オリエント珍道中
−中東再訪−

@ イントロダクション〜アタチュルク空港の小さな悲劇
A 唐突なエジプト再訪話
B エジプト再訪−アレクサンドリアからカイロへ
C 沙漠街道・・・スィーワと階段ピラミッド
D もう一度、飛んでイスタンブール〜トルコ前半戦〜
E ヘレニズムの遺産を訪ねて
〜ペルガモン・イズミール、そしてイスタンブールへ〜
F 旅行、終盤へ〜イスタンブールからカイロへ〜
G 再びの日本〜カイロ・ルクソール〜

@イントロダクション〜アタチュルク空港の小さな悲劇

「おい、頼むからそのナイフを返してくれよ!無いと困る!」

2005年8月10日、イスタンブール・アタチュルク国際空港の国際線入り口で、私はゲート管理のポリスに対して頑張っていた。ポリスが、私が愛用してきたヴィクトリノックスのナイフを返してくれないのだ。

「だからこれは機内預けの荷物に入れるからノープロブレムと言っているだろう!だから頼む、返してくれ!」

幾度となく繰り返す私に、能面のように表情を変えないポリスは、出来の悪いカセットプレーヤーのように

「このナイフは問題だ」

と繰り返し、一向にナイフを私に返そうとはしない。

私は天を仰いだ。あまりここで時間を取られるわけにも行かないのだ。

そのナイフは、5年前のシルクロード横断の時にハンガリーで購入して以来、常に私と共にあった。共に訪れた国も、旧ユーゴやロシアなど11カ国に上る。その同伴者を、まさかこんな所で喪うとは・・・私は呪いの言葉を呟きながら、空港のポリスにナイフを投げて寄越した。

イスタンブールにはまた来るだろう。しかし、もはや、こんな融通の利かない空港は決して利用するまい、と。

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A唐突なエジプト再訪話

5年ぶりの中東旅行。それは、6月のある夜にかかって来た一本の電話がきっかけだった。

「もしもし、エジプト行きのチケットが三万円であるぞ」

私は絶句した。通常、最低でも十万円はする路線である。どうやったらそんなチケットが出て来るというのだ? 

電話の主は、旅行会社に勤めている友人、通称「総長」。私と共通する趣味は海外旅行である。彼の話によれば、カタール航空が関西空港からエジプトまでの便を就航させ(ドーハ経由便)、そのキャンペーン期間という事で、29,800円という破額に格安の航空券が登場しているというのである。

うーむ。しかし、なあ・・・私は考え込んだ。確かにエジプトには、行きたい所で行っていない所が、あるといえばある。そうはいっても、あと行くべき所はリビア国境に近いスィーワ・オアシス、シナイ半島の聖カトリーナ山、そしてアスワンのダムとアブシンベルくらいなモノで、本当に美味しい所は5年前に全部行っている。加えて、この年4月に大学院の博士後期に進んでしまって以降、自分の研究が全く進んでいない、という事情もあった。授業を取りまくった所為で(殆どが外書講読)、また勉強とは関係ない仕事を抱えまくっている所為で、自分の時間が取れない事態に陥っていたのだ。

しかしその一方、中東を再び訪れる必要性は痛感していた。

私が中東を歴訪した2000年は、パレスティナを巡る情勢が修復不可能なまでに悪化しはじめた年である。アフガンでのタリバン崩壊と無政府状態、イスラエルによるパレスティナでの非人道的な虐殺行為、イラクのフセイン政権崩壊といった情勢を見ながら、私は焦りのような感情を覚えていた。今すぐ現地に行きたい。エジプトで長逗留している、旧い知己に会って久しぶりに雑談するのも棄てがたい。そう思いながらパスポートを見ると、5年前に押されたイスラエル入国拒否スタンプが鎮座している。未だ、私が中東をくまなく旅行する事は、このパスポートを所有している限り不可能なのだ。更新すればいいハズなのだが、面倒くさくて放り投げていた。

そんなわけで二週間ほど悶々としていたが、結局行く事にした。その旨を総長に連絡してチケットを押さえてもらって、フライトの日を聞いた時に、私は思わず吹いた。フライトの日は7月23日、私の27回目の誕生日であったのだから。

チケットを押さえ、パスポートの更新に勇んで行ってみると、

「未だパスポートの有効期限が充分に残っていますし、経由するカタールもイスラエルの敵対国家ではないので問題はないはずですから、更新は出来ません」

と、京都駅の旅券事務所で通達された。私は思わず天を仰いだ。何なのだ、この外交感覚の無さは。国家同士が敵対関係になる事がどれほど容易な事か、知らないのか。文書一本で済むというのに。つまり、明日にでもイスラエルとカタールは敵対関係になる事が可能で、そうなると自動的にカタールはイスラエルの存在を認めなくなり、そうするとイスラエルの入国拒否スタンプをもっている私はドーハへのトランジットが適わなくなるではないか。そこまで考えが及ばない事務所がパスポートの発給なんぞやって良いのか?

