態になっていた。なんと、国境からバラナシに出てくるバスの車内で、パスポートを盗られていたのだ。‥‥いや、天井の荷台に乗っていたというし、「車内」じゃないかな。当人は結構サバサバしていたが、私は引きつった笑いを浮かべるしかなかった。

雨季だというのに、雨が降らない限りはバラナシは暑かった。私が宿を取ったベンガリートラ小路の辺りは、ガンジス川の河岸に近いところで、クミコハウスからはガンジス川を見ることが出来た。この小路は、人がやっと擦れ違えるくらいの狭い道だが、こんな所を、ヒンドゥーの聖獣である牛が、でかい面してノソノソ歩き回ったり座り込んだりしているのである。まったくもう、邪魔だし、それにそこらじゅうに牛の糞はあるし‥‥ある日、牛の糞を踏んづけた私は、ガンジス川の水で足を洗うかどうか(この時はサンダル履きだった)で、半ば以上、真剣に悩んだ。糞も汚いが、ガンジスの水が汚い事もまた有名な事実である。

「うんこと川の水は、どちらの方がキレイなんだろう」

という問答が、冗談でなく、成立してしまうのである。‥‥まあそれはそれとして、このバラナシでは久しぶりに日本からのメールを読んだり、宿に林立する日本語書籍・漫画の中から、何故かしら『彼氏彼女の事情』が痛く気に入ったり、夜には宿の屋上で空を眺めて同宿の人々と語り合ったりしていた。(ガンジス河畔の光景

バラナシに滞在する事4日、私は首都デリーを目指し、列車に乗った。同宿の大迫さんという女性と共に、二等寝台での旅だが、これはなかなか大変だった。まずチケットを買うのに時間がかかる。前日に駅の外国人窓口に行ったら、なんと停電して業務が一時中断、しかも手際が殺人的に悪い・・・そしてこの列車でも、夜になって寝転んだら、開放したままの窓(空調無しです念の為)から突然土砂が降ってきたり、おまけに到着は実に5時間半遅れ、18時間の列車の旅の筈が、ほぼ24時間列車に乗っている羽目に。デリー駅に到着したときは、胃酸の出過ぎで胃が痛く、リキシャーの振動にあわせて胃がキリきりと痛む。今回はナブランホテルのドミに宿泊(一泊50ルピー)。しかし、この6時間の遅れは、胃痛だけでなく、望外の朗報をもたらしてくれた。

ナブランに着いた時に空腹の極みにあった私と大迫さんは、荷物を放り込んですぐにナブランカフェ(V章@項参照)に駆け込み、スパゲティを喰らった。その後、私は、その時カフェにいた日本人の2人組みと雑談をしていたのだ。このデリー滞在中に、私はパキスタンビザ・イランビザを取得する算段でいた。しかし、このデリーで取得可能なイランビザは、既述の通り7日間のみ滞在可能のトランジットビザ(通過ビザ)に限られていた。これを延長して12日間滞在の滞在が、最大限可能なイランでの滞在時間であった。それがイスタンブールでは事情が違うというのもまた既述の通りだが、体調が万全となった私は、イランをトランジットビザで通過する意気込みで燃え盛っていた。しかし、ここで全く違った情報に遭遇したのである。

雑談していたうちの一人はマナベ君という若い男性だったが、この人が、ラホールでのツーリストビザ発給が再開された、という情報を提供してくれたのだ。その時点まで、私が考えていたのは、

「明日は金曜日で、アグラのタージ・マハールが入場無料になる日だ(何をけち臭い‥‥などと思わないで頂きたい。タージ・マハールの入場料は、外国人料金で、この時点で1200円ほどもしたのだ。現在は、更にその倍になったという)。アグラはデリーから近いし、明日はタージ・マハールを見に行って、来週パキビザとイランビザをまとめて取れば良いや」

という事だった。しかし、イランビザ情報の前に、私の脳裏からタージ・マハールの優美な姿は、きれいさっぱり消え失せた。

かくして、翌朝、私は、雑談していた二人組の内の一人、柴さんという女性と共に、ニューデリーの大使館街に行った。そこに行くまでに、乗ったバスのタイヤがパンクするというハプニングに遭遇したが、まあ無事に大使館街に到着。パキスタンビザを取る際には、日本大使館のレターをまず受け取らなければいけない。で、日本大使館に行くと、窓口係員は日本語を話すインド人だった。そこでレターをもらってパキスタン大使館に急行。何しろ大使館のビザ発給受付は午前中に終わってしまうので急がなければならないのだ。この時は、他に鈴木さんという三十路間近の男性も一緒であったが、柴さんの写真を見た私は仰天した。私の写真は人相が怪しいだけだが、彼女の写真は、斜めを向いてにっこり笑っている写真である。をいをいこんなので大丈夫なのか?‥‥と、心配してしまったが、これで同日午後4時くらいにビザを受け取りに行ったら、きちんとビザをもらっていたから笑ってしまった。本当に、これはプリクラでもOKかもしれない。

