絲綢之道の道端にて

\、シルクロード横断達成・・・・ギリシャ・イタリア・旧ユーゴ編

@ 飛んでイスタンブール・・・イスタンブール・アテネ編
A 二度目の入国拒否とギリシャ出国・・・ブルガリア国境・パトラス
B シルクロード横断の終了・・・ナポリ、そしてローマへ
C シルクロードの西の発着点・・・ローマ
D ピサで食うピザ・・・フィレンツェ・ピサ
E 痔を発症する・・・ラヴェンナ・パドヴァ・ヴェネツィア
F 旅の終わりを見据えながら・・・ブダペスト・ベオグラード・サラエボ

@飛んでイスタンブール・・・イスタンブール・アテネ編

カイロ空港からトルコ航空の飛行機に乗って、1ヵ月半ぶりにイスタンブールに戻ったのは10月31日の事。大変だったのは、フライトが未明の3時だったこと。イスタンブール・アタチュルク空港では、両替レートのチェックくらいしかやらなかった。 このとき意外だったのは、両替レートが9月末の時点と殆ど変化がなかったという事。考えてみればアメリカ大統領選直前時期だったから、ドルの価値が上昇していなくても不思議は無かった訳だが、これ以降、3日間のイスタンブール滞在中に、ドルのレートは下がる一方だった。

再びガラタの客となった私であったが、イスタンブールには、前にも10日間も滞在していたワリに、今回もまた3日間、滞在する事になった。この後の旅支度のためである。 まずはコンヤペンションに行って旧ユーゴスラヴィア関係の情報の整理、フィルムの購入、米ドル現金をつくる事、イスラエル国境で紛失した髭剃りの購入(私の写真を見た方は、「何処の髭を剃っているんだよ」と突っ込みたくなるかもしれない。しかし私の場合、何も処置を施さないと、眼の部分だけを残して顔が全て髭で埋もれてしまうのである)、と、やる事は腐るほどあった。

そんな、シルクロード横断への再スタートの一方で、再び旅人との交流に時間をかなり割いた。ヨルダンで会った、ガラベーヤのゴローさんは、コンヤに投宿していた。イランビザを一緒に取ったウオサキさんがコンヤに泊まっているのにはビックリした。衝撃の出会いといえば、学生時代の私の盟友、T2氏の学友、若林君かな。

慌ただしく準備を終えて、ギリシャのアテネに向かう列車に乗ったのは11月3日。イスタンブールのヨーロッパ側の中央駅・シルケジ駅(アジア側のメインステーションはハイダルパシャ駅)から朝8時半、出発する。 列車は午後1時半ごろに国境にさしかかり、出国審査を済ませ、入国ポストでは列車を降ろされる。どうやらアテネまで直通というのは無い様である。で、アテネまで行く列車は、なんと9時まで待つ羽目になった。待っている間に気温が下がってきたのには困った。さらに翌朝6時、テッサロニキ駅でまた列車を追い出され、8時少し前、アテネに向かう列車に乗る。

ここで、これまで乗ってきた列車について少々整理を試みると、こんな感じになるか(「コンパートメント」は個室、「開放式」とは、即ち、個室のように客席が区切られていない客車のことをいう)。

中国:硬座の場合も硬臥の場合も、殆どは開放式
パキスタン:一等寝台しか乗っていないが、当然、コンパートメント(個室)(既出だけど写真はこちら
インド:開放式(二等寝台)
イラン:一等寝台だけにコンパートメント
トルコ:クシェット(簡易寝台)はコンパートメント、ギリシャ国境に向かう列車も座席だがコンパートメント
エジプト:1等・2等・三等座席ともに開放式

そして、テッサロニキからアテネに向かう列車も開放式である。

余談が長くなった。

アテネのラリッサ駅に到着したのは3時半。そこから、近くにあるアテネ国際ユース・ホステルに投宿する。少々裏通りに入った所にある、でかくて設備も整っている、非常に便利な宿だが周りは非常に静かという、絶好の場所に位置する。宿代は1620ドラクマ(400円強)と、非常に安い。トルコに比べて何かと物価高のギリシャで、この宿代は有り難かった。
ヨーロッパに来ると、日本人女性の数が増えてくる。それも、中東方面で会ったような、ある種の「女傑」的な女性ではなく、まさしく観光客、という感じの女子大生が多くなってくる。そういった日本人女性と歓談している最中に、旅の知己の一人・菱田さんと、また会ってしまった。もっともこれ以降、会ってはいないが。