呆れ果てはしたものの、結局パスポートを更新しないという一抹の不安を抱えたまま、フライトの当日を迎える事となった。もっともそれまでに、カイロの長逗留している知人への手土産を揃えたり、大学院の仕事を片付けたりと、やる事は山ほど有ったが。

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Bエジプト再訪−アレクサンドリアからカイロへ

出国当日、準備のために睡眠不足でフラフラな私は、インターネットを開いて絶句した。これから訪問するエジプトのシャルム・エル・シェイクでテロが起こったというのだ。それも、相当に大規模である。 泡を食いかけたが、冷静になってみるとそれほど不思議なことではないことに気がつく。シナイ半島に位置するシャルムは、イスラエルがシナイ半島を占領中に開発したリゾート地で、外国から多数の保養客が集まる地である。テロの一つや二つ起こった所で、騒ぐには値しても驚くには値しない。

そうはいっても、飛行機に乗るのが相当に怖かったのは確かである。もともと私は高所恐怖症で、飛行機に乗るのは大の苦手なのである。それで趣味が海外旅行なのだからどうしようもない話だが、今回のように格安航空券の話があると、高所恐怖症をうっかり忘れてチケットを購入してしまうのである。そして、フライトが近づくにつれて恐怖が募って来るという、どうしようもない悪循環に、幾度となく陥っているのである。ようするに、阿呆である。

27歳の誕生日にあたる2005年7月23日、私は知人への手土産の『封神演技』全23巻などで大きくなってしまった荷物を担いで、関西空港へ乗り込んだ。フライトの実に4時間も前に着いてしまい、暇潰しには苦労したが、それは毎度の事である。私の最大の不安は、自分が10時間ものフライトに耐えられるか、その一点にあった。プロ野球オールスター第二戦を観たり日記を書いたりしながら、待つ事しばし。カタール航空ドーハ行きは、定刻をやや遅れて関西空港を離陸した。

空路は何事もなく(ルートがアフガニスタン上空を通ると知った時には唖然としかけたが)、無事にドーハ国際空港に到着。現地時間の深夜4時、ドーハは深夜であったにもかかわらず気温が32度、しかもやけに湿度が高い。飛行機から空港のターミナルビルまではシャトルバスで結ばれているが、窓にびっしりと水滴が付着している。危惧していた入国拒否の憂き目を見る事を免れた時には、心底安堵した。 市内に出る事も(ビザをその場で取れば)可能だが、それも面倒臭いので、トランジットルームで待つ事にした。一応免税店などはあるから、そこを一通り見て回る。規模もさほど大きくないので、すぐに見て回れるくらいである。

と、楽しむ余裕はここまで。この後、実に9時間もトランジットで待たされる羽目になったのである。同じ便で飛んできた人の大多数は8時30分のルクソール行きに搭乗したのだが、私の乗るアレクサンドリア行きは13時のフライト、さすがにやる事は全てやり尽くしてしまった。日本出国当日に届いていた『旅行人』最新号も読み尽くしたし、数日分溜めていた日記は書き終わった。という具合で、ひたすらに待つしかなかったのである。 市内に出ようにもガイドブックは持っていないし、そもそもドーハに関して知っている事と言えば1993年の「ドーハの悲劇」くらいのモノ、わざわざ暇潰しに市内観光をする気にもならなかった。

ダラダラと待ち、ようやく飛行機に乗る事が出来たのは12時過ぎ。空調が効いていた空港ビル内とは打って変わって、外は暑い。夜と同じく、暑熱がまとわりつくような、湿った暑さである。そのくせ、外はひたすらに沙漠なのだから、妙なモノである。さすがにシャトルバスや空港ターミナルの窓ガラスにビッシリ付いていた水滴は消え失せていたが、その分暑さが倍加している感じである。 そしてフライト。ドーハからアレクサンドリアへは、アラビア半島と紅海を横断するルートを取る。席が窓際なのは私にとっては殆ど悪夢だが、恐怖を押さえて下を覗いてみれば、赤茶けた砂漠が存在感を誇示していた。

飛行機がアレクサンドリア・ノズハ国際空港に到着したのは16時。到着ターミナルは入国受付カウンターが二つあるだけの、本当に此処は国際空港か?と言いたくなるような小ささ。加えて、空港でビザを取ろうとしたら、受付係員がいない。エジプトという国は事前にビザを取得しなくても、空港内の銀行窓口で所定の代金を払えばビザが下りるのだが、その窓口が空である。30分ばかり待って、ようやくビザを取得する事が出来た。 そして空港を出るのがまた大変だった。空港と市内中心部をバスが結んでいるはずなのだが、待てど暮らせどバスは来ない。結局、空港敷地内から幹線道路まで出ないと、バスを捕まえる事は出来なかったのである。

