絲綢之道の道端にて

Y、飛ばずにイスタンブール・・・トルコ編

こんてんつ
@孫子の「アジア横断終了宣言」・・・イスタンブール編
Aギリシャ遺跡と奇岩群・・・エフェソス・カッパドキア
B東を目指して・・・アンカラ・ネムルトダーゥ
C国境を目指して・・・トラブゾン・ドゥバヤジット・アンタクヤ


@孫子の「アジア横断終了宣言」・・・イスタンブール編

8月30日未明、私の乗ったイスタンブール行きや行バスは、バザルガン国境に到着した。この国境ポストは、丘の上にある。相変わらず私は、故障した社会の窓が気になってしょうがないのだが、まあとにかく、国境ポストが開くまでは待つしかない。 イラン人のみ支払いが義務付けられている、出国税の支払い光景を眺めながら、私は、英語の流暢な女性と雑談をしていた。イランも、

「昔よりは自由になった」

というが、どうも、女性がチャドルをつけているのは、強制されているから、というだけではないようである。この女性も、トルコ国内に入っても、スカーフと、マントーと呼ばれる夏用コートを外そうとはしなかった。

夜が明けて、国境のチェックポストが開いた。イラン人は全ての荷物を調べられるのだが、私のような外国人旅行客は、X線チェックすら通されず。 けっこうスムーズに通過できたのだが、問題はトルコ側入国チェックポスト。恐ろしく手際が悪く、殺人的に込み合っていた。一応、列を成して並んではいたが、自分の番になるのにどれくらいかかるのか、見当すらつかない。

「こりゃたまらん」

ということで、同じバスに乗っていたチェコ人旅行者と示し合わせて、最前列に割り込んで、入国管理官にパスポートを渡す。管理官氏、

「何、日本人?ノープロブレム」

と、ろくに改めもしないで入国スタンプを押すので呆れた。しかし相棒のチェコ人は、悲劇だった。彼のパスポートを改めている時、突然、チェック待ちの人と管理官が喧嘩をはじめて、窓口を一時閉鎖してしまったのだ。私はどうする事もできず、一人で管理事務所の外の庭に出て、闇の両替商に掛け合って、イランリアルをトルコリラに換えて、バスが出発するまで待った。 (国境の写真

やがて、乗客全てのチェックが終わるのを待って、バスは出発。道中、面白かったのは、バスの燃料は、トルコのガソリンスタンドでは補給しないのである。 パーキングエリアにバスを停めて、客に買い物や排泄をさせている間に、なんとイランから積んできた燃料を補給しているのである。トルコではガソリン代が日本と同じくらいかかる為、というのがその理由であろう。このパーキングエリアでは、トイレの使用料の高さにも困った。

さて、ここで、余計なお話をひとつ。公衆トイレの使用料金というものについてお話をさせてもらおう。日本では、公衆便所の使用には、普通はお金はかからない。ところが、海外を旅行していると、むしろ、便所の使用料を徴収する所が普通なのである。従って、便所に入ると受付があって、使用料金を徴収する係員が鎮座している。特に一番笑ったのは、上海で見た、

一つ星トイレ」「三ツ星トイレ

である。トイレに等級があってたまるか!まあ、そんな中国では、トイレが綺麗か汚いかで使用料金が変わってくるのである。使用料金がかからないのは、ホテルの1階ロビーのトイレくらいなモノではないだろうか。 公衆トイレの使用料金を払わなかった国は‥‥まあ、あまり無いな。パキスタン辺りだと、日中の余剰水分は全て汗になってしまうし、宿で午睡をしていたから、街中の公衆便所を使った記憶が無いのだが。

トルコに話を戻そう。

丸一日、トルコ国内を真っ直ぐ西に横切って、イスタンブールに到着したのは、8月31日の12時ごろ。河川マニアで湖沼マニアの私がカスピ海に目もくれずにペースを上げてきたのには、一つワケがあった。サークルの同期の人間が一人、

