絲綢之道の道端にて

[、ナイル川を目指して‥‥エジプト編

@サファリに沈没す・・・カイロ・アレクサンドリア
A屈辱・・・イスラエル国境での入国拒否
B飛んでイスタンブール・・・ルクソール、カイロ

@サファリに沈没す・・・カイロ・アレクサンドリア

乗船時にパスポートを預けて乗船した後、アカバの港を離れたフェリーボートは、深く美しい青色のアカバ湾を進んで行く。私が乗ったのは、オープンデッキ。直射日光を避ける屋根はついていたが、潮風をモロに受け、気持ちがよい。そして、アカバ湾を挟む二つの半島、アラビア半島とシナイ半島がよく見える。どちらも海岸まで沙漠が迫り出している。

やがて日も落ちた7時ごろ、フェリーはエジプト側ヌエバに到着し、ようやっとパスポートを返してもらった。 ビザを取っていない外国人は、ここで集合させられ、国境管理の事務所をあちこち移動させられた後、ビザを発給してもらえる。名目はエマージェンシー・ビザとなっている。滞在は1ヶ月間、可能である。延長の際には最低半年間の延長が許され、何回でも延長できる。 すなわち、一旦エジプトに入国したら、いつまでも滞在できるのである。パスポートはエジプトでも(日本大使館で)更新出来るから、半永久的に滞在可能と言う事になる。そこまでやる人は・・・居るのかどうか知らないが。

さて、ここで中川さんはシナイ半島のダハブを目指して別れ、私と悠君はカイロ行きの夜行バスに乗った。かくして、カイロ入城は10月13日金曜日、・・・うむ、ゴルゴ13の日だ。狙ったわけじゃあないのだが。 カイロに着いたのが午前3時すぎ。当然、真っ暗だったため、同じバスに撮っていた豪人夫妻と悠君の4人で、一台のタクシーに乗り込む。私と悠君は、サファリの近くで下ろしてもらった。サファリは、ビルの6階に存在する。扉を開けてはもらったものの、早すぎてチェックインもできやしない。仕方が無いから、サファリの蔵書の『金田一少年の事件簿』を読み始めた。そのまま朝を迎える。

言い忘れたが、サファリホテルは、伝説的と言ってよい、日本人の溜まり場宿である。ホテルの設備はお世辞にも良いとはいえないが、蓄積・整理された情報は、質・量ともに最高級であり、情報を求めて集まってくる旅の猛者たちは多い。また、同じビルの中には他にもヴェニスホテルという宿があり(一つの建物の中に複数の安宿があるというのは、エジプトやヨーロッパでは、それほど珍しい事ではない)、合わせれば宿泊客の数は膨大なものになる。 とりあえず、朝になってもマンガを読んでいたら、依田さんが歯磨きしながら現れ、私を見ると逃げ出した。徳永さんは、私のカイロ入城の翌々日頃、ルクソールから戻ってきた。その他諸々、日本から着たばかりの人も居た。そのような旅行者をまとめているのが、丸山さんと言う日本人男性。月代を剃って長髪を束ねると言う、エセ落ち武者スタイルの人である。 サファリに定住してもう2年だったかな?あの時点で(2002年現在、またビザを延長してサファリに居残っておられます→2003年、居所を同ビル内のスルタンホテルに移されました。2006年現在も滞在中)。宿代200円だし、日本でこれと同じ値段の宿を探すとしたら・・・京大吉田寮だな。

そうした顔馴染みや、初めて面識を得る人の中に、同志社からきた田村君という人が居た。学年は私よりも1つ下なのだが、休学もせずに旅行中だという。さらに話を聞けば、10月20日頃に日本に帰国するのだと言う。
その彼と話をしながら、私の心に一つ浮かんだ思いがあった。この「絲綢之道の道端にて」の出航編・再びパキスタン編などで触れた、私が大学で所属していた学生劇団・下鴨劇場に関する事である。このサークルで私と同期だった連中の卒業公演が、11月第2週に迫っていた。日程確定の情報をヨルダンのアンマンのネット屋で入手して以来、私はずっとその事が気にかかっていた。 今すぐにでも飛んで帰りたいという気持ちもあったが、シルクロードの終点・ローマが指呼の間にあるといってよい距離にあり、シルクロード横断完了も目前の現在、このまま帰ってしまうのは勿体無い。といって、手紙を送っても、精神が崩壊寸前になる芝居の直前時期では、メールボックスのチェックなど、出来るような状態には無いだろう。