同じ便で飛んできた女性と、ニューウェルカムハウス・ホテルの一番安い部屋をシェアする。5年前にも泊ったホテルの、同じ部屋であるところが進歩していないというか哀しいというか・・・市内を少しふらついた後、晩飯を食べ、相部屋の女性とビールを買って呑む。ビール?エジプトって酒を市販していたっけ?いや、確か5年前は市販していなかったはずであるのだが。どうやら、私がいない5年間に、色々変わったらしいな。

翌朝、眼前に拡がる地中海や人通りが殆ど無い市街地をゆっくり眺める余裕もなく同宿の女性はノズハ空港へと発ち、私も時を経ずしてアレクサンドリアのマスル中央駅に至る。駅構内の窓口で二等座席の切符を買い、アレクサンドリアを出発したのが10時。そして2時間半をかけて、列車はカイロ・ラムセス中央駅に到着した。 すっかり勇み立っていた私は、懐かしの安宿ビルがあるスーク・タウフィキーヤまで歩く事に決めた。しかし、モロに迷子になってしまった。前回のエジプト訪問時に10日間は滞在していたから土地勘も未だ鈍っていないだろう、と考えていた私は甘かった。道行く人にスーク・タウフィキーヤの場所を聞きまくり、到着した時には腹が減っていた。

5年ぶりの安宿ビル、しかし、最上階のサファリホテルに生活向上委員会が無い現在、私はこのビルの一番下の階に位置するスルタンホテルを宿と定めた。このスルタンも、5年前にはビル内にスルタン1・2・3と3フロアを占有していたのが、今では1フロアのみである。このスルタンに、サファリのオーナーと喧嘩別れして出て来たかつてのサファリホテル生活向上委員会委員長・アモーレまる氏が、一部屋を借り切って居を構えている。 今回のエジプト行きを思い立った最大の目的は、このまる氏に再会してあれこれと雑談する事であった。持参してきた『封神演義』全23巻などを手土産に、スルタンにあるまる氏の部屋「臥竜庵」を訪れる。私の知っているまる氏は月代を剃った「落ち武者」風の髪型がトレードマークであったが、今のまる氏は普通の短髪である。普通の旅行者と違う点といえば、外出時にガラベーヤという現地の服を着ている点であろう。

所沢でのサファリホテル同窓会以来2年半ぶりのまる氏との再会であるが、積もる話もそこそこにして私は外に出て、タフリール広場を目指す。カイロに着いてまずやるべき事は、イスタンブール行きのチケットを買う事と決めていた。 イスタンブール行きの片道航空券を買い、そこからトルコを横断してシリアに入り、ヨルダンを経由してカイロに戻り、ルクソールから飛ぶ・・・というのが、当初思い描いていた今回の中東旅行プランであった。しかしパスポートを更新する事が出来ず、日本発の航空券も往復3週間強で取るのが精一杯だった為、哀れこのプランは没となった。何といっても、シリアに入れないのだから仕方がない。 そのような次第でカイロ−イスタンブール往復の航空券を現地で買う事になったのだが、これも実は賭けだった。買えない場合のプランも考えていたのだが、幸いにして購入する事が出来た。しかし、購入する事が出来た航空券は私を悶絶させた。8月1日カイロ発は希望通りだから良いとして、10日深夜のイスタンブール発である。ルクソールから出発する航空券が13日フライトなのに、なんともデンジャラスなプランになってしまった。発券を取り消そうかと一瞬考えたが、迷っている間に発券手続きが済んでしまい、気が付くと

「ちょっと機械がダウンしているから明日来てくれ」

と旅行会社の事務員に言われていた。この航空券も剣呑で、カイロ発の最安チケットの値段が322$なのに、値段交渉の挙げ句、結局350$払う羽目となった。322$の値段を示してくれた所では希望の日時のチケットが取れなかったのだから仕方がないのだが。

翌朝、朝イチでタフリール広場のカイロ・アメリカン大学内の書店に行った後、再び航空券を取りに行く。しかし、早過ぎたらしく、発券までえらく待った。パスポートを持ち去られたまま1時間以上待つ間に気温はぐいぐい上がり、何だか眠くなってくる。やっとエアチケットを受け取ると、12時頃。 次にモガンマアという役所に行って、再エントリービザの取得作業。人が殺到して混雑している上に職員が極めて手際悪く、申請するまでにバテた。 申請した後、ビザが下りる午後3時までの間、暇潰しに考古学博物館を見学する。しかし、幾つかの読みの甘さが積み重なった結果、これが誤算となった。まず、敷地内で売っている水が市価の5倍で、水の補給が出来ない。次に、博物館内の暑さ。暑い博物館など論外だと思うが、この博物館は、ツタンカーメンの秘宝を展示している部屋やミイラの展示室などの例外的空間を除き、まるで空調が効いていないのである。さらに、食事の補給も出来ない始末。日本出国直前以来の疲労が殆ど取れていない私にとって、このトリプルパンチは効いた。 そのうち、立っているのもやっとという状態になってしまったのである。結果、3時半にモガンマアで再エントリービザを取った後は、ホテルに戻って倒れてしまい、晩飯も食べずに昏々と眠り続ける結果となった。