「9月6日にイスタンブールに行く・・・かもしれん」

と、出発前日に私に言い残していたのだ。雨がポツリポツリと降り出していた卒業式の日、派手な振袖を着た女性のその一言が、私の行動の一つの道しるべとなっていたのだ。

到着した地点から、私と同乗のチェコ人は、まず歩いてアクサライというところまで出て、そこで分かれた。私はトラムに乗って、ベヤジット駅で降りた。そこからボスフォラス海峡に向かっては、下り坂になっているが、その下り坂を下りきる途中に、ガラタホステルという宿があった。 「あった」と書いたのは、もともと非合法宿だったのに加えて、オーナーと宿泊客がもめて、警察に踏み込まれて、2001年3月に営業停止を食らったということで、今はもうこの宿は存在していないからである。まあ、それは先の話であって、私が訪ねた頃のこの宿は、旅行客も大勢居た。表に看板が出ていないので、オーナーのイスマイルに呼び止められなかったら気がつかなかっただろうが・・・

まずはチェックインを済ませ、トルコリラを作った後は、イスマイルに、壊れたファスナーについて相談した。幸いガラタホステルは、靴職人たちの工房が並ぶ下町にあり、服の修理を請け負ってくれるような店はけっこう存在した。その店の一つで、ファスナーを付け替えてもらう事にしたのだ。 100万トルコリラ(TL)かかったのであるが。このトルコリラという奴、実に厄介で、インフレしまくりなのである。1999年の時点では、1米ドル=31万TLだったのが、私のイスタンブール訪問時は、1ドル=66万TL,となっていた。今、レートはどうなっているんだろう。 ジーパンを直す一方で、私は宿のすぐ近くのインターネットカフェに行き、日本語の使える端末から、日本に声も高らかに、アジア横断終了の宣言を送った。タイトルが

「飛ばずにイスタンブール」

である。ベタである。

イスタンブールでは、数多くの人に再会した。マシュハドからテヘランまで同道した海塩さんは、連れの女性と共に、同じガラタに泊まっていた。ギルギットで同宿し、アムリトサルのゴールデンテンプルのバンダナを見せ合って、

「お互い、似非シーク教徒ですね」

と語り合った徳永さんとは、トプカピ宮殿の中で再会した。彼の宿、コンヤペンションには、情報ノートを見に行った。ラワールピンディーのポピュラーインで療養中に出会ったきんさんは、ペシャワールで会ったチュ−やん(本名市原さん)を伴って、最初泊まっていたコンヤから、移動してきた。 そして、ラホール・イスファハーンと、既に2度会っている依田さんと、またも再会して、お互いにとりあえず握手。この依田さんは、到着した夜、地下の食堂での日本人宿泊客一同での大雑談の際に、

「君(私である)の事はこれから尊師と呼ぼう」

と発言、その場に居た人々はみな、本人の意思を微塵も確かめる事無く、この呼称に諸手を挙げて賛成しまくった。私は仕方なく、「尊師」を「孫子」と呼びかえることで、私の通称・兼・自称とした。 すなわち、ホームページのタイトル「洛北孫子亭」の原型は、このガラタでつけられたニックネームに在るのである。そしてこれ以降、私が送るメール・カキコの類のハンドルネームは、実家に送るものを除き、全てが「孫子」の名前で統一される。日本の友人たち、混乱しなかったのかなあ・・・ 少なくともこれから旅先で合う人々は、私のことは一発で覚えるようになった模様である。「本物」に似ていたかどうかは、当時の写真で確認していただく以外に無いが。

人と会うばかりで、観光をしなかったワケでは、まったく無い。何しろ、街ごと世界遺産になっているのがイスタンブールである。犬も歩けば遺跡に当たる。で、イスタンブール名物サバサンドを昼食としてほおばりながら、連日観光に明け暮れた。 到着翌日には、アヤソフィアを訪れた。実はアヤソフィアは、外見はかなり不恰好なのである。これと向き合うようにして建っている、ブルーモスク(スルタンアフメット・ジャミイ)のほうが、優美で美しい。アヤソフィアは、その巨大さ、中の絢爛豪華なモザイク、そして、

「これを目指してここまで旅を続けてきたのだ・・・」

という感慨によって、一大観光地としての価値があるのだろう。

徳永さんと再会した、オスマン朝の皇宮、トプカプ宮殿。でかい。ひたすらでかい。歩き疲れる。その他、軍事博物館や、コンスタンティノープル陥落時のオスマン朝の拠点、ルーメリ・ヒサール、ユスティニアヌス大帝の作った、首都地下の貯水池・地下宮殿、市街地の外れにある、荒廃した大城壁など、数え上げればキリが無い。

