絲綢之道の道端にて

X、「天空の玉座」を求めて・・・イラン編


こんてんつ
@死者の街・・・バム
A天空の玉座を求めて・・・シラーズ・ペルセポリス・イスファハーン
B「世界の半分」イスファハーンへ
C聖地巡礼・・・テヘラン・マシュハド
D「諸王の王」との対話・・・ハマダーン・ケルマンシャー
Eアナトリアとカフカスへの宿場町・・・タブリーズ


@死者の街・・・バム

8月7日早朝、私の乗ったバスは国境の集落タフタンに到着した。到着と同時に、両替商が数名、ワラワラと寄ってくる。かなり悪いレートでの両替を申し入れてくる彼らを適当にあしらって、私は国境の事務所に行く。 出国手続きはパスポートを見せて署名をしただけ。イラン側のミルジャワ入国事務所では、一応バックパックを開けられたが、荷物をぶちまけられるということは無かった。

事務所を出て、敷地の入り口まではバスがあり、そこからは乗合バスで、国境にいちばん近い都市ザヘダンまで行き、そこのバスターミナルからテヘラン行きのバスに乗って、バムで途中下車をする。

バムはナツメヤシの産地として有名であるという。私はナツメヤシが好物で、中東にいる時期は、よく食べた。そしてこの街、近年は、ナツメヤシよりも、オアシスの外れに存在する古い市街地、アルゲ・バムの遺構によって、観光地として有名になっている。

「死者の街」

と別称されるこの都市遺跡、最終的に放棄されたのは1722年ということだが、城壁に囲まれた廃墟は、全て土色。日干し煉瓦で作られた街である。日本では無理だが、雨の少ない乾燥地帯では、日干し煉瓦で充分なのだろう。殆どの建物は、屋根が抜け落ちてしまっているが、修復作業がかなり大規模に進められている。

このアルグの中にはチャイハネ(喫茶店)があって、私はここでチャイを飲んだ。このチャイハネの壁には『旅行人ノート』のバムの紹介のページが貼り付けてあった。そして白黒テレビが置いてあって、・・・なんと「キャプテン翼」を放映していて、思わずずっこけた。
バムの写真

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A天空の玉座を求めて・・・シラーズ・ペルセポリス・イスファハーン

バムを出た私は、ケルマン経由でシラーズに出た。シラーズはバザールで有名らしい。

このバザールというやつ、煉瓦で出来たドームをつないで通廊状にしている。まあ、アーケードのような感じである。バムからシラーズ直行のバスに乗ると、シラーズ到着が深夜になるので、わざわざケルマンを経由して時間潰しをしたのである。

イランでは、移動費に頭を悩ませる事が無かった。交通料金がべらぼうに安いのである。理由は簡単で、産油国だから。燃料費が安いと運賃が安いという法則を、身をもって知る事になった。結果、長距離バスに乗っても百円、夜行バスで二百円、一等寝台に乗って四百円、挙句に飛行機の国内線が二千円という、

「とんでもない」

としか表現しようの無い事になっている。そのため、「いかに安く旅をするか」という事に血眼になるバックパッカ−の多くが、この国では、やたらと飛行機を使いたがるのである。

閑話休題。

夜行バスでシラーズに着いたのは、まだ明け方。イランはサマータイムを使用しているため、実際の時間よりも1時間早いのだが、これは困った。面倒くさいので、嫌いなタクシーで市街中心部のホテル街まで乗り付ける。 しかし‥‥である。手ごろな値段の宿が見つからないのである。やっと見つけたホテルは、窓も無く、狭いシングルで25000リアル(約3ドル)。どうも、高いように思われてならない。空調はついているが。

夜行バスでフラフラになった体に鞭打ち、外に出て朝食を食べ、市内観光をしようと歩き始めたところで、タクシーの運ちゃんに声をかけられる。

「ペルセポリスとナクシェ・ロスタムに行って戻って7万リアルでどうだ」

ガイドブック(旅行人ノート5『アジア横断』編・初版)を開いてみると、両替レートから行って妥当な金額である。とりあえず米ドルに換算すると、55kmの距離を行って戻って9ドルという事になる。 かくして、私は永年の憧れ、ペルセポリスにタクシーで乗りつけるという、ものすごく贅沢な事をやってしまう。

ペルセポリスは、山地と平地の境目に建造された宮殿である。現在は、崩れた石柱が横たわったり倒れたりしているが、けっこう頑張って修復されている。建物に刻まれた浮き彫りが、かなり綺麗に残っている。 日本からの団体さんが来ていたので、ガイドの説明を盗み聞きしたりしながら、宮殿の廃墟を歩き回る。遺跡に比して、博物館の展示のあまりのショボさには愕然とした。

