絲綢之道の道端にて

Z、激動・鳴動の地中海東岸へ・・・シリア・ヨルダン編

こんてんつ
@シリア前編・・・アレッポ・デリゾール
Aシリア中編・・・隊商都市パルミラ
Bシリア後編・・・ハマ・ダマスクス
Cヨルダン編・・・アンマン・死海・ペトラ


@シリア前編・・・アレッポ・デリゾール

9月26日、アンタクヤのオトガルで、聞き覚えのある声が、

「お〜い帽子〜」

と私を呼ぶのを聞いた。「孫子」が通称として定着している今、こんな風に私を呼ぶ人は滅多にいない。その声のするほうを見てみると、そこに居たのは、スキンヘッドのお兄さん、きんさんであった。聞けば、

「イスタンブールから今着いた」

そしてすぐにシリアに向けて発つと言う。私は、頭の中の日記帳をめくってみた。彼は、私と前に再会したイスタンブールに、3週間以上もずっと居たことになるのだ。なんともまあ、極端な沈没型の方である。そういえば、前もフンザに何ヶ月も居た事があったな・・・

そうして彼を見送った翌日、私もシリアのアレッポに向けて出発した。出発する時、オトガルでは雨が降っていた。バスが8時半に出発、国境に着いたのが9時。恐ろしく近い。この国境では、トルコ側出国ポストからシリア側入国ポストまでの間がけっこう離れているのだが、この国境の緩衝地帯には、遺跡が散在していた。

国境を抜け、シリアの最初の街アレッポに到着したのは12時過ぎ。それから、市街中心の時計台の辺りに出て、宿を取る。荷を置いたカウ・カブ・アル・サラームホテルには、きんさんが先着していて、夕刻に、雑談したり夕食を共にしたりした。たまたま、夕食を食べに言った食堂に日本人女性が居て、私は訊いてみた。

「新五百円玉か弐千円札、お持ちじゃありませんか?」

そう、五百円玉が新しくなった年である。私は外地でニュースを聞くのみで、実物を見たことが無かったため、このように日本から来たばかりの旅行者に尋ねまくる事になる。ちなみに、新しい五百円玉を初めて見たのは2001年1月6日、関西国際空港のキオスクである。外地では遂に、お目にかかることが無かった。

アレッポ市内の小高い丘には、優美なアレッポ城がある。十字軍時代に作られたものらしいが、・・・まあ優美なのは城壁だけで、中はけっこう物凄い事になってたけど。ここから市街を見下ろすと、城のすぐ付近にある旧市街地は、なんとも砂色の街である。城から出ると、スーク(市場)にわざと迷い込んでみたりした。 ちなみにシリアに着いた当日は水曜日だったのだが、何故かしら観光地は入場料が無料だった。翌日にはしっかり取られたけど。観光する前には、市内の銀行で両替をしたのだが、トルコ最終日に足を運んだ両替商のほうがレートが良いという状態であった。しかしこの後、確か両替は一度もしていないはずである。理由は後述する。
ちなみにアレッポはオリーブ石鹸が名物なのだそうである。私も一つ、自分の入浴用に買った。かなり巨大だったから半分に分割して、残り半分は日本に持ち帰って、・・・未だ使ってない。

アレッポでの滞在は実質2日で、3日目の朝には、早くもユーフラテス川沿いの街・デリゾールに向けて発った。デリゾールには、休憩を挟んで、4時間半ほどで到着した。道中は沙漠ばかり。ユーフラテス川は遠くに見えたのだが、乾ききった中を突っ切る幹線道路をひたすら走るばかり。バスにエアコンがついていないから暑かった。