その他、このイスタンブールは、アジアからの情報とヨーロッパからの情報が蓄積されている土地でもある。この地で、私は情報の収集・整理に精を出し、ヨーロッパから来た旅行者に、『地球の歩き方』ヨーロッパ編をもらうという、幸運にもめぐり合った。

ちなみに、イスタンブールで会うはずだった友人とは、結局会わなかった。日本に帰ってから、その事について問い質したところ、

「あほ!そんな金あるかいな」

と、開き直られてしまった。(イスタンブールの写真@A

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Aギリシャ遺跡と奇岩群・・・エフェソス・カッパドキア

気がつけば、イスタンブール滞在は、実に10日になっていた。情報の収集と整理、そして観光にも一区切りついたと判断した私は、イスタンブールを離れて、次なる目的地・エフェソスへと発った。夜行バスに乗ったままボスフォラス海峡をフェリーで渡り、イランまでとは乗り心地が格段に違う座席に座して爆睡し、気がつけばエフェソスに到着していた。

エフェソスは、地中海に面したギリシャ都市のひとつで、ローマ時代には、属州アシアの首都として栄えた。かつては海に面していたが、現在では内陸の都市となってしまっている。近くのセルチュク市からは3km、歩いても行く事ができる。 遺構全体が公開されているわけではないので、見ることが出来る所は限られているが、中心地以外の見所も広く散在しているので、見て回るのは一日仕事である。

エフェソスから内陸に、100kmほど行った所に、アフロディシアスという都市遺跡がある。ここには、巨大な陸上競技場の跡があるので見に行った。ローマにもエフェソスにも無いので貴重なのだが、ここはアクセスが最悪だった。
行きはバスを2回乗り換えて3時間半かかり、帰りは最寄りのミニバスターミナルがあるカラジャスまでヒッチして、そこからバスターミナルのあるナーズィリまで出て、そこから、セルチュクを通り過ぎた所にあるイズミールという海港都市まで出て、セルチュクまで戻るのである。かくして、 行きに3時間半、帰るのには6時間かかり、戻ってきた時には空腹で喋るのも嫌という状態だった。

アフロディシアス訪問の翌日の夜行バスで、私は、世界遺産だらけのトルコの中でも格段に有名な観光地、奇岩群で有名なカッパドキアに到着した。カッパドキアの中心地・ギョレメ村は宿だらけだから、宿を探すのには困らない。
私が泊まったのは、ギュヴェンペンションという、洞窟宿。さすがにカッパドキア、岩壁を穿って宿にしてしまっている所も多いのである。ここのドミトリーに荷物を放り込んで、早速、一日ツアーを主催している旅行会社を探し回る事にした。 オトガル近くで会った日本人男性、土橋さんという人と二人で、アルピノ・ツアーという会社がやっている一日ツアーを利用する事にした。大体25ドルくらい(昼食付き)である。何故一日ツアーを利用したのか、というと、地下都市や、岩窟寺院が散在しているウフララ渓谷は、ギョレメから離れているため、一日ツアーを利用した方が見て回りやすい、という理由である。

まずは、ギョレメ南側のピジョンバレー。ソフトクリームのような形をした奇岩が、朝日を受けて照らし出される。その次に、地下都市カイマクル。

「何処まで下りるんやねん」

と突っ込みたくなるほどに、下まで下りる。通路は狭い。カッパドキアの人たちは、外敵に攻められた時には、この地下都市に逃げ込んだらしい。炊事場になっている区画を見上げれば天井にはススが付着しているし、教会らしきところまである。しかし、排水や排気は一体どうしたのだろうか。

続いて、岩窟教会のある、ウフララ渓谷。見学する事のできた教会は2つのみである。この教会、壁面を穿って柱やドームなどを再現し、さらには漆喰を塗って壁画が描かれている。当然写真撮影は禁止。しかし、そんな事より、ここは殆どトレッキングだった。足がしんどい。 そしてウフララ渓谷を脱出した後は、再び岩窟教会の多い、セリメという奇岩群の見学。こちらは山の上にあるため、登り。ウフララの教会より、こちらの方が規模は大きい。壁画はあまり残っていないのではなかったか?写真を撮っていた位だから。(岩窟教会の写真

