W、再びパキスタン編
こんてんつ @イランビザの申請・・・ラホール・ラワールピンディー A難民キャンプと誕生日・・・ペシャワール・ギルギット Bアジア横断へのパスポート・・・ラワールピンディー・ラホール Cペットボトル4本路線・・・ラホール〜クェッタ、クェッタ
@イランビザの申請・・・ラホール・ラワールピンディー
ワガボーダーを渡りきったパキスタン側国境ポストでは、ラホール市バス4系統が、客待ちをしていた。市バスといっても、パキスタンでは主流の、トヨタのハイエースワゴンを改造した、狭っ苦しいミニバスではない。ヒノの大型バスである。これに乗って、ラホール駅前まで出た後、市バス43系統で、再びYWCAに向かう。 着いてみて、絶句した。ベッドは少なくなっているし、洗面台は無くなっているし、ほとんど廃墟寸前といった様子になっている。それでも気を取り直し、昼食をとりに外にでがてら、両替したり、街いちばんの繁華街、アナルカリバザールへ行く。一ヵ月半前に苦しめられたストも終わり、街は活況を呈していた。
散歩ついでに、YWCAの最寄りの市バスの停車場、チャリングクロスから再び市バス43番に乗って、イラン領事館に行く。領事館は、ゴミゴミした旧市街から新市街に出る道筋にある(新市街には私は行った事が無いのであるが)。周囲は緑も生えているし、建物も少なく、静かなところである。それほど威圧的でもなく、小ぢんまりした感じの建物だ。
見学していると、領事館を警備しているパキスタン軍兵士たちが話し掛けてきた。
「ビザとりに来たのか?」
「ハイ、そうです」
「でもちょっと遅かったな。明日の朝7時に来なさい」
私は、自分の左腕を見た。そこには、日本からの相棒である、Gショックが鎮座していた。表示されている日付は7月15日の土曜日、翌日は当然日曜日である。
「でも明日は日曜日ですよ」
「いや、この領事館は木曜日と金曜日が休みなんだ」
なるほど、イスラム教の休日は、金曜日である。・・・割には、パキスタンの官公庁の休日は、土日である。
かくして翌朝、私はイラン領事館に足を運んだ。8時前に到着したのに、既に長蛇の列が出来ていて驚愕した。申請用紙2枚を受け取って必要事項を書き込み、写真を貼って、順番がくるまでダラダラと待つ。 ラホールは、私の夏バテを「ダメ押し」して、旅の長期停滞を決定的にしたところである。くどいようだが、暑い。木陰だったとはいっても、良く体がもったものだ。順番が回ってきたのは11時半、既に昼前。2ヶ月前のイスラマバードのイラン大使館では
「ビザは日本に帰ってとって来い」
といわれたので、ここで待つ羽目になるわけだ。
宿に戻っても、暑くて疲れて外に出る気にならない。下手に外に出て夏バテを再発させるのも怖かった。 で、近くのTDCP(パンジャブツーリズム)のオフィスに翌朝のバスのチケットをとりに行ったら、空調が効いていて涼しい。暫く呆っとしていたら、備え付けのテレビで『烈火の炎』を放送しだしたので、唖然として動けなかった。
翌朝8時、ラホールを出て、ラワールピンディーに行く。5時間くらいで到着し、私は再びポピュラーインの客になった。そしてこのピンディーのインターネット屋から、下鴨劇場HPの掲示板に(ちなみに、そこにはじめてアクセスしたのはデリーだった)、
「経過報告書」
と題し、それまでに訪れた場所を全て列記した長大なカキコを製作した。あまりに長すぎて、完成までに2時間半かかった。
ピンディーは、再会の地だった。前回のパキスタン滞在時にあれこれ話をした人たちが、フンザで1ヶ月以上、沈没していただけの話であるが。沈没とは無縁の私は、宿に近い「新疆餐庁」で、新疆料理のラグメンを食して後、翌朝に早くもペシャワールを目指して出発する。
A難民キャンプと誕生日・・・ペシャワール・ギルギット
ペシャワールに行くバスは、メインバスターミナルであるピールワダイだけでなく、宿所ポピュラーインの近くの、コミッティチョークのバスターミナルからも出ている。このターミナルからはラホール行きばかりが出ているが、1台だけペシャワール行きがあり、それに乗り込む。 前夜に一緒に夕食を食した日本人カップルも同行した。バスが出発したのは11時ごろ、それから昼食休憩を挟んで、ペシャワールに到着したのは15時ごろ。それから前回と同様にツーリストインに行くが、同行の日本人カップルは、宿の汚さに、別の宿を探しに行ってしまった。