さて、アテネに来たからには、目指すはアクロポリスである。古代アテネの面影を最もよく残すアクロポリスの丘は、ユースから歩いていける距離にあった。
そしてアクロポリスは、切り立った崖に囲まれた、それだけで一つの要塞として成立するのではないか、と思えるようなところに立地している。ヴェネツィア共和国が砲撃を加えてボコボコになってしまったパルテノン神殿をはじめ、この丘の上には多くの神殿と観光客がいる。
私がアクロポリスを訪れた日は日曜日で、観光施設が無料になる日であった。ラッキーである。そしてアクロポリスの周囲には、遺跡がまとまって存在する。パルテノン神殿の惨状には、思わず眼を背けたくなってしまったが・・・

アクロポリス周囲の遺跡群の外側には、古着屋や土産物屋などが密集して存在する。私はそのような店を冷やかしながら、内心では舌打ちを禁じ得なかった。カイロで慌てて冬服を買わずとも、このアテネでゆっくりと選べば良かったのだ。

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A二度目の入国拒否とギリシャ出国・・・ブルガリア国境・パトラス

11月8日水曜日、未明。私は、アメリカ人青年と共に、ブルガリアの首都ソフィアに向かう夜行列車の寝台車に乗っていた。そこに、パスポートチェックのポリスが回ってきた。
ギリシャ側のポリスはハンコを押すだけだったが、問題はブルガリア側のポリスチェックだった。 チェックのためにパスポートを回収されたのは、まあ仕方が無い。しかし、同じコンパートメントのアメリカ人のパスポートが戻ってきた後も、私のパスポートは返ってこない。やがて、ブルガリアのポリスが再びやって来て通告した。

「お前のパスポートには問題がある。入国を認めることは出来ない」

二度目の入国拒否、である。

そして私は列車を降ろされ、ギリシャ国境に戻る列車に乗せられる事となった。思わず私は怒り狂ってしまい、ブルガリアのポリスに喚き散らした。そこにポリスがやって来て、私に足蹴を食らわせながら、
「貴様は日本人ではないだろう。このトルコ人め、モンゴル人め」
と悪口を浴びせてきた。

それを聞いた私は、この言葉はただの罵詈雑言だと解釈した。そして、私が入国拒否をされたのは、国境警察が賄賂を暗に要求している事に気がつかなかった為だ、と考えた。ブルガリア国境警察は腐敗していて、外国人旅行者から金品を巻き上げる悪い奴らだという話を、後日、別の旅行者から聞いたからであった。

しかし日本帰国後に情報を集めてみると、どうもそうとばかりは言えないらしい。というのは、一旦ブルガリアへの入国を拒否された日本人旅行者が、クレジットカードやトラベラースチェックを見せたら、国境ポリスが態度を変えて、入国を許可したという情報を得たからだ。 どうも日本のパスポートを偽造して、ブルガリアに出稼ぎに来ている不法入国者が多いということである。

そうなると気になるのが、私が国境警察に浴びせられた、『トルコ人め!モンゴル人め!』という台詞である。不法就労のために入国したトルコ人たちの持っている偽造パスポートが、相当に精巧なものである為、日本のパスポートを所有している者に対する入国審査がとりわけ厳しいものとなり、哀れ私はその罠に誤って嵌まり込んでしまった
・・・とも、考える事が出来るからである。
で、入国管理官は、私のことを『偽造パスポートを持ったトルコ人』であると断定した、と、そういう事態を想定する事は、それほど突拍子も無いことではない。

いずれにせよ、真相は藪の中、ということになりそうである。

結果から言うと、ブルガリア国境での入国拒否は、旅をする上では大きな障害とはならなかった。イスラエル入国拒否に比べて、私が二度目の入国拒否を冷静に眺める事が出来るのは、ブルガリア入国拒否の起こす波紋が小さかったためである。

と言っても、それはあくまでも後日の話で、結果論である。

このとき、ギリシャ側出入国ポストまで引き戻された私は、見るも無残、哀れな程に落ち込んでいた。国境ポストでギリシャ国境警察がパスポートを念入りにチェックしている間、私は、ただ待つしかなかった。涙が出なかったのは、単に水分が不足していたからに過ぎない。 虚ろな眼でTVを見れば、アメリカ合衆国大統領選挙の開票速報を中継していた。ブッシュとゴアのどちらが勝つかなど、私にはどうでも良くなっていた。

『日本に帰ろう・・・今ならまだ、日本に帰っても、下鴨劇場の卒業公演に間に合う』

と大真面目に検討していたくらいだから、その意気消沈ぶりたるや、凄まじいものがあった。

やがて、ギリシャ側国境ポリスは、
「ブルガリアのポリスは、このパスポートが君の物ではないと言っていたが、このパスポートには問題が無いことが解った」
そのチェックに延々と時間を費やしていたわけだ。
「で、君は何処に行きたかったんだ?」