岩窟教会群を離れ、巨大だがガランドウなケルヴァンサライ(キャラヴァンサライ=隊商宿)、そして陶器の里・アヴァノスへ行く。ここで、陶器製作の様子を実演しているのだが、私は陶器は小学生くらいの頃に図工の授業で散々作ったし、高校の修学旅行でも備前焼の里に行ったし、中国やイランでも陶器は散々見たし、いまさら興味はなかった。
そして日没の時間帯、パジャパーの奇岩群でおしまい。さすがに日没時、非常に綺麗なのだが、うーむ、実にちん○岩の群れである。先刻のアヴァノスの陶器職人、同じ一日ツアーに参加していたアメリカ人の姉ちゃんがロクロに手を伸ばした時に、パジャパー奇岩群の岩を作らせていたので、苦笑を通り越して呆れた。 (パジャパー奇岩群の写真

翌日はギョレメ近辺の屋外博物館を徒歩で回り、そのまた翌日にはレンタサイクルを借りて回ったのだが、この両日は衝撃の連続だった。まず屋外博物館では、日本人の若い女性二人連れが、私の方を見て、

「ねえ写真撮ってもらおうよ」「でも、なんて言って頼めばいいのかな」

私の絶句と悲哀を感じ取ってください。そしてレンタサイクルでは、ひたすら疲労した。谷だらけだから、自転車で坂登りの連続なのだ。しかも、夕刻には、自転車がパンクした。疲れた。

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B東を目指して・・・アンカラ・ネムルトダーゥ

カッパドキア滞在4日目の朝、私はギョレメを発って、トルコの首都・アンカラに向かって出発した。オトガル(バスターミナル)のあるネヴェシェヒールまではセルビス(ミニバス)で行き、そこからアンカラまでは5時間ほど、緩やかに起伏する中の一本道を通っていく。
窓外の光景を見ながら、私はこの後の旅のことを考えていた。
当初の予定では、この後グルジアに1週間ほど滞在して、それからまたトルコに戻ってくるつもりだった。しかし、それでは予定が狂いそうなのだ。頭の中では漠然と、10月末にイスラエルのハイファとギリシャを結ぶ定期航路に乗ろうと考えていたのだ。しかしこのままのペースでは、果たして何処まで目論見どおりに旅行できるというのか・・・バスに座る私の気分は虚ろだった。

アンカラは、いくつもの丘陵地を飲み込むように拡がる巨大な街である。そのうち、安宿が集中しているのは、アンカラの中でもっとも古くから都市があったウルス地区。しかし、ここでの宿探しは難航した。無いのである。 やっと見つけたホテルは、シングルで300万TL。しかし、シャワー代100万TLを取るので、気楽にシャワーを浴びる事もできやしない。宿探しで苦労したワリに、ロカンタ(安食堂)を探すのには苦労しなかった。宿の近くに安くて美味いロカンタがあったためである。

翌朝、私はヒッタイトの帝都ハットゥシャシュに向けて出発した。バスに揺られる事3時間、スングルルという街のオトガルで下車した所で、いきなりハットゥシャシュ行きは頓挫した。その日(9月17日)は日曜日なので、ハットゥシャシュの入り口・ボアズカレに行くドルムシュ(ミニバス)が運行していないのだ。 最初は性質の悪い冗談かと思ったが、紛れも無い事実だ。オトガルの職員は、タクシーで行けと言う。後から考えればそれしか方法は無かったのだが、私は無類のタクシー嫌いである。結果、オトガルの人間ともめて、街道沿いで不貞腐れていると、通りがかりのオヤジが車に乗せてくれた。しかしこいつがどうやら、私設タクシーだったらしい。結局、このオヤジとは、ハットゥシャシュ入り口で、料金の事でもめて喧嘩別れする羽目になった。 (ハットゥシャシュの写真

ハットゥシャシュは、巨大な丘をすべて占める、広壮な城砦である。入り口のボアズカレ村から、有名なスフィンクスの城門のある南端までは、上り坂になっている。城門の外側は、崖になっている。建物の殆ど全てが、礎石を残すのみである。したがって、建物などは、敷地面積を窺い知る事ができるのみである。これほどに起伏の激しい所に住むのは結構不便な事ではなかったのだろうか。私は、見て回るのに2時間ほどかかった。