宿に荷物を置いて、私は少し離れた中心地、サダルバザールへ行く。このペシャワールのサダルバザールでは、外国人旅行者相手に、ツアーをやっているババジイというパシュトゥーン人がいて、このおっさんに会った私は、ツアーのガイドを頼む。
サダルには土産物屋も多い。ところで、前にも触れたが、私はコインマニアである。土産物屋に入ったら、必ず古銭の品定めをしないと気が済まないのである。かくして、私はペシャワール滞在中、土産物屋に片っ端から入って、古銭とにらめっこをする日が続いた。
ペシャワールでは、おそらくペルシャの古銭が、アフガンを経由して、入ってくるのだろう。それも、かなり大量に。
さて、ペシャワール到着翌日、私は同宿の男性一人を誘って、ババジイの主催する現地ツアーに赴く。・・・まあ今回の参加者は2人だけである。まずはバスに乗ってアフガン人難民のバザールに行く。
パキスタンの幹線道路、GTロードをはカイバル峠にむかう線路を伴って走るが、ペシャワール西方郊外に行くと、この線路沿いに難民たちのキャンプが広がる。しかしここ、単独で行くと、危ないのではないかと思う。ババジイはどうやらこの地の顔役の一人ではないかと思う。このおっさんは、歩く保険というところだね。
で、難民キャンプでまず連れて行かれたのは、マリファナを商う店。マリファナというのは、通常は樹脂状で、10グラム単位で取引されているらしい。私も巨大な(60キロぐらい)のマリファナの塊を持たせてもらった。 そして銃器屋。この地はソ連のアフガン侵攻以来、アフガンの武器庫だったらしいが、ライフル銃を持たせてもらった写真を見た友人たちは、
「お前まるでゲリラやなあ」
と、ひたすらに呆れていた。ちなみに、ここでは100ルピー(200円)出せば、ライフル銃の試し撃ちをやらせてもらえるそうである。
それにしても、である。ここで、日本からの10円ガムの山を見たときには首をかしげた。おそらく援助物資であろうが、‥なぜガム?一体に現地の状況をつかんだ支援ということを、実行しているのか?どうも、ペシャワールというのは、タリバンも含めて、アフガン国内の軍事組織が、活動費調達のために設けている、窓口のようなところだな。 (難民キャンプの写真@・A・B)
ババジイツアーをやってしまうと、ペシャワールでは、もはや具体的な観光をする事は無かった。郊外にガンダーラのタフティバーイという遺跡があるが、とてもそこまで行く気にならなかった。旧市街のバザールを歩いているだけで溶けそうに暑いのである。
かくしてペシャワール滞在4日にして、私はピンディーを経由して、北部のギルギットに行くことにした。どうやらピンディーは雨期なのか、ピールワダイのバスターミナルでは雨が降っていた。そしてここからギルギットへは、夜行バスになる。
ギルギットのツーリストコテージを再訪したのは、7月22日。到着したのは朝だが、女主人のケイコさんが、パートナーのイスマーイールさんと朝食を摂っていた。その前で何となく立ち尽くしてしまったのは、奇妙なまでに人の気配がしなかったからである。 夏休みシーズン直前ということで、一時的に客がガクッと減ったのだそうである。私の到着時は、実に3人しか先客がいなかった。まあこの3人の先客が、どなたも1ヶ月くらい滞在しているんだけど。私もチェックインした後、朝食など頂いてゆっくりしてたら、新しい客が数人、入ってきた。
到着翌日の7月23日、私は22歳の誕生日を迎えた。しかし生憎と雨が降り、私は特に観光もせず、ギルギットの市街地をふらつき、ペルシャの古銭を買ったのみ。しかし翌日、また別の旅行者とセットで、ケイコさんと日本人宿泊客に、「誕生日パーティー」を催してもらった。日本でも家族以外の人に誕生日を祝ってもらった事が無いので、照れた。
ギルギット到着から雨の降らない日というのは殆ど無かったが、おかげで服は乾かないし、もう一つ困った事が、出発というその日に起きた。雨で、崖が崩れてしまっていたのだ。何とか通る事は出来たものの、一車線ずつしかないピンディーへの道は大渋滞、ということになっていた。しかも到着寸前に故障する。やれやれ。
Bアジア横断へのパスポート・・・ラワールピンディー・ラホール
ピンディーでは、今度はポピュラーインではなく、新市街の、サダルバザールのアル・アーザムホテル。まあここは、ホテルの従業員が馴れ馴れしいんだかフレンドリーなんだかよくわからないが、私はどうも遊ばれていたらしい。シングルルームは満室だったので、結局、ドミのような部屋を、梅田さんという日本人旅行者とシェアした。これで一人あたり80ルピーである。うーむポピュラーインの宿賃は一体・・・