しかし、目の前に、格好のメッセンジャーが居るのである。芝居当日、受付での手渡しならば、確実に私の声は伝わるだろう。郵便のもっとも原始的なスタイルだが、旅先から便りを送る場合には、実に、この方法が一番早く、確実に相手に伝わるのである。

かくして、私は彼に、私からのメッセージを届けてくれるようにと、必死で口説いた。渋る彼を拝み倒し、遂にメッセンジャー役を引き受けてもらう事に成功したのである。このとき傾けた熱意の半分も傾けて女の子を口説けば、今になっても解消の見通しの立たない、女日照りの状態は回避できたであろうに・・・というのはどうでもよい話。
彼を口説き落とした後、私はサークル宛の書簡を書き、よせばいいのに、空のMDに声を吹き込むという、手の込んだ事をやった。もっとも、出来たテープを試聴してみて悶絶した。マイクに髭がこすってしまって、おかしな音が混じってしまっていたのだ。

「誰も気付いていないって」

というのが、後日、このテープを聞いたサークルの同僚の証言である。気には障るが、しかし、録り直して結果が同じだったら気恥ずかしいし、再録音は諦めて、私は封筒に、パキスタンで買った便箋に書いた書簡とこのMD,それに加えて、イスタンブールで現像した写真32枚の中から選んだ写真一枚(当HPトップページの写真)を同封して、田村君に託した。 その際に、彼に跪いて感謝した・・・のかどうかは忘れた。ちなみにこの書簡は、芝居当日に、受付で渡してもらった。そして、全員で聴いたらしい。まったく傍迷惑な人間である。

そんな事ばっかりやっていたのでは勿体無い。何しろカイロである。ピラミッドがあるのだ。カイロ入城翌日には(当日は、ひたすらマンガを読んだり免税店に行ったりしていた)、カイロ郊外のギザに向かう。市街中心部から20kmくらい離れていたかな。ナイル両岸の緑地帯とカイロ市街を見下ろす、砂に埋もれた台地の上に、ギザの三大ピラミッドとスフィンクスは君臨する。
カイロ中心部の巨大バスターミナル、タフリール広場から997番のバスに乗ってきた私は、入り口に立って呆然とした。人だらけである。かつて、北京郊外の八達嶺にある万里の長城の事を

「人が多すぎてディズニーランドみたいだ」

と笑った白人旅行者が居たが、まさにこのギザこそが「ディズニーランド」の呼称に相応しいだろう。いや、笑い話ではない。ピラミッドは小高い岩台の上にあるのだが、そこに行くためには、神殿跡と思われる、石造りの狭い通路を抜けなければならない。これがなかなか通過できない。抜け出てみればスフィンクス周辺は人だらけ。

スフィンクスは、三大ピラミッドのある、高台にいたる斜面に鎮座する。当然スフィンクスの周りもディズニーランド状態で、僅かしか見ることが出来ない。首の辺りがかなり心許ない、危険な状態にあるというのは、良く解った。胴体・脚部部分には、煉瓦で補強したような部分もある。首だけでなく、全体にザラザラでボロボロだった。

そしてピラミッド。データや写真だけでなく、実物を目の前にしてみると、三大ピラミッドの大きさの違いが良く解る。クフ王やカフラー王のピラミッドに比して、メンカウラー王のピラミッドはなんとも小さく感じる。 ピラミッドの石は一つ一つが巨大で、私の背丈〈170cm強〉と同じくらいの巨石が積まれている。昼の12時〜1時まではお昼休みで、一時過ぎ、クフ王の大ピラミッドの内部に突入する。当然内部は写真撮影禁止で、入り口の所で預けなければならないが、

「10ポンド(約3ドル)出せばカメラを持って入ってもいい」

と来るから呆れる。そこまでして写真に撮らずとも、ピラミッド内部を撮った写真なぞ、いくらでも見ることが出来るし、何より私の心に風景を焼き付ければそれでよい(おお格好いい言葉だ)。
かくして突入した大ピラミッド内部。王の玄室に至る通廊は、大回廊を除き、身体を屈めなければならぬほどに狭い。やっとの思いで入る事が出来た王の間は、見事にガランドウ、角の欠けた石棺以外に何も無い。そんな所で10分近くも呆っとした後、外に出ようとすれば、回廊は順番待ちのツアー客で列を為していた。
大ピラミッドの外に出た私は、化粧石がピラミッド上部に引っ掛かったように残っているカフラー王のピラミッドと、一部残った化粧石にヒエログリフの刻まれたメンカウラー王のピラミッドを見て回り、目障りな駱駝使い(観光客を駱駝に乗せて大金を巻き上げようと頑張っている奴ら)の誘いを蹴り飛ばして、大きな満足に浸りながら、サファリに帰った。