聞かれた私はかすれ切った声を振り絞って答える。

「ベオグラードに行こうと思っていました」
「それならば、フィロムのスコピエを経由していく事が出来る筈だ」

フィロム、という言葉を聞いたことのある日本人は、殆どいないと思う。これは、現在のマケドニア共和国の事である。
この国はかつてユーゴスラヴィア連邦の一部であったが、1990年代のユーゴ分裂にともなって独立し、『マケドニア』を自称した。しかし、アレクサンドロス大王の末裔である事を強烈な誇りとするギリシャ人には、この国号を承認する事は、とうてい出来ない。
かくして、ギリシャはマケドニア共和国の事を、

「かつてユーゴスラヴィア連邦の一部だったマケドニア」

の頭文字をとって、フィロムと称しているのである。

というのは余談である。

警察官の助言はありがたかったが、結局私は、再びギリシャ国内に戻る事にした。国境ポストはブルガリアへ向かう高速道路のすぐ脇にあったので、ここからギリシャ第二の都市テッサロニキに向かう車をヒッチして、テッサロニキ駅からアテネに戻り、再びアテネのユースの客となった。
もっとも、それも一夜の事。翌日には、イタリアへの定期航路を出している港町パトラスに向かい、そこからイタリアへ向かうフェリー、「アフロディーテU」に乗船した。パトラス出航は、夜の7時である。当然、寝台なんて取ってありません。客室に雑魚寝である。

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Bシルクロード横断の終了・・・ナポリ、そしてローマへ

船の中で眼を覚ましたのは、翌朝7時ごろ。デッキに出てみると、寒い。8時ごろには、皆起き出していた。そして、イタリア側ブリンディシ港への入港は、ギリシャ時間10時。ギリシャとイタリアの間には1時間、時差があるのだが・・・
下船してパスポートチェックを受ける。二度目の入国拒否を喰らったばかりの私はかなり身構えたが、パスポートにスタンプすら押されなかった。私は思わず脱力した。これで、訪問を予定しているヨーロッパ諸国への入国は、殆ど問題無いだろう。・・・イギリスを除いて。

さて、ブリンディシの港から市内中心部まではフェリー会社がワゴンで輸送してくれたが、そこから駅まで、美しい石畳が続く道を歩く。そして10時50分、ナポリまで行く列車に乗車する。それから7時間、アドリア海に面したブリンディシからナポリまでは、長靴のようなイタリア半島を横断する格好になる。

ナポリの宿は、ナポリ中央駅前広場を突っ切った所にある、ペンション・マンツィーニ。宿は、駅前の集合住宅の、・・・えーと、何階だっけな。とにかく、建物全体が宿ではなく、建物のうちの1つのフロアの、そのまた一角が宿になっているのである。だから、旅行者とは無関係の地元住民とも、顔をあわせる事があったりする。ヨーロッパで宿泊した宿は、その多くが、そういう形式である。

到着翌日、私はナポリ近郊のポンペイに足を運んだ。御存知、ヴェスヴィオ火山の噴火によって、ティトゥス帝治下の紀元79年に埋もれた、眼下に地中海を見下ろす街である。同じドミに泊まっていた、日本人男性の横井さん、オーストリア人女性と3人連れ立って、ナポリ駅から、ヴェスヴィオ周遊鉄道に乗って20分ほどで到着。
ここは、入場料の設定の仕方が奇妙だった。EU市民のみ学割が有効であるのだ。当然私は、普通の大人料金を払わなければならない事になる。まあいいけど。

晴天に恵まれたこの日のポンペイ観光は、ガイドブックを購入したオーストリア人娘の解説に従って進行する。どの建物も天井が抜けていて、残っているのは壁だけだったりする。しかし、建物の壁に残された壁画や床を装飾するモザイクは、よく残っている。
道を舗装する石畳には、車の轍の様な窪みが走っている。建物は、煉瓦尽くしである。市内中心のフォルムに立つ柱は、芯柱の外側を煉瓦で取り囲み、その上から化粧石かセメントかで表面を仕上げている。(ポンペイの写真

一日たっぷりとポンペイを観光した翌日、ローマ時代の別荘地・エルコラーノに足を運んだ。ううん・・・ポンペイよりも小規模なのよね。すぐに見て終わってしまった。ここはポンペイと違って遺跡の周りは市街地に囲まれていて、遺跡から上方を見上げると現在の宅地が見える。造り方がローマ時代から進歩していないよ。
まあ仕方が無いから早めにナポリに帰って市街観光。ナポリは、思いもかけず中国人が多い街であり、所々で中国語を見かける。宿に帰ってみれば、アルバイトで日本人女性が店番をやっている。
そして夜食は、ピザ。と言っても、日本で食べるものとはかなり違う。生地は薄く、釜で焼くので、非常に美味い。一番シンプルで安い、ピッツァ・カルボナーラ(ピザの具がチーズとトマトだけ)でも十分に美味い。裏を返せば、イタリアは普通の店で食べる食事は(大抵はコース料理)高くつくので、これしか食べられない、ということであるが。