入り口まで戻ってみると、先ほどのオヤジは居なくなっている。何とかボアズカレ村の広場までは戻る事ができたものの、そこから先は結局、タクシーでスングルルまで戻るしかない。しかし、このタクシーの運転手、途中のガソリンスタンドで

「ガソリン代を、さっきの運賃に上乗せして払ってくれよ」

と要求してきた。勘弁してくれよ!と悲鳴を上げた私は、タクシーから叩き出された。しかし、捨てる神あれば拾う神あり。このとき、1台の車が、私を拾ってくれたので助かった。この車に乗っていた人たちは丁度アンカラに行く途中だったので、私はガソリン代を肩代わりする事で、アンカラまでの300kmを同道させてもらった。

翌朝、私は宿をチェックアウトして駅に行き、マラテヤという街までのクシェット(簡易寝台)の切符を購入した。そしてバックパックを駅に預ける時に絶句した。預け賃が125万TLである。おいおい。そしてウルス地区まで戻って、アナトリア文明博物館に行く。名前の通り、アナトリア(小アジア)半島の、出土品を陳列している。 ただし、イスタンブールの考古学博物館とは差別化がしてある。イスタンブールはヘレニズム以降、アンカラの文明博物館はそれ以前、といった具合に。
上のほうでも触れたが、この文明博物館のあるウルス地区は、アンカラの市内でも最も古くから市街地のあった所で、丘の頂上には古い城砦の跡と思しき城壁が、山肌にへばりつく様にして残っている。文明博物館も、その丘の頂上の一角に立っているのだが、まったく、ギリシャ人やローマ人が足跡を残す街は、何処もかしこも丘が欠かせぬ存在である。

アンカラのめぼしい見所といえば、文明博物館と、そして残る一つはアタチュルクの廟である。ギリシャ神殿風の建物で、非常に巨大なモニュメントである。面白かったのは、博物館内の、生前のアタチュルクのもとを訪れた海外要人の写真だろう。高松宮、蒋介石、アフガンの軍人に混じって、イランのパフレヴィ−1世の写真が陳列してあった。

翌日昼過ぎ、私は夜行列車の旅を終えて、マラテヤに到着する。そこからドルムシュに乗り換え、さらに乗合タクシーに乗り換えて、ネムルトダーゥ(ネムルト山)のふもとのキャフタの町に行く。 この町のペンション・アナトリアという宿が、ネムルトダーゥへのツアーをやっているのだ。ここでも長々と交渉したが、ネムルトダーゥと、コンマゲネ王国の離宮アルサメイヤの二ヶ所を回って、30ドルということになった。

ネムルトダーゥの山頂に出発したのは深夜2時すぎ。「日の出ツアー」なので、こんな時間に出発する事になったのだ。ネムルトダーゥへの道は、途中からすこぶる悪くなった。石畳になっているのだ。そして入り口の事務所から上に、更に徒歩で、登って行かなければならない。山の上だけに、風が強く、寒い。
目当てとする、コンマゲネ王アンティオコス1世の葬祭殿は、山頂の岩盤の上にあった。そして、葬祭殿の巨大な神像の背後には小石が山と積まれているのだが、しかし葬祭殿は地震で崩壊し、巨神像は、哀れ、首と胴が切り離され、首は地面に転がっている。
山頂には、私と同様に日の出を目当てに集まっている観光客が20人以上はいた。周囲は山だらけなのだが、ネムルトダーゥは飛びぬけて標高が高いので、日の出も良く見る事ができた。 (ネムルトダーゥの写真

語り忘れたが、キャフタはクルド人の多い町である。ペンション・アナトリアの経営者も、クルド人だった。

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C国境を目指して・・・トラブゾン・ドゥバヤジット・アンタクヤ

キャフタから黒海沿岸の街トラブゾンへの直通のバスは無いため、私は一旦、アドゥヤマンという街までバスで出て、そこからトラブゾン方面行きのバスに乗る。ちなみにこのバス、そのまま乗っていると、グルジア国境のリゼに出る。やがて5時ごろ、バスは黒海沿岸に出て、その後は黒海に沿って走っていく。
トラブゾン到着は午前11時ごろ。今回私が投宿したのは、安宿ではなく、サンタマリア教会という教会。宿ではないから基本的に宿代は無いのだが、いくらかの心づけを渡していくのが慣習となっている。私は、トラブゾンを発つ時間があまりにも早くて、心づけを渡すことができなかったが・・・