この宮殿の周囲の山地の山肌に刻まれたのが、ナクシェ・ロスタム。もともとはアケメネス朝の大王たちの磨崖墓が集中してある所で、そのせいかどうか、

「ペルセポリスはアケメネス朝の祭儀用の宮殿なのだ」

ということを、とある本で読んだ事がある。そのアケメネス朝の墓地に、後世のササン朝の皇帝たちが、自分たちの正統性を主張するために、戦勝記念のレリーフを彫ったというわけだ。
両者を比較してみると、なかなか面白い。アケメネス朝の大王が馬に乗った図を描いた磨崖墓は無いのに、ササン朝の皇帝は、その殆どが乗馬しているか、武器を手に取っている。 (ペルセポリス入り口付近での写真)

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B「世界の半分」イスファハーンへ

ペルセポリスではしゃぎ過ぎて、その日は夕方まで宿でへたれていたのだが、翌日の朝7時半にはもう、朝食のサンドイッチを買い込んで、イスファハーン行きのバスに乗っていた。パキスタン滞在時からは想像も出来ないハイペースである。シラーズ市内のバザールをぶらぶらしての帰路に会った、同宿の日本人男性、アキトさんと二人で臨時のパーティーを組んでの移動である。 乾ききった砂漠の中を、ひたすらにバスは進む。イラン高原の景色は、単調な砂と岩との連続なので、評判が悪いのだが、私は同じ光景を一昼夜見ても飽きないという、特異な体質の人間であるため、窓外の景色に魅入っていた。

イスファハーンでの宿は、これまたバックパッカーの溜まり場、アミールカビールホテルである。この宿の料金体系は少々変わっているのだが、‥‥まあよい。私がアキトさんと2人でシェアしたのは、3人部屋。よく解らないが、まあ3人ドミのような感じの部屋。このアミールカビールには、6月に、ラホールのYWCAで死んでいた時期に会った、依田さんがいて、両者ともに驚愕。スキンヘッドに髭という、怪体な人である(‥他人のこと言えた義理では無いが)。 投宿した数日後には、ギルギットのNTCで同じ宿の住人だった浅野さんが到着し、二人で一緒にビザの延長に行ったりした。私の持っていたビザはツーリストだったために、1ヶ月延長してもらえたが、哀しいかな、浅野さんのビザはインドで取った1週間トランジットだったため、5日間の延長しか貰えないという違いはあったが。

イスファハーン観光の中心地、イマームの広場は、バザールに取り囲まれている。このバザールは全て観光客向けの店で占められていて、私はここで、日本への土産をしこたま買い込んだ。市内には川が流れていて、シオセポルと言う優美な橋が架かっている。しかし、川の水量が極端に少ないため、かなり情けない姿であった。そして市内各所にあるチャイハネでは、しばしば水煙草をふかした。もっとも、煙に慣れていない私の場合、次第に喉が焼けるようになってやめたのだが。 (写真@A

そしてまた、この街にはキリスト教地区がある。キリスト教徒アルメニア人が固まって住む、ジョルファ地区である。この地区にある教会は、一見、モスクのような形をしている。その敷地内には博物館があって、イランでのアルメニア人の生活の展示公開とともに、第一次世界大戦中にオスマン帝国で起こった「アルメニア人大虐殺」の展示コーナーがあった。 (教会の写真

隣国パキスタンに比べて、この国では、市内を歩く女性の姿が非常に多い。動きにくいチャドルを着ている女性は少なく、殆どが、スカーフと膝くらいまである夏用コートという服装。外国人旅行者までが同じ格好をさせられるのは辛いところだが。 ちなみに男性の場合、半袖でも見咎められる事は無い。むしろ日本人の場合、イラン人が敵意を持っている、アフガン人との区別がしやすくて、日本人旅行者と判る服のほうが、無難な感じがする。もっとも、ランニングシャツとか半ズポンはご法度だから要注意だ。