ピンディーには、インターネットも含めて(北部ではネットは料金が高くてやらなかった)情報収集が主な目的だったが、ひたすらゴロゴロしていても無駄なので、近郊のタキシラという遺跡に行ってきた。タキシラへは宿の近くのミニバスターミナルからバスが出ている。遺跡には当然博物館があるが、ここの博物館は、妙にけったいな所だった。まず、入場料を払うときに(4ルピー)、5ルピー出したら
「釣りが無い」
と、1ルピーちょろまかされる。入ったら入ったで、日本からの「カラコルムハイウェイ越え」ツアーの団体さんがいたり。
そこから少し離れたストゥーパ(仏塔)へは、タンガーという、ロバに引かせた馬車に揺られていったが、そのストゥーパでは、職員が勝手にガイドして、挙句に
「ガイド代20ルピー払え」
と言ってくる。おいおい。
その翌日にはピンディーを発ってラホールに向かう。今回もポピュラーインからいちばん近いコミッティチョークのバスターミナルからのバスを使ったのだが、どうもラホール行きというのは、バスによって料金が全然違うのである。新しい高速道路を走るフライングコーチは200ルピー近く、旧来のGTロードを走るフライングコーチは100ルピーからのお値段である。どちらを選ぶかは好き好きだろうが。 ・・・しかし、途中で給油のために寄った所で、別のミニバスのパキ人客が、私と、同行する梅田さんを見ようと集まってきたときには閉口した。
ラホールでは、アナルカリバザールのクィーンズ・ウェイホテルに宿泊した。しかしこのホテル、蚊が多いのである。我々はツインをシェアしたが、結局、2泊で退散し、YWCAに移ることにした。 今回のラホール滞在は、私も梅田さんもイランビザ取得のためである。申請した日は一日違うものの、結局のところ、私と梅田さん、それに初老の日本人男性、ウオサキさんの3人がイランビザをもらった日は同じ。それに、私は大真面目に並んでビザの申請をしたが、実は外国人は、優先してもらえるのよね、申請の順番。
そんなわけで、イランビザの取得手順は、下記のような次第である。
7月16日
ビザ申請。写真2枚必要。申請用紙は朝8時より配布。
↓
7月30日
午前中に領事館に出頭。パスポートを領事館に預け、ビザ代金の振込用紙を渡される。その用紙を持って、マールロード沿いのAllied Bankに行き、申請料金2750ルピー(50ドル相当)を振り込む。領収書をもらうのを忘れずに。
↓
8月1日
ビザ代金振込みの領収書と引き換えに、ビザ発給。
まあ手順はコロコロ変わるみたいであるのだが。ツーリストビザを申請した場合は3ヶ月有効の2週間ビザ、トランジットビザを申請した場合は、同じく3ヶ月有効の5日間ビザをもらうのだが、これで料金同じだから、
「割りに合わねえ」
と、トランジットビザの取得を申請した梅田さんはぼやいていた。
ところで、ビザ発給のとき、領事館内の待合室で、パキスタン人の職員と雑談をしていたのだが、この職員、言うに事欠いて
「日本で働きたいが、どうすればビザを取れるのだろう。もしよければ、あんたの住所を教えて欲しいのだが」
と言ってきた。パキでは、あるいはイランでも、このように「住所教えて」と頼まれる事は珍しくないが、いくらなんでも領事館内でこんな事を言われるとは思わなかった。
ラホールでは、けっこう観光もした。アナルカリバザールとマールロードがぶつかるところにある、巨大な博物館とか、1ルピー硬貨の意匠になっている、バードシャヒーモスクとか。 モスクの中ではサンダルを脱がなければいけないから、熱された赤レンガの上を歩くとものすごい暑いのだ。ラホールの旧市街は、目立たないが、優美な城壁で囲まれていたりする。中は迷路である。
そしてこのラホールでは、サンダルを新調した。それまで使用していたサンダルは、新疆・カシュガルのエイティガール寺院前のバザールで購入したものだったが、随所に亀裂が入り、使い物にならなくなっていた。 かくして、イランビザ取得の翌日に、ラホールの要、チャリングクロス付近の高級靴屋「Bata」で、399ルピーを投じて、高いが履き心地の良いサンダルを購入したのである。このサンダルとも、旅の最後までの付き合いとなった。