ナポリ滞在4日目、ローマに行く直前、私はナポリ博物館に足を向ける。ポンペイ出土の遺物が並ぶこの博物館、最大のお目当ては、アレクサンドロス大王とアケメネス朝のダレイオス3世が激突した「イッソスの戦い」を描いたモザイク。巨大である。
この博物館には、別チケット(無料)で入れる特別室があった。結論からいうと、ナポリ出土の「大人のオモチャ」を集めた、15禁ルームである。それだけ。

同じ日、16時10分、私はナポリ中央駅からローマに向かう列車に乗った。2時間半後の18時40分、列車はローマ・テルミニ駅に到着。駅近くのペンション・ケンゾーという、日本人の多く集まる宿に荷物を下ろした。

この瞬間、私の大きな目標、「シルクロード横断」は、完成した。とにもかくにも、西安からローマまでを、陸路・海路のみで走破するという目標は、達成されたわけである。
2000年11月13日、月曜日のことであった。

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Cシルクロードの西の発着点・・・ローマ

ローマ到着翌日。私は宿のパソコンから「シルクロード横断終了」を報告するメールを送った後、外に出た。目指すはローマ中心にある、フォロ・ロマーノである。宿からフォロ・ロマーノまでは、歩いて行った。宿からフォロ・ロマーノへは、下り坂になる。

現在、かつてのフォロ・ロマーノは、フォリ・インペリアーリ通りによって、フォロ・ロマーノとフォロ・インペリアーレの二つに分かたれている。20世紀初頭まではこの両者は一つだったのだが、第一次〜第二次大戦期にイタリアを支配したムッソリーニが、この道を建設したのである。
この道から眺めるフォロ・ロマーノは、確かに素晴らしいものがある。道の歩道にはローマの著名な皇帝の銅像を並べ、そして突き当たりには、コロッセオが聳える。しかし、この道の意味は、一体なんだというのか。『ローマ人の物語』の著者、塩野七生氏によれば、

「ムッソリーニがヒトラーに、ドイツでは真似できない舞台装置で軍隊のパレードを誇示したかったために作らせた、知性を欠いた一本の道路」

と散々にけなされているが、確かにその言葉、否定のしようが無い。建築家コルビジェは、せめて遺跡をまたぐ橋を渡してはどうか、と提案したらしいが、確かにこの道路、世界屈指の貴重きわまる遺跡を埋没させてまで造る価値があったかというと、私は否定的な気分にならざるを得ない。 都市の真ん中に遺跡があるのが不都合、というのならば、橋にした方が良かったのではないか・・・
ちなみに、現在、フォロ・ロマーノは入場無料だが、フォロ・インペリアーレは入場料を取る。この道路が無かったら、どちらも無料で入れたのに・・・

そんな感慨もあったが、フォロ・インペリアーリ通りからコンスタンティヌス凱旋門の近くに出て、そこから入るフォロ・ロマーノは、柱が林立する廃墟である。「橋を渡して道路を造れ」というコルビジェの言葉が示すように、現在のローマ市街よりは低地に位置する。だいたい現在より建物1階分くらい下だね。

「観光に飽きた」

という感慨を笑って吹き飛ばすほどに私ははしゃいだ。建物としての形を留めているものは少なく、残っているのは大抵、柱ばかりである。

フォロ・ロマーノから這い出して次に向かったのはコロッセオ。ローマ帝国崩壊後は、建築資材の切り出し場として使用されていたというのは、もはや有名な話である。だから外壁は無残な切り取られ方をしているが、それでもなお、見る者を圧倒する、巨大な円形闘技場である。いったい、建設された当初は、どれだけでっかかったのだろう。

コロッセオ内部に入ってみると、観客席は殆ど、崩壊してしまっている。闘技場の中央には剣闘スペースが存在しているが、実はそこは地面ではなく、掘り下げられて、野獣等を収納しておく仕掛けがあった。この仕掛けの上に板を渡して、闘技を行ったのだろう。