デリゾールに到着したものの、イスラムの休日である金曜日だったためか、街は非常に静かだった。そうした中、ユーフラテス川に架かるデリゾール大橋の上から、中京大の菱田さんと言う男性と一緒に、日没を眺めた。この菱田さんとも、イランビザ取得の時にラホールで初めて会い、カッパドキアで再会し、これが三度目の顔合わせとなる。
ユーフラテス川の深い蒼色は、何と言えばよいのだろう・・・強く印象に残った。デリゾール大橋は、車両が通行できないため、のんびりボケ−っと、日没と川を眺めていられた。

翌朝、私は早朝にデリゾールからドゥラ・ユーロポス(現地名サルヒーエ)に向かった。乗ったミニバス(ワゴン改造)は、イラク国境のアル・ブクマル方面に向かう。つまり、そのまま乗っていればイラクに達したわけだ。もっとも、私はそんな危ない所に行くつもりは(今回は)無く、ただひたすらに、ヘレニズム都市ドゥラの遺構に興味があっただけである。
そのドゥラ・ユーロポスは、幹線道路から2qほど歩いたところにある。沙漠のど真ん中に、今まさに埋もれんとする砂色の廃墟である。長い間砂に埋もれていたというが、城壁は大きく傾いでいるし、巨大な建築物が周囲を圧しているわけでもない。ただひたすらに、石英の散らばる、砂色の遺構である。 ユーフラテス川に面した部分は、その殆どが、切り立った断崖になっている。崖下は当然、ユーフラテス川沿岸であって、農地が広がっているが、大体川岸から2〜3kmくらいの幅で拡がっている。まさしく、川にへばりついた農地である。

遺跡を回りながら、こんなマイナーな遺跡に来るのは私だけだろう、と自負していたが、世の中、悪趣味な人間は私だけではないのである。フランス人の団体さんがツアーバスを乗り付けてきたので、私は唖然とした。 (ドゥラ・ユーロポスの写真

デリゾールに戻ってみると、街は喧騒に満ち満ちていた。イスラム教圏で、金曜日と土曜日でここまで表情の違いを見せる街とは、これ以降めぐり合っていない。しかしその喧騒を後に、私はさっさとパルミラに向かった。バスは午後1時に出るので、私はサンドイッチを昼食とした。サンドイッチと言っても、薄いパン生地にゆで卵などを巻いて食うのである。

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Aシリア中編・・・隊商都市パルミラ

パルミラに到着したのは3時ごろ。沙漠の中に浮かぶ、まさしくオアシスの街である。到着し、宿を探り当てて荷物を置いた私は、さっそく町に隣接して広がるパルミラの遺構に足を踏み入れた。パルミラ全体の入場料が設定されていないので、こんな事が出来るわけである。
時は夕刻、西日に照らし出された遺跡は黄昏色である。
TVで何度も見た、列柱道路に足を踏み入れる。柱の表面は、けっこうボロボロである。円形劇場は少々小ぶりのようだが、山肌をくりぬいたりしたものではないから当然か。そして市街で会った菱田さんと二人、日没を眺めに、廃墟の西側の丘に行った。

本格的な観光は翌日だった。パルミラで入場料金が設定されているのは、博物館とベル神殿だけである。入場料と言っても、国際学生証を出せば、入場料金は二十分の一になるのである。300シリポン(6ドル)の入場料が、15シリポンになる。あ、50円しないんだ。
列柱道路、ディオクレティアヌス城砦、アゴラ(広場)、郊外の塔状墓、元老院議場、と見てまわる。それまでの印象では、パルミラは

「白亜の遺跡」

だったが、実際は、

「砂色の遺跡」

なのである。前日にドゥラ・ユーロポスで会ったツアー御一行とここでも会ったりした。 そして宿に帰ってみれば、ロビーのTVでは、シドニーオリンピックの閉会式をやっていた。そうか、オリンピックやってたんだっけ。そしてこの日は10月1日、サマータイムの終了日である。私は時計を1時間遅らせた。

夜に街に繰り出してみれば、そこはツーリスト向けの町である。土産物屋が軒を連ねる。パルミラ紹介本が並んでいるのは当然なのだが、日本語の本まで並んでいるから笑ってしまう。