イラン人の、アフガン人への敵意に関しての実体験を一言。これはペルセポリスでの話だが、入場券売り場にイラン人が集まっていて、私に

「アフガン人か?」

と訊いて来た時、私の周囲の人々が、敵意に近い緊張感を持っていたのをよく覚えている。

「日本人ですよ」

と答えると、一気に空気が和らいだものだが。

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C聖地巡礼・・・テヘラン・マシュハド

イスファハーンには、1週間滞在した。それまでのハイペースの疲れが出たということにしておきましょうか。

さすがにこれ以上の滞在はヤバイという事で、イランの首都テヘランに移動する事にした。この移動の時には、パーティーは4人に増殖していた。私とアキトさんの二人に、若いカップル。このカップルとは、前にギルギットのツーリストコテージで同宿しているのだが、こんな事は珍しくもなんとも無い。旅とは出会いと別れの繰り返しである。 後に、アミールカビールで同宿だった名大の近藤君、鈴木さんとマリコさんという男女のコンビ、今村さんという若い夫妻、ビザの延長をいっしょにやった浅野さん、NGOの拠点を回りながら旅を続ける悠君などがテヘランに続々と終結してくる(原則として、各人の名前については旅行中の呼び名を基準にしています)。

イランのバスは、空調があるか無いかで値段がかなり変わってくる。夜行バスだと空調は必要ないが、日中のバスは暑いのだ。

テヘラン到着翌日、私は悠君と二人、マシュハド行きの夜行列車に乗る。この夜行列車、一統寝台が、4人乗りコンパートメントで37000リアルだから、当時のレートで450円強、といったところになるかと思う。しかし夜行列車だから、外の光景は見る事ができない。夜は寝るだけであるが、かなり快適だった。

翌朝、我々は、マシュハドに着いたその足で、駅内のカウンターで同日中の夜行寝台のチケットを購入、そして、市内唯一にして最大の観光地、イマーム・レザー廟に足を運ぶ。イマーム・レザーは、イスラム教シーア派最大級の聖者で、この聖者の廟があるために、マシュハドは多くの観光客を集めているのである。アフガンや中央アジアの境と近いため、アフガン人の姿も、多く見る事ができる。
廟の事をペルシャ語でハラムというが、このハラムは現在、円形の巨大なコンクリートの壁で覆われ、ゲートを設けて巡礼客を整理している。異教の徒は、ここで持ち物を預けて(これはムスリムもそうだが)、ツーリストインフォメーションに通される。ここで、マシュハドについて説明するビデオを見せられてポスターをもらうのである。で、

「何処でも出入り自由ですが、イマーム・レザーの棺の安置してある、廟本体に入る事だけはご遠慮ください」

と、念を押される。後で聞いたら、見つからなかったらOKという事なのだが、私は莫迦正直に、ハラムの係員の言うことに従った。馬鹿でかいハラムの中では、礼拝の光景なども見た。

イマーム・レザーの廟本体の前まで行くと、女性が泣きながら建物の中から出てくる。

『中はどんな事になっとるんやろ』

私は、指をくわえてその光景を眺めるだけだった。後刻、マシュハド駅で会い、夜行列車の中で夕食を共にした日本人女性、海塩さんによれば、マシュハド市内には

「十数ドル払えば、異教徒でもハラムのなかに入ってOK」

というツアーを斡旋している旅行会社があるそうである。

私と悠君は、結局一夜にしてテヘランに戻る。で、一旦別れ、私は、荷物を預けてあったマシュハドホテルに戻り、到着していた近藤君と部屋をシェアし、テヘランでも山の手にある日本大使館に行く。日本大使館の辺りはメイダネ・アルザンチンというが、テヘランでも高級住宅地に辺り、各国の大使館がある。 折悪しく大使館は昼休みで、私は大使館付近で会った今村夫妻と昼食を共に食べ、それから日本大使館に行くと、悠君がいた。大使館の中には彼と二人で入ったのだが、この大使館はすごいところだった。館員が、ハーフミラー越しに来客と接するのだ。

「まるで牢獄」

とまで、酷評されるわけである。なんだってそんな所に行ったのかというと、シリアビザ取得のためには日本大使館のレターが必要だからである。 そしてシリアビザ取得は翌日のことになるが、こちらも大変だった。シリア大使館は、門に新シリア大統領のバッシャール・アサドの肖像が掲示してある大使館の、門外の狭い窓口に、イラン人が殺到し、窓口までたどり着くのが一苦労。午前中に申請して、ビザ発給は2時。発給されたビザを見て、私は再び絶句。全てアラビア語。読めねえ。

テヘランは巨大なオアシスだが、見所が豊富なわけではない。旧アメリカ大使館と宝石博物館と考古学博物館、・・・それくらいか。 このうち、宝石博物館は、バンク・メリ・イランの本店の地下にある。歴代のイランのシャーがしこたま溜め込んだ宝石を展示している博物館である。ダイヤモンドとエメラルドとルビーで作られた地球儀を見た私は、爆笑してしまった。そして王冠の前では、考え込んでしまった。イランの歴史の本に、