到着翌日には、ヴァチカンの聖ピエトロ大聖堂に行く。道すがら、ナポリから先着していた横井さんとすれ違ったりもする。長きに亘ってヨーロッパの最高権威者として力を振るったカソリックの総本山だが、現在、ローマ教皇庁がイタリアに持っている直轄領は、この聖ピエトロ聖堂をはじめとする建築群、そして列柱に囲まれた広場のみである。
その広場で、毎週二回、午前中に、教皇は一般人たちに挨拶する。私はうまい具合に、その場に立ち会う事が出来た。さすがにこの日、この時間帯は、広場周囲の警備も厳重を極めた。この日の天気は曇りで風が強く、もはや高齢の「ローマの良心」ヨハネ・パウロ2世教皇には、一般朝見はきつかったのではないだろうか。声も、風に吹き飛ばされそうであった。
しかし、このポーランド人の教皇は、日本からの団体客に向かって日本語で挨拶を送るなど、実に見事な役者であった。ちなみに彼の母国ポーランドでは、この教皇は、熱狂的といってよいほどに絶大な支持を集めている。

ホンモノの「ローマの良心」を見ることが出来て満足した私は、博物館に行く。歴代の教皇が集めた宝物のコレクションを飾る博物館は、館内そのものが、見事な壁画で埋め尽くされている。コンスタンティヌス大帝がローマ西方正帝の位を勝ち取った「ミルヴィウス橋の戦い」の壁画などは、広い部屋の四面全てを用いて描かれている。
やはり一番有名なのは、システィーナ礼拝堂だろうか。巨匠ミケランジェロが描いたこの壁画は、近年の修復工事によって、色鮮やかな姿を現している。その見事な「最後の審判」の絵の下は、そこから離れたくない観光客だらけで、さながらディズニーランドか阪急梅田駅のごとき人込みとなっていた(ううっなんて芸術性の欠片も無いたとえなんだ・・・)。
ローマの写真

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Dピサで食うピザ・・・フィレンツェ・ピサ

11月17日の朝10時、私はローマ・テルミニ駅からフィレンツェに向けて出発した。晴れれば結構気温も上がるのだが、私の記憶の中のローマは、しょっちゅう雨が降っていたように思う。出発したこの日も、小雨が降っていた。
イタリアで鉄道に乗りながら考えた事は、この国に来る時にレールパスを買う奴は莫迦だなという事である。観光地の密集しているイタリアでは、一回の移動距離がすこぶる短いから、一度に長距離を、出来れば夜行列車に乗らないとモトが取れないレールパスは、無駄以外の何物でもない。

フィレンツェへの到着は2時ごろ。泊まった宿は、駅からすぐ近くの、オステロ(ホステル)「アルキ・ロッシィ」。この宿はイタリア入国以来初めて、建物全体が一つの宿だった。14:30までロックアウトタイムなので、それまで少し待たねばならなかったが。
この宿は、「落書き禁止」の注意書きに反して、壁面一杯に落書きがしてある。とくに、フロント付近の落書きは、「壁画」と言っても良いほどに見事であった。システィーナ礼拝堂の壁画を模した絵と、中田英寿の肖像画であるが、どちらも上から落書きされないように、ガラスで保護してある。あ・・・私は何もかいていない。

とにもかくにも、荷物を置いたので、外に出てみる。しかし、即座に舌打ちした。かなり寒かったのだ。羅馬まではTシャツの上からデニムの長袖シャツを着ているだけで事足りたのに、ここではジャンパーが無いと寒い。その冷気に耐えながら、歩く。街ごと世界遺産というだけあって、街を散策しているだけでも愉しい。

市街中心を流れるアルノ川に面して、ウフィツィ美術館というのがある。メディチ家が、その最盛期に集めまくった絵画がここに唸っているのだ。例を挙げると、ボッティチェリの「春」「ヴィーナスの誕生」、その他いろいろ。絵画に興味が無くても、ダラダラすごしてしまいそうである。 美術好きなら踊りだすか卒倒したくなる所だろう。しかし、もう時間が無かった。5時過ぎには、日が落ちて真っ暗になってしまうのだ。もっとじっくり見ていたかった。回廊にも、ヨーロッパの有名人(古代ローマ期から始まって)の壁画がずらりと並べてあって、そちらを観る事が不可能になってしまうのだ。

翌朝、私は、宿で雑談していたうちの一人、坂田さんという一つ年上の男性と共に、ピサ行きの列車に乗った。彼もまた、「アジア横断」組みの一人で、従ってお互いに話も合う。出会った旅人の名前もかぶるし、パキスタンで体調を崩して倒れたというところまで一緒(パキではみんな体調を崩すんだよね)である。そんなこんなで、