というのが、正々堂々、清く正しい「表」のピラミッド観光であるが、ピラミッド観光には、「裏の観光」がある。

「ピラミッド盗頂」と俗に呼ばれる行為がそれである。

昔はいざ知らず、現在、ピラミッドに頂上まで登る事は禁止である。で、夜にこっそり、警察にバレない様に登る事を「盗頂」というのである。

しかし、私はこれをやらなかった。理由は、積み上げられた石の一つ一つの巨大さに怯えた事、そして、盗頂を行う事に意味を見出せなかったからである。要するに、憧れだったホンモノのピラミッドを見ただけで満足したのである。

・・・ピラミッド報告が長くなった。カイロには他にも、毎週二回、夜に市内のハーン・ハリーリ地区で催されるスーフィー・ダンス、そしてカイロ博物館など、見所がどっさりある。カイロ博物館は、面積はそこそこ広いのだが、文物が膨大すぎて展示スペースとしては小さすぎるかな、と感じるほどに圧倒的だった。 2階の半分の面積を占めるというツタンカーメン墓の秘宝だけでなく、9人のファラオのミイラを厳選して展示した特別室(別料金)もあり、ラムセス2世のファラオと対面してきた。あまりにもミイラが多すぎて、無造作に並べてあったりするから、恐ろしい。それ以外にも彫像、石柱、キャップストーンなどなど、眩暈がするほどに観るものがある。

カイロでやった事は、他にもある。冬服のジャンパーを買い込んだり、ジーパンを洗ったり、インターネットカフェでメールチェックしたり。

そんなある日、私はエジプト第二の都市・アレクサンドリアに向かった。駅前にホンモノのラムセス2世の巨大な立像が立つ、カイロのラムセス中央駅から列車で3時間、海港都市アレクサンドリアに着く。私は主な荷物をサファリに預け、サブバッグ一つだけの身軽な出で立ちだったが、宿だけは取った。地中海の見える部屋である(・・・柄にもなく洒落っ気たっぷりだな)。 私がこのホテルでやったことは、海を眺めながら日記を片付ける事。同じビルの中にある、別のホテルに泊まっている鷲谷さんという初老の男性と二人で夜食を食べに行ったりした。

アレクサンドリアはアレクサンドロス大王以来の歴史を持つ古い街だが、近代にはすっかり寂れていた。従って、グレコ・ローマン博物館と地中海に突き出た突堤の先にあるカイトベイ要塞、それに市内を走るトラムくらいしかない。アレクサンドリア大図書館は、建設中だったし。 かくして、私は、アレクサンドリアには1泊しただけで、カイロに戻ったのである。カイロに戻ってみれば、メッセージを託した田村君は帰国していた。彼とは後に、劇的な再会をする。(カイロでの写真

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A屈辱・・・イスラエル国境での入国拒否

10月22日、カイロで観光したりマンガを読んだり朝晩ケーキを食べたり(この時期に私は体重を完全に回復させた)という、健全なのだか堕落しているのか良く解らない生活に一区切りをつけ、私はイスラエルへと出発する事にした。

この時、中東情勢は急激に悪化の一途をたどっていた。先述の依田さんは、ちょうど軍事衝突が始まった9月27日の時点でイェルサレムに居たというので、彼からいろいろ情報を聞いた。その他、手を尽くして情報を仕入れ、

「おそらく死ぬ事だけは無さそうだ」

私は、そういう判断をした。ここまでイスラエル入国にこだわった理由は、イスラエルのハイファ港から毎週1回、ギリシャに渡る定期便に乗りたかったからだ。カイロからイスタンブールに飛んでも良かったのだが、ローマまではせめて陸・海路のみで踏破したいと思っていた。

イスラエル入国に向けての準備を進める一方で、「不慮の事態」に備え、手も打っていた。田村君に託したボイスメッセージもその一つであることは言うまでも無い。ついでながら、サークルの同期や後輩たちの前で「不慮の事態」などというと、未だに本気で怒られる。その気持ちは嬉しいのだが・・・あの時は本気でそう思っていた。