さて、そんなわけで、デリーでの滞在は思いのほか短くなってしまい、有名観光地は、結局、ムガル王朝第五代皇帝シャー・ジャハーンが建設した、赤レンガの王城ラールキラー、別名レッドフォートぐらいしか見ることが出来なかった。何しろ暑い、いや「熱い」。ラールキラーの向かいに立つジャマー・マスジットを見てこなかったのは痛恨事だが。

それともう一つ、驚いたのは、デリーのインターネットカフェの数の多さと使用料金の安さである。ニューデリー駅前の、安宿が並ぶメイン・バザールという小路には幾つか日本語対応のパソコンを備えたインターネットカフェがあったので、結構入り浸っていた。大体平均使用料金が、1時間=20ルピー(100ルピー=44円)だったのだが、1時間=10ルピーというところが一ヶ所あって、以後はそこに入り浸っていた。インドがIT大国だと知ったのは後日の事。

デリーでは、マクドナルドにも行った。インドではマクドナルドは高級料理店であり、客は中流階層以上か、我々のような外国人旅行者に限られる。インドのヒンドゥー教では、牛の肉がご法度であるのもまた有名な話だが、そこはそれ、羊の肉で代用しているのだ。不味いらしいが・・・出国して三ヶ月以上も魚を食べていなかった私はフィレオフィッシュを食したので、インドの羊肉バーガーの味は全く知らない。

デリーを後にして、北部山岳地帯のマナリに、夜行バスに乗っていく。マナリから少し離れたところに温泉で有名なヴァシストというところが有って、そこでの湯治が目的だった。標高が高く、しかも連日雨だったために、デニムの長袖シャツを重ねていないと寒さを感じるほどに快適な地だが、しかしこの地では、あまり良い思いではない。どうも、ここに滞在している旅行者は、‥‥といっても私が話した相手は殆ど日本人だが、不快感を与えられる事が多いのだ。一番むっと来たのが、

「マナリのよさは長く居なければ解んないよ」

という言葉だな。思い出すほどに癇に障る言葉だ。別にその言葉とは関係が無いが、ヴァシストは3日で出て、次はダラムシャラに行く。

一般的にはダライ・ラマ14世の行宮のある町のことをダラムシャラというが、本来はダラムシャラというのは、「巡礼宿」の意味であるらしい。ダライ・ラマの住む一帯はマクロード・ガンジというのがどうやら正式であるらしい。このダラムシャラ、眼下に盆地を見下ろす事が出来、なるほどチベットはこんな所であるだろうという事を髣髴とさせる。

「霊気を感じる」

というコメントもあるが、私にはトンとわからない。「町」と書いたが、実情はそんなものではない。チベット人の難民キャンプに毛が生えた程度の集落である。法王の宮殿も、かなり簡素なものだった。チベット人の集落だけあって、チベットに関連した品が、数多く土産物屋では扱われている。私はここで、

「FREE TIBET」

のロゴの入ったTシャツを購入した。

ダラムシャラの滞在は、わずか24時間、到着翌日には山を下りる事にした。目指すは、印巴国境、アムリトサル。そこまで行くには、一日一本、朝10時に出るバスに乗ってパタンコットまで出て、そこからバス或いは列車でアムリトサルまで行くのである。道中、ものすごい雨に降られたりもした。私はこのとき、政府バスに乗ったわけだが、バラナシに行くときに、ウィリーが政府バスを嫌がったわけが良く解った。凄いオンボロのタタ製、椅子の乗り心地は最悪である。どうやら山だから雨が降ったということではないらしい。パタンコットは平地の街だったが、そこでバスを降りてアムリトサル行きのバスに乗り換えたときも、さほど暑くは無かった。

アムリトサルでは、今回は前回と異なり、シーク教徒の聖地、ゴールデンテンプルに宿をとることにした(写真)。このゴールデンテンプルは、異教徒である我々でも、無料で、宿と朝晩二度の食事を提供してくれる、有り難い所である。実のところ、殆ど手持ちのインドルピーを使い切っていた私には、他の選択肢は無かった。夜に、宿泊施設内のあてがわれた部屋から、二層の回廊に囲まれたゴールデンテンプル内陣に行ってみると、ライトアップされた本堂を取り巻く池の周りでは、巡礼者たちが寝転がって睡眠をとっていた。

翌朝、私は再びパキスタンを目指して、アムリトサルのバスターミナルから国境行きのバスに乗った。しかし、違う行き先のバスに乗るという、あほなミスをしでかす。幸い途中で気がつき、再びバスターミナルに舞い戻って、あらためて、アムリトサル行きのバスに乗る。出発時に曇っていた空は、ワガボーダーに着く頃には晴れ上がり、非常に暑くなっていた。前回は青息吐息で、やっとの思いで通過したワガの国境チェックポストだが、今度は私の足取りは、ふらつく事は無かった。

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