トラブゾンは、高低差が激しい。海岸から内陸に向かって、急激に坂になっている。この街、けっこう物価が高かったりする。これまで10万TLだったエキメキ(トルコ風フランスパン)が、ここでは15万TLくらいはするのだ。しかし、魚料理は安い。私の夕食は、毎日サバを食っていたような記憶がある。
この街にも、アヤソフィアという名前の教会がある。黒海を望んで発つ、小ぶりな教会であるが。そしてこの街のウラス・ツアーという旅行会社には、カフカス方面についての情報が記されている情報ノートが置いてあった。結局、私はグルジア・アルメニアへの訪問を諦めたのだが、一応情報ノートには目を通した。

到着翌日、私はバス会社の一日ツアーで、郊外のスメラ修道院に足を運んだ。トラブゾン市街地からドルムシュで40分ほど行った、山の中にある修道院である。麓から30分ほど、山道を登った崖の上に修道院は存在する。
この修道院、壁画で有名らしいが、見るも無残に破壊されていた。意図的な破壊というより、落書きなどの傷の蓄積によって、見るに堪えない状態になっていた。修復工事をやっていたが、何処まで修復できるものやら・・・ 工事のために見る事が出来る所も限られていたし、元来が小規模な建物なので、30分とたたずに見終わってしまい、余った時間は、同じ一日ツアーに参加した人々(私以外は全員白人だった)と雑談していた。

その翌日には、早くもトラブゾンを発って、エルズルム経由でドゥバヤジットへ向かう。トラブゾンを離れて1時間ほどすると、それまでの緑豊かな沿岸地域の光景ではなくて、荒涼として起伏に富んだ、アナトリア内陸の丘陵地帯に景色は一変していた。 やがてトラブゾン出発より4時間半後、バスはエルズルムのオトガルに到着し、私はすぐにドゥバヤジット行きのバスに乗り換えた。トラブゾンを出発したのが7時で、ドゥバヤジットへの到着は午後4時半頃。ほぼ1日、バスに揺られていた事になる。

ドゥバヤジットはトルコとイランの国境の街で、普通、イランからトルコに抜ける旅行者は、まずこの町に寄ってから西に向かうのだが、私は生来のへそ曲がりであるらしい。 このドゥバヤジットは、イランとの国境にあるため、郊外にあるこの街で唯一の観光地、イサク・パシャ・サライ(太守宮殿)まで行く道すがらには、軍の基地がある。街中には軍用品屋があったりする。 イサク・パシャ・サライは山の中腹にあるため、乾燥した高地の中に広がるドゥバヤジットの町並みが、よく見渡せる。小さな町だが、インターネットカフェも会って、日本語のサイトを見る事の出来る所もあり、私は久々にニュースを見たりした。



ドゥバヤジットに二泊して、つづく目的地はシリア国境のアンタクヤ。この道は難路を極めた。深い蒼色が美しいワン湖の沿岸を通り、国境に近い山道を通っていく。ポリスチェックを受けたりしたが、それより、だんだん気持ちが悪くなっていった。どうやら、バスに酔ったらしい。途中のサービスエリアで吐いてしまった。

アンタクヤに到着したのは朝5時半。ここのオトガルは、ドゥバヤジットのものにも劣らぬ小ささである。アラブ式のハタイという呼び名でも良く通じるこの町は、シリアの地図では、未だにシリア領になっている
歴史に詳しい(ついでに私の研究領域)人なら知らぬ人はいないだろう。アレクサンドロス大王の『後継者』諸王国のひとつ、セレウコス朝の王都で、ローマ時代にも栄えたアンティオキアのあった場所である。 しかし今は、小規模な地方都市と化している。市内を流れるオロンテス川は僅かな水量しかなく、とても船舶の航行など望み得ない。天然の障壁とも言える、市街東部の山地の上には、往時の大城壁の残骸も見えるが、見るも無残というべきかな。

そして私は、アンタクヤのオトガルで再会したきんさんに引き摺られるようにして、たった一泊でアンタクヤを後にしたのである。

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