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C沙漠街道・・・スィーワと階段ピラミッド

昏々と眠り続けていた私は、しかし翌日には回復した。若干頭痛はしたが、どうやら眠り過ぎであった為らしい。起床後程なく、余分な荷物を宿に預け、必要最小限の荷物のみを持ってラムセス中央駅に行く。狙っていたのは、おそらく11時に出ると見込んだアレクサンドリア行き。 しかし、発券されたのは12時の乗車券。これで、カイロからアレクサンドリア、そして西方の沙漠に浮かぶスィーワ・オアシスまでノンストップで駆け抜けるという計画が頓挫した。スィーワ行きの大型バスがアレクサンドリアのスィーディー・ガベルから14時に出発すると事前に承知していた為である。

12時に出発したアレクサンドリア行きが同市のスィーディー・ガベル駅に着いたのは14時半。下りてすぐの場所にあるバスターミナルでスィーワ行きのチケットを求めたが、やはり翌日11時発車の便になってしまった。いささか不本意だが、またアレクサンドリアに一泊である。 取り敢えず宿に荷物を置いた私は、アレクサンドリアの図書館へ向かった。5年前には未だ完成していなかった図書館は、かつてヘレニズム世界にその名をとどろかせたアレクサンドリア図書館の復活を目指したものである。

しかし・・・なんだって、図書館に入るのに入場料が要るのだ?私営なら解るが、この図書館、隣に大学があるし、どう考えても大学の付属施設もしくは公営だろう・・・

愚痴はさておき。

入場料5LE(学割)を支払い、入ってみる。段々畑のような形状の図書館内は、実に広々として、しかも明るい。館内には写本の博物館などもあって、観光客でも楽しめる構造になっている。私は少々、読書を楽しんだが、読んでいた本が専門領域の本というところが哀しい。

翌朝、洗った服が乾ききるのを待たず、私は宿を後にした。夜ともなれば海岸から涼しい風が吹き込んでくる為、寝苦しいという事は全く無いが服は乾きにくいのが難点か。海岸通りで地中海の眺めを楽しんでいるところをミニバスに拾われて、スィーディー・ガベルの近くまで行く。少々迷ったが、バスターミナルに着いたのは発車1時間前。そしてバスは定刻の11時に発車した。

これがまたキツかった・・・

目的地までがやたらに遠いのは承知していたが、隣の席に座っていたのがえらく体格の良いオッさんで、私の席の、かなりの部分まで占領していたのである。おかげで窮屈な思いをし続ける事となる。

さて、定刻に発車したバスは、まず市南郊のモウイフ・ゲディートゥ・バスターミナルを経由し、そこから進路を西に取り、湖沼地帯を抜ける。この湖沼、マリュート湖というらしい。ヘレニズム時代の地図にも姿を見せているが、かなり沼沢化が進んでいるのではないかと見える。

湖沼地帯を抜けると、緑は殆ど消え失せる。地中海沿岸のリゾート地マルサ・マトルーフを経由してスィーワに行くのだが、この街に至るまでの道筋は、実に不思議である。進行方向の左手には、ときどき草が顔を見せる程度の、乾ききった沙漠が拡がる。しかし右手の奥には、深く蒼い、コバルトブルーの地中海が見える。美しく鮮やかなコントラストである。

マルサ・マトルーフまでは一度、30分程の休憩を取る。マルサ・マトルーフに着いたのは4時少し前、やはり30分程休憩。ここからの道は、沙漠の中をひた走るルートになる。道の両側は、殆ど岩も見えない、赤茶けた砂沙漠。 これと殆ど同じルートをアレクサンドロス大王も取ったというが、馬しかない時代の事である。よくこのような所まで来たモノだ。今でこそエジプトの領土だが、かつてスィーワはエジプトの一部と見なされていなかった節がある。アッリアノスの『アレクサンドロス大王東征記』にも、

「リビュアなる(スィーワの)アモン(神殿)」

という記述が出ている。大王が訪問した時には雨に恵まれたという話だが、それでも一度は遭難しかけたらしい。一体、大王のスィーワ訪問にはどんな意味があったというのだろうか?