さて、そんな事はさて措いて、私が乗ったのは、カイロのトルゴマーン・バスターミナルを早朝7時に出るバス。このバスに乗るため、私はわざわざ徹夜したほど。 カイロを出た後、一路東へと走り、スエズ運河の地下をくぐるトンネルを抜けた後、バスはシナイ半島の、紅海に面した外周に沿って走り、イスラエル国境に程近い、ダハブというビーチ・リゾートに入る。イスラエルへの直接の入国は避け、近くのビーチで一泊したのだ。

翌朝、10月23日月曜日。私は、イスラエル国境タバに向かうミニバスに乗った。2時間ほどで国境ポストに着いた。エジプトの出国手続きは、スムーズに行った。そしてこのあとが問題だった。

イスラエルの入国ポストに着いた私は、入り口で係員に止められ、荷物を全てチェックされ、ボディーチェックを受けた。しかし荷物のチェックを待つ間、私の気分は急激に悪化していった。私の後から来る白人旅行者たちが、殆どノーチェックで入国審査を終えて国境ポストから抜けていったからだ。
そして私の番。メス豚の如く(この表現、下劣である事は承知しているがお許し頂きたい。・・・というか、この表現を使う事は豚に対する侮辱であると私は思っているのだが)肥った女の審査官が、私の入国審査を行った。ここで訊かれたことは、本当にしょうもない事である。 特に、イスラム諸国を通過してきた事をネチネチと訊いて来るのだ。いいじゃないか別に・・・そう思い、ウンザリしてくると、受け答えも次第に投げやりになってくる。

そして、決定的な宣告がメス豚審査官から下された。

入国拒否、である。

怒り狂う私の目の前で、パスポートには無慈悲にも「入国拒否スタンプ」が押された。このスタンプ、押された国に行けないのは勿論だが、それがイスラエルのものとなると、事情はややこしくなってくる。 嫌われ者国家であるイスラエルの存在を公式に認めていない国が多いために、イスラエルに入国を試みようとした形跡のある者は、全てアラブ諸国への入国を禁じられるのだ。例外は、ヨルダンとエジプトだけ。

つまりこの瞬間、私は(パスポートを更新しない限りは)ヨルダン・エジプトをのぞく全アラブ諸国、そして東南アジアのイスラム教諸国への入国すら認められない身になったのだ。怒り狂った理由がお解り頂けたかと思う。
かくしてイスラエル入国ポストからつまみ出された私は、怒りが収まらぬままエジプト国境ポストに戻り、出国スタンプを消してもらって、バスターミナルまでタクシーで行った後、近くを通りかかった乗合ワゴンに便乗してカイロに戻った。サファリに戻れば、丸山さん以下の住人たちが目を丸くして私を迎えた。

さて、入国拒否の理由について考えてみたのだが、思い当たる所といえば、以下に挙げるものしかない。

1、シリアのアサド前大統領(アサド父)の記念バッヂを持っていたこと
  →どうやらこれが大きな理由であるように思われる。
2、パキスタンをはじめとするイスラム諸国の入国スタンプがあった事
  →もっともこんなのはあまりアテにならない。
3、入国時に既にイスラエルの通貨シェケルを所有していた事
  →すでにカイロで、イスラエルからきた旅行者から80ドル相当のシェケルを入手していた。
4、私の風貌が怪しい事
  →日本人旅行者の諸氏は、姿格好が怪しいからだろうと散々行ってきたが、そんな事で入国を拒否されても困る。

ともかく、私が入国拒否を喰らったことは事実である。そして、イスラエルの入国管理が白人に甘く日本人に厳しい事も事実としてあげる事が出来るかと思う。

余談であるが、私は未だにパスポートの入国拒否スタンプの所を見ると、逆上しそうになる。心の傷は、なかなか癒えてくれない。その一方で、日本での学生生活に戻ってから後、ユダヤ人を題材にして研究している人がいると、執拗なまでに噛み付くようになってしまった。

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B飛んでイスタンブール・・・ルクソール、カイロ

思わぬところで予定が狂ったが、もうこうなっては仕方が無い。イスタンブールまで飛行機で行く以外に、「シルクロード横断」を完成させる方策はなくなった。 カイロに戻った翌日、私は早くもイスタンブール行きの航空券を買いに走った。カイロからイスタンブールまでの代金は、640エジポン(180ドルくらいかな)。どの旅行代理店に行ってもこの値段だったのだが、フライトの日が10月31日。