「明日はピサに行って斜塔を見て来ようと思うんですよ」
「じゃあ一緒に行きますか」

そして一夜明け、この日は雑談などしながら、ピサまで野郎二人の珍道中。フィレンツェからピサまでは1時間ほどであり、駅からは中世風の街並みが美しいピサの中心、ドゥオ−モ場まで、歩く。ドゥオーモとは、街の中心にある教会で、当然、斜塔もそこに建っている。 私は何を考えていたのか、坂田さんにテレかを借りて、この斜塔の前から日本の実家に電話をかけた。日本から軍足を送ってもらうためである。

用事を済ませると、ゆっくりとピサの斜塔を見る。斜めに傾いた塔を、ワイヤーロープで引っ張っているのを観て、

「これそのうち倒れるんじゃないんでしょうかね」

と、我々は二人、無責任に盛り上がっていた。最近、根性で入場可能な状態にまで戻したそうだが、ワイヤーで引っ張られている姿を見た私としては、とても入る気にはなれない。

各々、教会を見て回って、再び斜塔の前に立った我々は、

「ここまで来たら、あれやりますかやっぱり」
「あれやりましょうかやっぱり」

丁度、お昼時であった。こう書けば、もうお解りでしょう。ピサの斜塔を見ながら、買ってきたピザを食したのである。
その時の写真は、幸か不幸か、存在しない。しかし、斜塔の前でピザを食べている自分の姿を想像してみると、実に莫迦である。

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E痔を発症する・・・ラヴェンナ・パドヴァ・ヴェネツィア

フィレンツェを離れた日は、雨が降っていた。未だ真っ暗な中、フロントの人間を起こしてチェックアウトした後、私はフィレンツェSMN駅から早朝6時35分に出発した。かなり寝不足だったが、この時間に出発しないと、1日のうちにアドリア海に面した街ラヴェンナを経由してヴェネツィアに達する、ということが出来ないのだ。
雨が降っていた。この後ヨーロッパでは、天気に恵まれるという事の方が少ない、という日々が続く。冬はヨーロッパの雨期にあたるという事だが、まさしくその通りである。この日は移動を続けていたが、一日中、雲に覆われたままであった。

一旦列車を乗り換えて(イタリアまで来て、やっと長距離鉄道が「電車」になった)、ラヴェンナに到着したのは10時過ぎだった。駅のコインロッカーに荷物を預け、市街中心部へと歩いて行った。 ツーリストインフォメーションでもらった地図を広げてみると、この小さな街が教会だらけであることに驚く。次にイタリアに行く時にはぜひとも1泊はして教会めぐりをしたいところだが、今回は行く所はひとつだけである。聖ヴィターレ聖堂が、それである。

ラヴェンナは、今でこそ、静かで小さな港町だが、西ローマ帝国皇帝ホノリウスがこの地に遷都して以来、ローマがイタリアの中心としての地位を回復するまでの間、イタリアの行政の中心となっていた。東ゴード王国もここに都したし、ユスティニアヌス大帝の統治期にイタリアを征服したビザンツ帝国も、総督府をここに置いた。その名残が、聖ヴィターレ聖堂にのこる、ビザンツのモザイクである。
フィレンツェのアルキ・ロッシィでは、意外とこのラヴェンナの聖ヴィターレ聖堂を知らない旅人が多かったのだが、建築系の学科にいた私の友人たちは、さすがに知っていた。

こんな具合に、「知る人ぞ知る」聖堂だが、規模は、その知名度に比べると、あまりにも小規模である。高名なユスティニアヌス大帝と皇后テオドラのモザイクは、その聖堂の一隅にあった。見事にキンキラキンであった。知名度は日本人には低いはずなのに、日本人の団体さんは来るわ小学生たちが社会見学に来るわと、非常に賑やかな、それでいて静かな聖堂である。 (サン・ヴィターレ聖堂の写真

観るものだけ観てしまうと、私はさっさとヴェネツィア方面に向けて発った。そして、ヴェネツィアの手前の街パドヴァに、宿を定めた。ヴェネツィアに宿を取らなかった理由は単純である。安い宿がユースホステルただ一ヶ所しかなく、それも頻繁にフルになってしまうからである。 このパドヴァは、ガリレオ・ガリレイが教鞭を取ったパドヴァ大学があることでも有名であり、駅から私の宿であるユースホステルへは、大学を突っ切って(壁など存在しない)行く事になる。

パドヴァ到着の翌朝、私はヴェネツィアに「出勤」する。ヴェネツィア・サンタルチア駅に降り立った私は、呆然とした。駅から目の前の広場を見れば、冠水していたのだ。街の中は、人がやっとすれ違う事が出来るくらいの狭い小路だらけ。それだというのに、皆雨傘を差しているものだから、通りにくい事この上ない。 しかしさすがは島ごと世界遺産のヴェネツィア、教会も元首宮殿も、素晴らしい建物ばかりである。建物の中の壁画も、ルネサンス期の傑作が賑やかに存在感を誇示している。街並みも中世の雰囲気を濃厚に残している。
ヴェネツィアの中心地、サンマルコ広場の写真