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Bシリア後編・・・ハマ・ダマスカス

パルミラに結局は二泊しただけで、三日目の朝には、朝焼けのパルミラに見惚れながら、次なる目的地に向かって、バスに乗っていた。緩やかに起伏する沙漠の道を走り、バスはシリアの沿岸地帯に達する。一旦ホムスと言う街に出て、そこからハマと言う街に出る。 余りメジャーでは無いが、水車で有名らしい。もっとも、私には水車なぞどうでも良くて、ハマにある、中東一の快適宿として名高い、リヤドホテルが目当てなのである。ホムスまでは沙漠の道だったが、ホムスからハマに行く道筋は、緑が濃かった。

リヤドホテルに行くと、またもここできんさんに会った。もっともきんさんはチェックアウトする所であったけれども。なるほど確かに綺麗であるし、情報ノートもけっこうキッチリしていた。
そして宿では一日ツアーというのを主催していた。これで、ホムス・ハマ周辺の有名な遺跡を回ることが出来るのである。いろいろとコースも設定してあって、好きなのを選ぶ事が出来る。現地人との、金をめぐるゴタゴタを避けるにはこれが一番である、と判断した私は、参加する事にした。

かくして、私が選んだのは、もっともポピュラーらしいコース。4ヶ所ほど名所を観て回るのだが、ウリはクラック・デ・シュヴァリエとアパメアの二ヶ所であろう(独断と偏見)。そんなわけで、この両ヶ所について書く。

@ アパメア
ヘレニズム時代、セレウコス朝がシリアに築いた4代都市のひとつで、同王朝最大の軍事基地だった。高台の上にあり、片側の斜面はなだらかで、片側の斜面は急峻な地形。石積みも部分的に残っている。列柱道路が再現されていて、これ以外に観るものが無い (参考資料は大戸千之『ヘレニズムとオリエント』)。(アパメアの写真・・・だけでは無いが)
A クラック・デ・シュヴァリエ
フランス語で「騎士の城」という意味なのだそうな。十字軍時代の城砦の一つ。見晴らしの良い山の上に建つ城には、20世紀まで人が住んでいたということである。
 ちなみに、日本人の間では別の名で呼ばれている。「天空の城」というのがそれである。本当にラピュタのモデルになったのかどうかは知らないが、私もこの名前で呼んでいる。気がつけば「君を乗せて」のメロディーが口をついて出てきていた。
人気の高い観光地だが、アクセスが悪い。行きはともかく帰りが大変。 (クラック・デ・シュヴァリエの写真


宿は快適だし、そのまま長居する・・・ような人間では、私はないのである。みるものをすべて見てしまったので、私は首都ダマスカスを目指す。 まあしかし、イランやトルコから来ると、この移動距離の短さには驚いてしまう。一晩中バスに揺られているということが、絶対に有り得ないのだから。ダマスカスにも3時間くらいで着いた。バスのついたところが市内中心部から離れているのが大変だったな。

ダマスカスでは、大通りから奥まった所にある、アルラビホテルに投宿する。ここにルーフ・ドミというのがある。すなわち、屋上をドミトリーにして客を泊めているのである。当然、安い。私もここではルーフに泊まった。荷物を取られる危険・・・あまり考えなかったな。

宿に荷物を置いて、最初に見に行ったのは、ウマイヤドモスク。未だに城壁で囲まれている、ダマスカス旧市街のスークを抜けた所に、このモスクは存在する。スークからモスクに行くには、半ば崩れたギリシャ・ローマ風の通廊を通る。
「イスラーム第4の聖地」だというこのモスクは、何と言うか、「イスラーム臭」のしない建物だった。ドームが無くて切り妻屋根だし、柱の装飾が華美だし。キンキラキンのモザイクがあるけど、これはおそらくアサド父が改修したのだろう。このモスクでは、礼拝の時間にぶつかったので、その時間は隅で大人しくしていた。