休憩を取る事総計3回、スィーワ・オアシスに到着したのは8時少し前。とはいっても、サマータイムを使用している上に、ナイル峡谷から遠く離れている事もあって、未だ夕方と同じ程度の明るさである。 バスが到着するなり、わらわらとロバ車がよって来る。自動車など、殆ど有りはしないのだ。実の所、ロバ車に乗る必要など殆ど無い。市街地といっても殆ど無いに等しいし、道路も主要な所が舗装されているに過ぎない。自動車が無い分、このオアシスに流れる時間は非常にゆっくりとしているようだ。私が荷物を置いた宿は、パームツリーという宿。ゆったり出来そうな中庭を持つ宿である。

翌朝、私は朝一番にバスのチケットを買いに行く。しかし、何処で買えば良いのか解らない。宿に戻ってみれば、スペイン人ムスリムのアブドルが、

「今日は金曜日だから、多分チケット取れないのじゃないのか」

などと茶化してくる。幸い、二度目に外に出たらオフィスを発見し、チケットを購入する事が出来たが。本音を言えばもっとゆっくりしていたかったのだが、イスタンブール行きの日取りの都合上、一泊しかしない事になったのは痛恨である。

スィーワを出る準備が済んだところで、私は自転車を借りて外に出る。スィーワに一泊しかできない以上、出来る事は限られている。私がこのスィーワに来た目的は、極論すればただ一つ、アレクサンドロス大王が訪問したというアモン神殿を訪れる事だった。 そのアモン神殿は、市街地中心部からは少し離れた椰子林の中に浮かぶ、岩山の上に立っている。入場料10LEを取られて岩台の上に上る。もともとは土壁で神殿の周りが囲われていたらしいが、それがかなり崩れていた状態で、セメントで固定されている。神殿本体は、非常に小振りである。その小振りな神殿を1時間程も眺めていたのだが、

「俺は1時間半、あの神殿にいたぞ」

と、後でアブドルに自慢される。このアブドルという人物も、何故か八丁味噌を持っていて、地元のパンであるアエーシに塗って食べるという変な人間であった。

神殿をはじめとする見所は一通り見終え、私はその日の夜にスィーワを発つ。沙漠の真ん中の休憩所で見上げた空は満天の星、天の河がくっきりと見えた。 翌朝、スィーディー・ガベルに着いた私は、同じバスに乗っていたフランス人カップルと共に、エジプト人ビジネスマンのゼン氏に連れられ、朝7時発のカイロ行きの連結部に乗って、カイロに戻る。そして、念願のガラベーヤを購入。ガラベーヤとは、エジプト等のアラブ諸国の人々が着ている民族服である。
いま、拙宅には3着あるのだが。

カイロ帰着翌日には、最初の高層ピラミッドとして高名なジェセル王の階段ピラミッドを見に行く。カイロ市内からはかなり離れたところにあるしアクセスは悪いし、相当に疲れた。しかも到着したら玄室が閉まっていて、かなりショックだった。

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Dもう一度、飛んでイスタンブール〜トルコ前半戦〜

8月1日、私は朝一番にラムセス中央駅で10日後のルクソール行きの二等座席券を購入すると、荷物を担いでタフリール広場へ向かった。そこから空港行きのバスに乗り、カイロ国際空港へ行く。第一ターミナルで、かなり長い事待つ。フライト予定時刻の3時間前に着いたのだから当然だが、フライト自体も、実に1時間遅れての離陸。 イスタンブールへの到着は30分遅れで済んだが、この後は人が殺到する上に効率が極めて悪い、トルコの入国審査ポストの前で長蛇の列を作る。1時間程並んで入国審査をパスすると、銀行で両替する。
ひとつ失敗したのは、空港内の銀行で百ドルも両替してしまった事。ここの銀行は、レートはまともだが、手数料をかなり取るのだ。気が付いたのが両替した後の事で、時すでに遅し。私は舌打ちを禁じ得なかった。
さて、トルコがここ数年話題になっていたデノミをついにこの年の一月にやったというニュースは聞いていたが、私が手に入れたトルコリラは確かに0が6つ消えた、新トルコリラであった。ただし、未だ昔のリラも混じっていたが。

空港から、メトロでアクサライ駅まで出て、そこでトラムに乗り換えてチェンベルリタッシュで下車。5年前にトータルで半月弱いたガラタホステルは、しかし今はもう無い。私が目指した宿は、ツリーオブライフという宿である。ここは、キリム屋を経営している日本人女性が、5年前に作った宿である。変わった宿で、日本人バックパッカーが交替で宿の管理人をするのである。 しかし到着当日は満室だった。到着時間も8時過ぎと遅かったし、まあ仕方が無い。それで、その日はすぐ近くにあるパリホテルに泊り、翌朝にツリーに移動。

日本人宿の常、最上階にあるツリーのロビーには日本語書籍がギッシリとあり、なかでもハマったのは『マスターキートン』。しかし、私は日本語書籍の山に埋もれるよりも、やはり市内を見て回る事に重きを置いた。ひとつには、ツリーの「情報ノート」の情報量が、思ったより薄かった為である。・・・いや、ある意味ではその事態は予測していた。昨年(2004年)再会した、ツリーの元管理人であるちー兄ちゃんが、

「今ではもう、情報ノートは重視してない」

と言っていたからだ。それでも当時は未だ、最新の情報がインターネットのサイト上で飛び交っていて、それを収集・整理する事でかなり良質の情報を入手できた。しかし今や、情報ノートにも掲示板にも、書き込みをする人は殆どいない。口頭での情報交換に終始するだけである。皆、自分の足跡を残そうとは考えないのだろうか?私はかつてのイスタンブールの日本人宿の情景を思い出し、思わずため息をつくしかなかった。