そうする一方で、北のフンザに向かう人に、旅行人ノートの『シルクロード編』(中国・旧ソ連の中央アジア・カフカス編)を託し、ツーリスト・コテージに持って行ってもらった。イランビザの取得の経過を記した報告書を挟んで、のことである。
Cペットボトル4本路線・・・ラホール〜クェッタ、クェッタ
イランビザ取得が確実になった7月30日、私はラホールの鉄道予約オフィスに、チケットを購入に行った。1等車両以上のチケットは、予約オフィスで事前に購入する必要がある。ラホールの場合、そのオフィスが駅から離れたところにあるのである。
それはさておき、私の応対をしたのは、黒いチャドルをまとった女性職員だが、発見のためのパソコンをろくに検索もしないで、
「1等は8月8日まで、A/C車(パキスタンの列車は、1等車両では空調効きません。空調が効くのはA/C車だけです)は8月14日まで一杯だ」
といわれる。しかし、その女性の対応を見る限りでは、到底納得は出来ない。
「とにかく8月2日以降の残席状況をチェックしてみてくれ」
私がゴネると、仕方無しに残席をチェックし始める。そうすると、8月3日の1等車両に空席が在った。粘り勝ちである。
そんなわけで8月3日、私はラホール駅に向かう。このとき私は、飲料水の入った1.5リットルサイズのペットボトルを4本、買い込んでいった。
ここで、話はそれより10日ほど前のピンディーのアル・アーザムホテルの食堂に戻る。私はここで、イランを抜け、クェッタからピンディーにやって来た旅行者と、チャイ(紅茶)を飲みながら雑談していた。 その女性もまた、クェッタからピンディーまでは列車で来ていたのだ(現在、ピンディー〜クェッタ間やペシャワール〜クェッタ間の直通バスは存在しない模様)。その女性旅行者に、私は質問する。
「実際、水なんかはどれくらい必要なんでしょう。かなり暑いし、ペットボトル4本くらい必要と聞きましたが」
「それくらいは持っておいた方が安心ですね。それに、夜は窓から砂が吹き込んで、眠れたもんじゃありませんよ」
何故、この路線に乗る際に携行する水の量の目安がペットボトル4本になっているのかについては定説は存在しないが、どうも蔵前仁一氏の『旅で眠りたい』中の、
「クェッタからイランに向かう列車に乗る際、ペットボトル4本の水を買い込んだ」
という趣旨の記述が、関係しているんじゃないかと思う。あくまでも推定ですが。
かくして私は、8月3日にラホール駅から、ペットボトルを4本持って出発したわけだが、ラホール始発のはずの列車の出発がいきなり1時間遅れる。それに列車は遅い。 1等車両といっても、最初から席位置が確定しているわけではなく、私のコンパートメントには、いろんな客が入れ替わり立ち代り入って来る。いちばんギョッとしたのは、犯人を連れた警察官と同席したときであるが。エアコンの効かない車内はやはり暑かったが、窓からの風で、何とかしのぐ事が出来た。 写真を見ていただければ解るのだが、この車両、
「何処が一等車両やねん!?」
と突っ込みたくなるようなひどい状態。そして夜の砂塵は‥‥襲ってこなかった。夜の7時頃から雷を伴った激しい雨が降り、地面は濡れて砂埃は立たず、気温も下がって、むしろ長袖を着ていないと眠れぬほどに快適であった。
翌日、砂漠の中を、ただでさえ走る速度の遅い列車は、さらに速度を下げ、徐々にイラン高原へ上って行く。そして終点、バローチスタン州の州都クェッタに入ったのは、夕刻6時であった。 アメリカのアフガン攻撃ですっかり有名になってしまったクェッタは、街のつくり等は、それほど面白い街ではない。街路を歩いている人々が面白い。物凄く、胡散臭い街なのだ。この街も暑かったが、海抜1600mという高地にあるせいか、ラホールほどジメッとした気候ではない。日陰に入れば、けっこう涼しい。
この街では2泊したが、その目的は、イランリアルの入手である。この街には、両替商の集まるブカニ・センターというビルがあって、私はそこで、100ドル相当のイランリアルを入手したのだが、ここの両替商というのがけったいな奴らで、何かと理由をつけて、こちらの腹に仕込んだマネーベルトから金を抜き取ろうとするので要注意。
そして、準備万端整えた私は、遂にイラン国境に向かう夜行バスに乗った。かつて下川祐二氏や蔵前仁一氏によって
「世界三大地獄交通区間」
などと評されるところであるが、イランへ向かう道が舗装された今は、それも無縁の話である。暑い最中の8月初頭の事であったが、車内は冷房が稼動していなくても涼しかった。 (道路の写真)