このモスクの敷地内には、英雄サラディン(サラーフ・アッディーン)の廟と棺もあった。廟の中には、ガラスケースに包まれた本物の棺とレプリカの棺が並べてあった。この廟の前では、イラク人の団体さんにせがまれて一緒に写真を撮った。さすがにニッコリ笑う事は不可能だったね。笑顔が完全に引きつってしまった。 (ウマイヤドモスクの写真

博物館も見に行ったな。ドゥラ・ユーロポスとかラッカといった、有名な遺跡の地形の立体模型や、シリア各地から出土した文物を陳列していた。展示品は、質・量、共に物凄いものがあった。

ダマスカスではもう一つ、印象に残っている出来事があった。少年少女によるデモ行進である。カーキ色の軍服を着ていたから、官製デモだろう。ちなみに、軍服を着ているのは男の子だけではない。スカーフを頭に巻いた女の子たちも、軍服を着て、デモ行進に参加していたからゾッとした。 何のためのデモ行進だったのか、結局このときも今も解らないままである(大体の想像はしているが)。しかし、女の子に軍服は似合わない、ということは良く解った。女の子、といったが、10歳前後である。成年に達した女性が軍服を着るのは未だ堪えられるが(それは職業選択の自由というものだろうからね)、小学校高学年くらいの女の子が着ているのを見てしまうと、やりきれない気分になってしまう。

中東情勢は、今どうなっているのだろう。肌で感じている限りでも、緊迫度が増しているのは解った。しかし、肌で感じるだけでは、読み取れないものがある。情報を収集するにはインターネットが一番だろうが、ネットをやろうにも、シリアではご法度であった。結局、徹底的な情報不足の状態は、シリアを出国してヨルダンのアンマンに行くまで続くのである。

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Cヨルダン編・・・アンマン・死海・ペトラ

シリア滞在10日余。ヨルダンの首都アンマンに向かうバスに乗る私は、ヨルダンのビザを持っていなかった。理由は、ヨルダン国境でビザが取得できる、という情報を得ていたからである。

しかし、である。ビザは発給されなかった。要らなかったのである。信じられずに入国管理官に問い返してしまったが、やはり日本人はヨルダン入国の際にビザは不要なのだ。 一緒のバスに乗っていたスペイン人カップルは、羨ましがっていた。さもあろう。私も驚いた。アラブ以外の国籍を持つ者で、ビザが要らないのは日本人だけである。私は国境に掲示してある、「ビザ取得料金一覧表」の前で、しばし呆然と佇んでしまった。

丘だらけのヨルダンの首都アンマンは、ヘレニズム期からあった街で、かつてはフィラデルフィアと呼ばれていた。聞いたことある名前でしょ?アメリカの都市名は、こんな風に、ギリシャ都市から取ってきたものが、結構あるのだ。まあ古い街だから、巨大な円形劇場や古代の神殿跡等もあるけれど、現代風の建物に覆い尽くされてしまっている。
そのようなアンマンの市内の銀行で、おかしな写真が多く掲示されているのを見た。助けを求めている父子が殺される様子を写した4枚の写真である。インターネットカフェに行けば、ディスプレイが映す壁紙は全て、この写真である(ついでにエジプトのカイロのインターネットカフェでも、ディスプレイの壁紙は全てこれだった)。 後日、ペトラで食事をおごっていただいた正木夫妻に教えてもらった所によると、これはイスラエル軍がインティファーダと無関係の父子を撃ち殺した様子で、それが全世界に報道されて、対イスラエル感情が一気に悪化したのだという。
インターネットカフェと書いたが、このアンマンでは、インターネットカフェで久しぶりにメールをチェックした。メールチェックは実に1ヶ月ぶりのことになる。