街中に出てみても、観光地が何処も彼処も値上がりしていて、思うように入る事が出来ない。例えば、アヤソフィアなど、日本円に換算しての入場料が5年前の倍である。1$=190万TLまで行った昨年に入場料を上げて、トルコのインフレが収まった今でも値段をそのままで据え置いているらしい。呆れてしまう。 格安で有名だった航空運賃も、5年前ほど安くはない。各旅行代理店に張り出された運賃早見表を見てみると、全てユーロ立てで掲示されている。後日の話であるが、空港の免税店の料金表示もまた、全てユーロだった。トルコは本気でEUに加盟したいのだなあ、と嘆息してしまう。無理だろうが。

それでも、イスタンブールは美しい。カイロから着いた当日は、胸が一杯になってしまって溜息しか出なかった。私はこの街にもう一度来たらやろうと思っていた事があった。ボスポラス海峡クルーズである。到着3日目、それをやった。イスタンブールのエミノニュ埠頭から黒海にほど近い所まで、遊覧連絡船に乗るのである。終点のアナドル・カワーゥでは、丘の上の要塞から黒海を望む事が出来た。

このボスポラス・クルーズの時、港に停泊していた海上自衛隊の練習艦を見た。この船の乗組員が、なんとツリーに泊まりに来たのである。吃驚した。一般公開もしていたので、乗艦してみた。自衛隊の船の上からイスタンブールのトプカプ宮殿を眺めるのは、非常に気持ちが悪かった。違和感が物凄かった。しかし、何故か笑えた。

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Eヘレニズムの遺産を訪ねて〜ペルガモン・イズミール、そしてイスタンブールへ〜

イスタンブールの空気を胸一杯に吸い込んだ私は、ベルガマという町に向けて出発する事にした。この地は、ヘレニズム時代にペルガモン王国の首都ペルガモンが置かれた所で、今回のトルコ旅行最大の目的地のひとつだった。しかし、アクセスが大変だった・・・ イスタンブールのオトガル(長距離バスターミナル)からベルガマ行きの夜行バスに乗ったは良いが、イズミットのオトガルで夜中に気が付けば、全くバスが動く気配がない。運転席では、カッターシャツを着ていたハズの運転手が、汚れた半袖シャツの背中をさらして、ハンドルに突っ伏して寝ている。要するに車両故障である。それに気が付いた時には1時間以上が経過していた。

代車が来て、それに乗り換えたのは3時半。うつらうつらしながら、7時半頃に休憩を取る。5年前と比べて変わったと思わせるのは、大バス会社各社が、自社所有のサービスステーションを各所に持っている事である。この後、イズミールからメトロ社の長距離バスを使用したが、その時もメトロ社のサービスステーションで休憩を取った。

さて、バスはディクリィという街のオトガルで、客を降ろしてしまう。私はベルガマに行くつもりなのだが、一体どうしろと言うのだ?と半ば呆然としていると、同じバスに乗っていた、英語の達者なトルコ人青年が

「ベルガマに行くなら、このセルビスに乗り換えだよ」

と、説明してくれた。セルビスというのはライトバンサイズのミニバスである。それに乗り換えて走る事1時間弱、ようやっとベルガマのオトガルに到着。ディクリィのオトガルも小さかったが、このベルガマのオトガルも非常に小さい。街の真ん中を片側一車線か二車線の幹線道路が走り、その両側に街がへばりついている感じ。この街に至るまでは、山地に囲まれた、しかしかなり広い平野が拡がる。ベルガマを含むこの地帯を

「カイコス峡谷」

と称するが、この峡谷を根拠地として栄えたのが、紀元前3〜2世紀のペルガモン王国である。人口17万の、長距離バスのネットワークから少々外れた街には、そのペルガモン王国と、それに続くローマ時代に維持されたアクロポリスとアスクレピオン神殿がある。 到着して宿を定めた私は、すぐに市内に出る。目的地は、もちろん山上のアクロポリス。私が居る市街中心部からは7qほど。さて、歩いて行くか、と幹線道路で屈伸していると、溜まっていたタクシーの運転手たちに声をかけられる。

「アクロポリスまで10YTLでどうだ?」

私の頭は、多少ネジがゆるんでいたかもしれない。値段交渉をねちねちする事もなくあっさりと承知し、昼飯の菓子パンを買い込んでタクシーに乗った。

アクロポリス。ギリシア人の建設した都市に付き物と言って良い、高台である。ここに神殿や広場などを配して宗教・政治の中心とするのがギリシア系都市の常だが、それにしてもここのアクロポリスは標高が高すぎる。一言でいえば、山城である。この山城に、所狭しと神殿や円形劇場などが詰め込まれている。円形劇場など、あまりにも急峻すぎて、足を滑らせたら簡単に転落死してしまいそうである。 その中に、礎石しか残されていない神殿の残骸があった。ドイツに行った事がある人ならば知っているであろう、ペルガモン神殿の跡である。暑い中、木陰になっている神殿の土台で涼みながら、思わず遠いベルリンを思い出してしまった。