実に美しい街だが、私はこの街に完全に酔いしれる事が出来なかった。訪問2日目(もしかすると初日だったかもしれない)、歩いている時、尻が猛烈に痛み出したのである。堪えに堪えて歩きながら、宿に帰って入浴時に下着を脱いで見れば、パンツに血がベットリ付いていた。 この時は認めたくなかったが、痔になってしまったのである。翌日も、そのまた次の日も、歩けば歩くほどに尻が痛み出すものだから、そうだと認めざるを得なかった。
旧大日本帝国陸軍は、痔になっている男子は徴兵しなかったというが、その理由が今にして良く解った。とても、長時間の行軍に堪えられないのだ。痔という病気は、常に患部を清潔にして、薬を塗布しておかないと、ますます悪化させていくだけなのである(身を持ってその事を確認した人間が言うのだから間違い無い)。戦塵の中に身を置く事など、到底、不可能なのである。

原因は明らかである。パキスタンで下痢になった時、トイレットペーパーを使わずに、現地の風習に従って尻を水で洗うようにして、肛門を傷めない用に心掛けていれば、このような事態は避け得たのだ。・・・いまさら言っても遅いのだが。

それにしても、私はつくづく、格好をつけたい所で格好がつかない人間である。哀れとしか言いようが無い。
余談になるが、痔は未だ治っていない。

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F旅の終わりを見据えながら・・・ブダペスト・ベオグラード・サラエボ

ヴェネツィア訪問の3日目、私はヴェネツィアのバスターミナルで、バスのチケットを買った。どうでも良い話だが、ヴェネツィア島内は交通機関はボート以外に存在しない。後はひたすら歩くのみである。しかし、本土とは、バスや鉄道で接続されている。まあそういう事である。

余談が過ぎた。ヨーロッパには、その全域を網羅するユーロラインバスという国際バスが運行している。ヨーロッパを旅するビンボー旅行者でも、長い旅路の果てにヨーロッパに流れ着いた人(たとえば私のような)は、ユーレイルパスなど持っていない人が殆どである。そこで、このバスのパス(ユーロラインバスパス)を購入して、旅費の軽減を図る人が多い。 使い方にはコツが要る、ということだが、私はこれを買わなかった。理由は後述する。まあそれはさて措いて、ヴェネツィアから出る際には、このユーロラインバスを使用したのである。

11月23日、夜7時半過ぎ、ナポリ・ローマ・フィレンツェと、イタリア半島を縦断して客を拾い集めてきたバスが、ヴェネツィアのバスターミナルに到着した。私は、やっと空席を見つけて乗り込んだ。目指す先は、ハンガリーの首都ブダペスト。
途中でオーストリアを経由したはずだが、いつ国境を越えたのかわからない。しかし、ハンガリー国境はチェックが厳しかった。深夜の2時だったが、全員、バスを一度降ろされてチェックを受ける事になった。

国境を無事に通過して、ブダペストに到着したのは早朝6時。暗い。ブダペストには、テレザハウス・マリアハウス・ヘレナハウスという、高名な民宿が3つある。私が目を付けていたのは、この内マリアハウスだったのだが、ここは満員で、しかも10時半まで、皆眠りこけていて動かないという状態。 ビックリしたのが、5月にフンザで会った20代後半の男性と、カイロ以来のチュ−やんにまた会ったということかな。結局、私は、ブダで一番老舗の日本人宿テレザハウスに投宿する事にした。宿主のテレザについて芳しくない噂を聞いていたのだが、行ってみれば、清潔でサッパリとした民宿だった。

ヨーロッパの都市の作りが何処も同じなのかどうか知らないが、ここハンガリーの一般的な集合住宅は、中庭を囲むように建物が建っている。テレザは3階の一角にあったんだっけな、確か。未だにこのような建物には、1956年にワルシャワ条約機構軍が侵攻してきた「ハンガリー動乱」の際の弾痕といわれる穴があったりする。

テレザの扉を開けてくれたのは、11月のイスタンブール・ガラタであった、ちーにぃと呼ばれているお兄さん。ここのまとめ役をしていたのは、ヨシさんと呼ばれる男性。私よりも20歳ほど年上の、熟練した旅人である。ブダペストにいる間は、この人にいろいろなアドヴァイスを受ける事になった。