アンマン滞在3日目には、死海に行く。アンマンからは1時間ほどで着くのだが、私はバスの車内で引っ掻き傷を作ってしまって不機嫌の極みだった。バスがオンボロだから、結構車内では怪我をしやすかったりもするのだ。

死海の水は塩分30%だという。その湖水は、塩分濃度が高いからだろうか、なんだかモヤモヤとしている。そして、身体は勝手に浮かぶ。正確には、「沈まない」という表現が正しい。直立姿勢をとっても沈まないし、バランスを崩せば身体が水面で一回転する。水を舐めてみると、塩辛いを通り越して苦い。ちなみに引っ掻き傷の所はミミズばれになってしまったが、痛みには5分で慣れた。

死海に行ってしまうと、もう残る観光地はペトラしか残っていない。インディ・ジョーンズ「最後の聖杯」の舞台ともなった岩窟都市は、アンマンからバスで3時間半のところにある。
到着して宿を決めてから最初にやった事は、食材の調達。ペトラはツーリスト・プライスの街だから、物価がやたら高いのだ。
そしてもう一つは、靴下にツギを当てる事。靴下そのものは世界各国で購入可能だが(当たり前か)、私の靴下は5本指の軍足である。この軍足と言う奴、見た目は結構不恰好だが、慣れてしまうと、足が蒸れ易い他の靴下が、絶対に履けなくなってしまう。 それくらいに快適だが、困った事に、軍足は日本以外の国では入手不可能なのである。ロンドンの無印良品に足を運んでみたのだが、ここにも売っていなかった。莫迦だねー。置いたら売れるよ、絶対。私の軍足、白人に大人気だったもの。
まあそんな事はさて措いて、代えの利かない靴下は、修理しながら履き続ける以外に無いわけである。実にシュールな気分になった。そして夜に外出した時にお会いしたのが、先述の正木夫婦と言うわけである。

翌日朝、私は手製のサンドイッチをカバンに入れて、ペトラに足を向ける。ギリシャ語で「岩」を意味するこの遺跡は、入場料が何と30ドルかかる。学割も利かないし、困ったものだ。
入るとまず、崖に挟まれた「シク」という道に入る。ジョーンズ博士一行は、ここを馬で駆けていったのだが、私は歩く。そしてこのシクを抜けたところに、エル・ハズネ(宝物殿)が存在する。当然、頭の中では「インディ・ジョーンズ」のテーマ曲がエンドレスで流れてくる。実際、口ずさむ人は多いだろう。

ペトラといえば磨崖建築物だが、ここは岩に彫られたものばかりではなく、列柱道路や岩を積み上げられて造られた神殿、円形劇場もある。岩肌に彫られているのは、一般の住居よりも墓や神殿である。内部は殆どガランドウで何も無い。
エル・ハズネの場合は立ち入り禁止だが、一番大きいエド・ディルという神殿の中には入る事が出来た。がらんとして、何も無かった。こうした磨崖墓・磨崖神殿が、広いペトラの随所に散っているのである。山の上にあるのも少なくない。虱潰しに回っていたら日が暮れた。

この翌朝早く、沙漠を突っ切るキングスハイウェイを走るバスの客となった。目的地は紅海に面した港町、アカバ。ヨルダンは、本当に沙漠と岩山だらけの国である。シリアにも砂漠は多いが、あちらは地中海沿岸・ユーフラテス川沿岸に緑地帯を領有しているから、農作物も生産できよう。しかしヨルダンは・・・本当に、食物の生産が出来ぬであろう。そんな事を考えながら、バスはアカバに着いた。
アカバ港では、思わぬ人に再会した。悠君である。二人とも、思わず顔を見合わせてしまった。私は先に出国ポストで出国税を払い、美しい紅海を見ながら呆けっとしていた。そこに中川さんと言う若い日本人がきて、悠君もさらに合流。エジプトのヌエバ行きのフェリーは、3時にアカバ港を出航した。


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