このアクロポリスから少し離れた所に、ヘレニズム時代からローマ時代にかけて崇拝された医神を祀ったアスクレピオンという神殿跡がある。しかし残念ながら、私はたどり着く事ができなかった。ツーリスト・インフォメーションでもらった地図が劣悪すぎて、場所が解らなかったのである。

翌朝、私は早くもベルガマを発ち、イズミール行きのバスに乗る。イズミールはベルガマから2時間ほどのところにあり、イスタンブールやアンカラに次いで、トルコ第三の人口を有する大都市である。しかし、観光名所ではない。ローマ五賢帝の一人であるマルクス・アウレリウスが再建したアゴラの跡は良いものだが、何しろ小振りである。
イズミールを訪れたのは、この街を起点として、アケメネス朝やヘレニズム時代に小アジア西部の一大行政拠点であったサルデイス(現・サルト)の遺跡への訪問を企画していたからである。 しかし、巨大なイズミールのオトガルは市街地から離れており、アクセスも極めて悪い。私の宿は市街中心部にあって、すぐ近くにはバス会社が並ぶ。そこからオトガルにセルビスが出ている事は出ているが、チケットを持っていなければ乗ることができるわけもない。さあどうしようかと首をひねるが、結局あっさりとサルデイス行きを断念し、一泊しただけでイスタンブールへ帰る事にした。
それでも二日目には暇が余ってしまい、チャイハネで本を読みながらチャイをすすっていたら、その感覚の懐かしさに思わず落涙しそうになる。やはり中東の旅はチャイハネである。

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F旅行、終盤へ〜イスタンブールからカイロへ〜

イズミールからイスタンブールへは、バスで戻る。この途中、ボスポラス海峡をフェリーで渡った時には、久々の感覚に感涙しそうになってしまう。いかんな。

イスタンブールに「帰って来た」のは、早朝6時頃。オトガルからはセルビスで市内のアクサライ(トラムの始点)まで出て、そこからツリーまで歩く。朝焼けのイスタンブールの目抜き通りを歩くのは、殆ど初めての経験ではないだろうか。人もまばらである。

ツリーに荷物を置くと、市街を取り囲むテオドシウス大城壁まで歩いていく。行ってみて、驚いた。やけに新しいのだ。どうやら、修復工事をがんばってやっているらしい。おかげで、風情が欠片も無くなってしまっている。やめて欲しい。

一旦宿に戻った後は、同宿の人数名と一緒に、エジプト・バザールとグラン・バザールへ。エジプト・バザールはトルコ名が「ミスル・チャルスース」、つまりエジプト方面から入ってくる香辛料などを主に商うバザール、という事である。観光客相手の店しかないグラン・バザールと違って、こちらは日用品なども扱っている。前に来た時には素通りしかしなかったのだが、今回はじっくりと品定めをして、シャツを数枚、購入した。 ところで、今回のエジプト訪問で怖かったのは、各商店でやたら男性の店員にもてた事。せっかく髭を生やしたのに無駄だった、という事ではなく、髭に色気を感じた・・・らしい。冗談ではない。私は一応ノーマルである。男性と同衾など、ごめん被りたい。
この面々と一緒に、かつて私が宿泊した、ガラタホステル付近のチャイハネに行ってチャイを飲んだ。イスタンブールでも下町だから、チャイの料金も(現地価格で)安いのだ。そして、ガラタホステルの跡を、外から眺めやった。未だ建物はそのまま残っているから、よけいに哀愁が漂っている。かつてトータル二週間滞在した宿の跡を呆然と、私はただ眺めるだけだった。

「背中から、『懐かしい』っていう叫びが一杯にじみ出ていたよ」

とは、同行者諸氏のコメントである。

そしてイスタンブール最終日、私はツリー近くの公衆便所に行った。何故わざわざ公衆便所かというと、そのすぐ近くに「地下宮殿」があるのだ。地下宮殿というとアヤソフィアの目の前にあるかつての貯水池が有名であるが、それとは違うらしく、昔のコンスタンティノポリスの遺構が残っている所である。無骨な柱が何本も、天井高く立っていた。水浸しの床は煉瓦造り、壁も煉瓦である。外は暑いのに、中は息が白くなるほどにヒンヤリしていた。

その日の夜、私はすっかり多くなってしまった荷物を担いでイスタンブール・アタチュルク国際空港へ、アクサライからトラムで向かった。その前に、アクサライ付近のロカンタで、イスタンブール最後の食事を摂る。イスタンブール滞在中は、自炊する時を除いてはアクサライまで来て食事をする事が多かった。わざわざここまで来るのは、このあたりの飯はスルタンアフメット近辺に比べると格段に安いから、なのである。