「ササン朝ペルシアの皇帝は、王冠があまりに重いので、玉座の上から鎖で吊るしていた」

という記述があった理由が、実によく理解できるからである。

もうひとつの見所、旧アメリカ大使館は、まだ敷地はそのまま残っている。この敷地を囲む塀に、絵や字でアメリカの悪口をひたすら書いているのである。
アメリカへの敵意といえば、イスファハーンのアミールカビールで、同じ宿に泊まっていた白人旅行者の呼んでいる英字新聞に、長崎の平和祈念式典の様子を伝える記事が載っていて、仰天した事がある。ふとそのことを思い出してしまう。

そしてテヘランの中央郵便局では、それまでに集めた地図、イスファハーンで買い漁った土産などを日本に送った。船便だと料金は7kg送っても千円にならないというが、

「半年かかる」

といわれて断念、航空便にした。3キログラムで1400円くらいである。この荷物は無事に日本に着き、私は大学の友人たちに、土産をばら撒きまくった。先日、某女史に

「僕のイラン土産、今元気にしている?」

と聞いてみたら、現在行方不明らしい。哀れ・・・

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D「諸王の王」との対話・・・ハマダーン・ケルマンシャー

テヘランを発った私は、ハマダーンに向かう。このバスはテヘランの西バスターミナルから出るのだが、ここにはイスタンブール行きのバスも発着する。イスタンブール行きのバスを幾つか見送りながら、私は待機を続けた。バスに乗ったのは昼過ぎ、巨大なオアシス、テヘランに見送られながら旅を続ける。

バスがハマダーンのバスターミナルに着いたのは、夜の8時半。ここから、市街地の中心部の安宿が集中している地区まで乗合タクシーに乗るのだが、ここまで来ると、イラン人も良い人ばかりでなく嫌な奴がいることもよく解ってくる。基本的には人に親切なのだが、タクシーの運転手などは、これはどの国にいっても同じ事だが、客から金をより多くふんだくる事しか考えていない。今回も、しっかり私だけ余分にふんだくられた。それに、悪気が無いことは解りつつも、イラン人の過度なまでの好奇心には辟易した。

閑話休題。

到着した翌日、私は「イランのベスト3」のひとつといわれる、アリサドル洞窟に足を運んだ。何をもって「イランのベスト3」と呼称するかについては諸説あるが、イスファハーン、バム、ペルセポリス、アリサドル洞窟、マシュハドなどが、その有力候補とされる。アリサドルは、バスターミナルの近くのミニバスターミナルから、ミニバスに乗って1時間半である。緩やかに起伏するハマダーン郊外を通り過ぎ、アリサドルは標高2100mの山の中にある。ハマダーンも海抜1800mであるが、それでも、かなり標高差がある。
このアリサドル洞窟、中には水が溜まっており、寒い。考えてみれば、乾燥した高地で、しかも陽光を遮断しているのだから、寒くて当たり前なのだが、私は不覚にも、半そでシャツの上から羽織る上着を持参しておらず、けっこう寒かった。中でボートを漕いだり歩いたりしていたから良かったけどね。鍾乳洞というものを見るのは、下手すると初めてかもしれない。高名な秋吉台も、このようなところであろうか。天井からプラカードが架かっていたのはかなり阿呆だが、ライトアップされていて綺麗であった。

ハマダーンはまた、アケメネス朝帝国が、夏の都としたところである。その遺構は、市街中心地に小高い丘として残り、暑い日差しの下、発掘作業が行われていた。・・・何というか、ただの土塊の丘なのだが、そこはそれ、さんざん「土くれのカタマリ」のごとき、乾燥地帯の都市遺跡を見てきた為、ある程度は、日干し煉瓦や版築の痕跡くらいは見て取れるようになってはいる。当然、王宮の遺構などは公開されているわけだが。

ハマダーンのバザールでは、ジーパンを買い換えた。日本からはいていたジーパンは、老朽化がひどく、もう大腿がかなり擦り切れてしまっていた。やはり、就寝時用に、半ズボンの一枚くらいは持って来るべきであったと、旅行中にはしばしば後悔したのだが、結局、800円ほどで、新しいジーパンを購入し、旅の終わりまで付き合い続けることになる。