フライトの日まで、毎日コシャリ(エジプトの代表的な大衆食。何かの豆とマカロニを混ぜたものの上にトマトソースをぶっかけたもの)を食べながらカイロでまったりしているのは、あまりにも勿体無い。それで、私は、未だ行っていなかったルクソールに行く事にした。
カイロからルクソールまでは夜行列車の1等座席を使用。40エジポンである。非常に快適で、乗車2時間後に手を休めて眼を閉じて、気がつくと6時間ほどが経っていた。あまりの快適さに爆睡していたのだ。

疲労など何処吹く風の私は、7時過ぎにルクソールに着き、宿を定めると、さっそく自転車屋でチャリを借りて、ルクソール東岸から西岸に向かった。といっても、当たり前だが、東岸と西岸の間には、偉大にして悠々たるナイル川が流れている。川向こうの遺跡群に行くためには、渡し舟に乗る必要があった。 乗合の渡し舟ならば1エジポンで済んだのだが、私は個人経営の渡し舟に乗ってしまったので、5エジポンかかってしまった。ちなみにチャリは1日10エジポンで借りたのだが、これもやはり、もっと安い値段でレンタルできるのだそうである。

それはさておき。

ルクソール西岸に到着した私は、一目散に王家の谷を目指した。ナイル峡谷の緑地帯とサハラとを隔てる山地の中に、王家の谷は存在する。王家の谷へと通じる、ごく緩やかな上り坂の道を、向かい風を受けながら走っていくと、途中から、緑は消え去ってしまう。
王家の谷は、荒涼たる砂色の峡谷である。ここも観光客だらけ。谷の入り口で購入する入場券では、幾つかあるファラオの陵墓のうち、3ヶ所に入ることが出来るのである。ちなみにツタンカーメンの墓は別料金。

ツタンカーメンの墓は、他の3ヶ所に比べると、規模は小さく装飾も派手ではない。 しかし、空調が付いていたりミイラが玄室の石棺の中に安置してあったりと、やはり並大抵の扱いはされていないが、あんなに小さな墓の埋蔵品がカイロ博物館の2階の半分を占めていたという事は、それよりはるかに巨大で、墓室の壁画も豪奢なラムセス3世墓やトトメス3世墓の埋蔵品が現存していたら、・・・考えただけで眩暈がしてきそうである。

王家の谷から再びナイル両岸の緑地帯に出てくる所に、何人かの王の葬祭殿がある。そのうち、入る時に背筋を正し、深々と一礼をして見学したのがハトシェプスト葬祭殿。数年前、日本人観光客10人が殺されて一気に有名になった所である。ここの警備は厳重を極め、荷物チェックまでされた。巨大な建築物だが、柱に装飾は一切無いし、でかいだけという感じではあった。

ルクソールから1時間半ほど列車で行ったデンデラという所に、プトレマイオス朝が造営したハトホル神殿がある。駅からもかなり離れた農地の真ん中にある遺跡で、外壁はボロボロだが、建物そのものはしっかり残っている。柱が太いから。 柱の上のほうはSD版のエジプト女王の顔になっている。SDキャラ化したクレオパトラの頭部が神殿の天井を支えている格好になる、といえばしっくり来るだろうか(もっとも、実際のクレオパトラは、普段はあんな髪型や服装をしていたわけではない、と言うのもまた有名な話ですわな)。この神殿、幾つかの小部屋が存在するのだが、蝙蝠の巣窟と化していて、その糞で異臭が漂うのには辟易した。 (ハトホル神殿に行く道すがらの写真@A

そしてルクソールには、カルナック神殿やルクソール神殿といった、テーベ(ルクソールの古名)に都した古代エジプト諸王朝によって造営された大神殿がある。ルクソール神殿の方は、夜にはライトアップされる。そんな世界遺産だらけのルクソールでの2泊3日の滞在を終えて、私はカイロに帰ってきた。

そしてアズハルモスクや軍事博物館などの観光をした後、10月30日に、私はこの旅行の開始以後で初めてのフライトにむけて、カイロ空港に出発した。サファリでは、丸山さんが「飛んでイスタンブール」を歌いながら送り出してくれた。

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