アタチュルク空港で私を見舞った悲劇は、本旅行記冒頭で述べたとおりである。空港内に入ってからも大変だった。何しろ巨大な空港である。搭乗手続き直前に、搭乗ゲートが変更になったりして、広い空港の建物内をまた歩きまわる羽目になった。免税店をのぞくと金額表示がユーロだが、私はユーロ持っていないし、買うものは何もない。

そして、11時過ぎに、アタチュルク空港を離陸。またしても窓際。はっきりいって悪夢なのだが、窓外にみえるイスタンブールは、街の明かりで市街の形がクッキリと輝き、美しい。私はしばし、その光景に見惚れた。

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G再びの日本〜カイロ・ルクソール〜

カイロに戻ってきたのは、深夜一時すぎ。到着したのは国際線が主に発着するターミナル2。何か問題でもあったのか、少し列を離れた所で待たされた。

「三度目の入国拒否だろうか」

と思って内心は冷や汗をかいたが、やがて何事もなくゲート通過を許され、胸をなで下ろした。

さて、こんな時間だから、市内への足はほとんど無い。実はミニバスがあるらしいのだが、その発着所はターミナル2からは少し離れた所にある。で、通常の市内行きのバスが出る7時まで、ターミナル2の中で呆っとしていた。始発のバスに目の前を通過された時には、どうしようかと思ったけどね。

カイロ市内に戻ってみると、えらい事になっていた。アモーレ氏の話に拠れば、8月以降はルクソール方面行きの列車の切符がきわめて取りにくくなったらしく、当日に切符を求めるなどは到底不可能な状況になっていた。トルコに出発する当日に切符を取っておいた私は、思わず安堵の長嘆息を漏らした。たまには勘が当たる事もある。 といってカイロに戻った当日にはやる事もなく、私がやった事というと、シタデル(サラディンが築き、19世紀までエジプトの政庁があった城)を間近に見上げるガーマ・スルタン・ハサンというモスク訪問くらいなものである。装飾がすっかり色褪せたこのモスクで寝ころんだり、ハーン・ハリーリで土産を買ったりした。それだけ。
そして夜、アモーレ氏に見送られ、カイロを出発する。私が乗車するのは二等座席なのだが、これがまた空調効き過ぎで寒い。もともと冷房に弱い私はTシャツの上に長袖を重ねていたが、それでも足りずに、買ったばかりのガラベーヤを上から着る事になった。
もっとも、この恰好では、緯度がカイロよりも南のルクソールでは暑いのは当然の事である。翌朝、ルクソールに着くと、取り敢えずガラベーヤを脱いで、宿としたのは、これまた5年前と同じくホテル・エルサラーム。ここのドミトリーは5エジポンだが、いろんなところが変わっていた。 まず、宿の屋上にあるカフェ「ハイライフ」は、主人の泰介さんが帰国しており、マンドゥフというエジプト人が跡を継いでいた。次に、ホテルのマネージャーも替わっていた。

このマネージャーが、デンデラにあるハトホル神殿へのツアーをしつこく進めてくるのだが、さし当たりそれは断って、自転車を借りてナイル河西岸を駆け回る事にした。ふらふら回っていると、足は自然と「王家の谷」に向かっていた。そこで自転車を降りて、5年ぶりに王家の谷を回る。残念ながら今回もラムセス二世墓は開いていなかったが、代わりに三カ所ほど回る。 5年前と違うのは、暑さ。8月のルクソールが、涼しいわけがない。水はあっという間にぬるくなり、ついには熱いお湯になってしまう。その水を飲みながら、市内各所をふらふらと自転車で回る。

そして翌日、遂に最終日である。といっても午前中は観光可能なので、私はルクソール博物館へ。これは五年前には無かった。カイロの博物館と違い、ここは全面的に冷房が効いていて、出土遺物を整然と、丁寧に並べている感じがよい。もちろんルクソールだけに、カルナック神殿の壁のレリーフをまるごと持ってきていたり、目を奪われるようなものも少なくない。
博物館を堪能した後、昼過ぎに、宿のマネージャーに手配を頼んでおいたタクシーに乗ってルクソール空港へと向かう。河沿いの道をしばし走った後、車は一路空港へ。市街地から11qほど離れた空港は沙漠の中にあり、そこに至る道はガラガラで、10分ほどで到着してしまった。もう少し、長居すれば良かったかな・・・何しろフライトは16時40分、時間的には全然余裕だったのだ。 そしてフライト。今回もドーハにトランジットだが、今度は3時間ほど。そしてでっかいエアバスに乗って、関西空港にランディングしたのは、日本時間14時40分だった。ガラベーヤを着て帰国した私を出迎えたのは、死ぬほど爆笑する、バイト先(京都発・関西空港行きバスポーター)の同僚たちであった。

帰国翌日には、幾度となく連絡を受けていた京都文化博物館に出向いたり、下鴨神社の古本祭りで古本を物色したりしていたのだが、まあそれは別の話である。
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−完−


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