さて、ブダは温泉で有名な街である。私がブダに来た目的のひとつに、痔の療養というのがあったが(哀れ・・・)、ちーにぃと議論の末、高名な「ホモ温泉」に行く事になってしまった。
いや私は嫌だったんだが、ちーにぃが強引に・・・というのは全て事実だ。
私の懸念は、ちーにぃの貞操だった。自分については微塵も貞操の危険など感じてはいなかったが、ちーにぃは、長期旅行者らしからぬ、穏やかな面立ちをした人だったから、余計な心配をしてしまったのである。

ホモ温泉の名は、キラーイ温泉という。ハンガリーの温泉は、トルコの浴場のように、ドーム状の屋根を持ち、建物の形は円形に近い多角形。天井には明り取りの窓がついている。で、ホモ温泉の感想は・・・省略します。まさかこの私が、貞操の危険を覚えるとは、夢にも思わなかった。この温泉の感想については、次の一言で勘弁させていただきたい。

あなたの知らなくていい世界

次の機会から、通常の温泉に行くようになったのは言うまでも無い。

ブダペストを目指した最大の理由は、実のところ、温泉ではない。飛行機のチケットである。現在(2002年夏時点)はチェコのプラハが、ヨーロッパ発の格安航空券で有名になったが、2000年当時は、ブダがいちばん有名だった。ブダのVISTAという旅行代理店で、航空券を買う。値段は、以下の如し。

 ブダ−大阪(関空) 片道300ドルくらい(学割。学割が無いと、400ドル超)
    名古屋    片道400ドルくらい(この路線は学割が無い)

こんな所である。東京は、大阪と似たような感じになる。学割は当然国際学生証なのだが、正月3が日は、学割も効いてくれなかったりする。
そんなわけで、私のフライト日は、1月5日の金曜日となった。航空会社がスイス航空だから、チューリッヒ国際空港を経由する。このスイス航空、あの2001年9月のテロの影響で、倒産してしまった。時の流れを感じるなあ(この値段、おそらく莫迦安である。この話を聞いた杉山教授が驚きでひっくり返っていた)。 とにもかくにも、これで、2000年の殆どを費やした長旅の終了する日を、確定させたわけだ。そしてブダから日本へ、「帰国日決定」を発送しまくる事に。

片付けるべき用事は全て済ませてしまったので、私は、旧ユーゴスラヴィアにも足を伸ばしてみる事にした。一緒に行く事になった、庄司君と安田君は、かなり本気で私の同行を嫌がっていた。まあ無理もあるまい。何しろ私は、入国拒否を二回も受けている、札付きのお尋ね者・・・もとい、猛者(美化し過ぎだ・・・)である。巻き添えになりたくない、という彼らの気持ちは当然だな。無事に入出国できて幸いだった。私が痔の痛みを訴えるのには閉口した様子であるが。

ユーゴ訪問の詳細については「旧ユーゴ訪問」を見ていただく事にして、何故、私がユーゴスラヴィアに行きたかったか、ということについて述べておきたい。オフレコの部分も含めて。

@内戦の爪痕を欠片でもいいからこの目で見たかった
Aベオグラード中央駅で、インターレールパスを入手したかった

まあ、この二点だな。

インターレールというのは、ヨーロッパ滞在6ヶ月以上の人が購入可能な、ヨーロッパ何処でも乗りたい放題のレールパス。ユーレイルと違って、イギリスでも使えるのが重宝する所。とは言っても、本来ならば購入不可能なはずだから、大学の刊行物などの為に依頼された紀行文中では触れることは出来なかった。したがって、「旧ユーゴ訪問」では割愛しているわけだが。

その他、どうでも良い事としては、ベオグラード出発前の意味不明の大撮影会などが挙げられる。被写体は・・・私である。本当に、私は旅行中は大人気だった。
この時撮った写真が、今、ハンガリーの「ララの家」という民宿に鎮座して、訪れる旅人たちを絶句させている、らしい。面白い写真であるかどうかの感想は、掲示板にでも書き込んでおいてください。

貴重な体験といえば、やはり、ベオグラード大使館員のお話だろう。旧中国大使館の「誤爆」について、現地では、

「あれはワザとである」

とみている,というような事を、明言を巧みに避けながらも匂わせていた。(旧ユーゴ訪問時の写真@AB

ユーゴの分裂については、国内の経済格差をあげる議論もまた多いが、これについて、格差を推し量る方法を示唆してくれた人もいた。
一般住宅についている衛星放送のアンテナの数で比較を試みると、北のスロヴェニアでは多いバラボラアンテナが、南に行くに従い、どんどん少なくなっていくのだという。北辺のスロヴェニアと南では、ユーゴ分裂直前時で、経済格差が8倍ほどもある、と聞いた事もある。
分裂は、必然的だったのだろうか。しかしその後に続く戦乱は、とても必然的だったとは思えない。

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