ハマダーン到着の翌々日、私は、再びミニバスターミナルから、ケルマンシャー行きのバスに乗った。なだらかな山地を越えていくのだが、途中、ニハーヴァンドの辺りにさしかかったときには、かなり感慨深いものがあった。
かつてゾロアスター教を国教とするササン朝は、ニハーヴァンドの戦いで一敗地に塗れ、勢力を爆発的に拡大しつつあったムスリムたちの波に飲み込まれる様に崩壊していったのだが、そのニハーヴァンドは、ケルマンシャーからハマダーンへと繋がる街道の途中に広く立ちはだかる山地の中の、少し開けた平野に在る。ここを突破されたら、イラン高原は蹂躙され放題になるのは必至だ。そしてケルマンシャーは、今も昔も変わらぬメソポタミアの心臓部、現イラクの首都バグダードからは直線で200kmほどしか離れていない。イラン・イラク戦争のときも最大の激戦地のひとつになったというが、まあ当然だろう。

この、メソポタミアからイラン高原に行く玄関口の、市街地の北外れの岩山に、ササン朝の帝王の浮き彫りが残る、ターゲ・ボスターン遺跡がある。往時は、このレリーフ群に隣接して神殿が造営されていたらしく、列柱の残骸が転がっている。ササン朝の皇帝たちは、王宮のあるイラクと、本拠地であるイランとの結節点であるこの拠点に自分たちのレリーフを作り、道行く旅人たちに、存在を見せ付けていたのだろうか。
ケルマンシャーの写真

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このケルマンシャーから少し離れた、小さなオアシスを従えた岩山の山肌に、アケメネス朝のダリウス大王(1世)の残した有名なレリーフがある。しかし、このレリーフは、修復工事中なのかどうか、足場を組んでいて、訪れる旅行者の入場を拒んでいた。行き損だったな。そして、ケルマンシャー市街の地中心部から少しはなれた、砂漠の中のバスターミナルに戻ってみれば、珍しいもの見たさのイラン人に寄って集られ・・・気疲れした。気疲れを引き摺って、私はタブリーズ行きの夜行バスに乗った。

Eアナトリアとカフカスへの宿場町・・・タブリーズ

ハマダーンから夜行バスでタブリーズに着けば、なんと明け方5時。日も未だ昇っていない。仕方なく、明るくなるまで、バスターミナルで眠る事にした。明るくなるのを待って、タブリーズ郊外のバスターミナルから市街中心部に出てみると、この街の形が良くわかる。すり鉢の様な形をしている。

タブリーズには、たいして見所は無い。フレグ・ウルス(イル汗国)時代に作られた要塞の残骸、アルゲ・タブリーズと、バザール位なものである。アルゲ・タブリーズのほうは、焼き煉瓦で造営されていて、かなり巨大なので、中心部に来ると、すぐに見つけることができる。かつて地震で崩れてしまったということで、完全な姿を想像する事は難しい。要塞跡の近くでは、大規模な発掘作業をしていた。

もう一つ、バザールは巨大である。分厚い煉瓦の天井で陽光を遮り、バザール内は涼しい。イスファハーンのバザールとは違って、絨毯や金銀細工だけでなく、種々雑多な日用品も売っていた。(バザールの写真

タブリーズは2日も居たら飽きてしまうので、再びバスターミナルに行って、TVで放映されているキャプテン翼を横目で見ながら、イスタンブール行きのバスのチケットを購入した。22万リアルである。ま、大体27ドルくらいだ。

タブリーズを出発する日は、チャイハネでのんびりしたり、実家に電話をかけたりしてみる。日本の標準時では夕食時、という時間帯を狙って電話してみたら、見事に家族全員揃っていて、両親と兄と妹がかわりばんこに電話口に出た。考えてみれば、西安で電話して以来、日本に電話するのは久しぶりだもんな。夜には、5月にラワールピンディーの宿で会った、かなめさんという女性と夜食を共にしたりして、ゆったりしていた。
イランの食事というと、飯屋ではバターライスに羊肉ミンチのケバブ(串焼き)を突っ込んだ、「チェロケバブ」というのが一般的で、こちらは3日も食べ続けると飽きてしまうのだが、ケバブの代わりに、煮込んだチキンをあわせる「チェロモルグ」というのがある。こちらの方が若干、値は張るが、美味い。しかし昼食となると壊滅的である。サンドイッチしかない。私の好物は、羊の脳を煮込んだものを具にしたサンドイッチであるが、これは高いんですよね、やはり。

そして、夜行バスに乗る直前、市内のバス会社のオフィスに行く。ここからバスが出るまで待機するのだが、・・・トイレで私は凍りついた。ジーパンのファスナーが故障したのだ。どう足掻いても、ファスナーは動いてくれない。

「せめてイスタンブールに到着する時くらいは格好つけさせてくれよお!!」

心中に号泣したが、こうなってはもう致し方ない。諦めるしかない。かくして、夜11時ごろに到着した夜行バスに、泣く泣く乗り込む事になった。(タブリーズの修復中のモスクの写真

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