「自己責任論」に関する覚え書き

友人からの問いかけに対する返答というとして、2006年7月に書かれた文章です。
一部修正の上、掲載いたします。


「自己責任論」に関して、(殺された当の本人の)個人レヴェルの問題と、国家レヴェルの問題と、マスコミレヴェルの問題を混同しているのではないか、というのが貴君の問題提起だったと思う。
 これに関しては、明確に否定できる。殺された人の話はひとまず措こう。国家レヴェルとマスコミレヴェルでの話を混同したかのような印象を与えてしまったのは、行き着く結論が同じ所、すなわち「国民国家としての日本の死亡通知書」であるという所に落ち着くという事である。

 そこでまず、国家レヴェルでの話にいく。
 建て前がどうであれ、国家としては、渡航危険勧告を出している国に渡航する人間が誘拐されてしまったら、「知った事ではない」と言いたくなるのは当然だろう。だが、

「それはイラクへの入国を試みた人間の『自己責任』だから、日本国政府は犯人側の要求には応じられない」

と言う発言を公共の電波に出してしまったら、それも当該問題に関する責任者が大声で言ってしまったら、それは国民国家としての前提を全て否定してしまう事になりかねない。
敢えて言うまでもない事だろうが、近代国家は構成員たる国民に危機が及んだ場合、何はさておいてもそれを救わねばならない、という責務を負う。それが「国民国家」としての前提である事を考えれば、誘拐犯から出された交換条件を担当者が頭から否定すると宣言してしまった「自己責任論」は、対外的に見た場合、国家としての日本そのものを否定するモノであったと言わざるを得ない。
 次に、マスコミレヴェルの話にいく。
 政務官が「自己責任論」発言を行った時に、マスコミがそれを取り上げたのは当然の事である。問題は、それに同調するかのような姿勢が大勢を占めたという事だ。「自己責任」を理由に国民を見殺しにするような論を国家の当局者が主張する事は、近代国家、独立国家としての日本の自殺を意味する、と言う事を主張しなければならなかったハズなのに、それを批判せず、あまつさえ賛同するような姿勢を示した事は、ジャーナリズムに課せられた、国政へのチェック装置としての機能を自ら放棄した事を意味する。すなわち、日本のマスコミはジャーナリズムとしての自らの存在を否定したのだ。
 そして、マスコミに関してもうひとつ。
 彼らは、「香田証生さんは何故イラクに行ったのか」との問いは発した。だが、それに対する答えは一切提供しないまま、この問題を忘れ去った。しかし、問いを発したら答えを提示しなければ、何の意味があろうか。あの事件の時、マスコミは何らかの試論を提示しなければならなかった。そして、試論を組み立てる際に用いた材料を提示しなければならなかったハズだ。その人の足跡を追う、という形もあっただろうし、その問題に関する玄人−傲慢との誹りを承知で言えば、とりわけ私を含めた貧乏旅行道楽人間−に意見を聞く事も有効だろう。それすらもしなかったという事は、マスコミが自らの業務を放棄したという事なのだ。「自己責任」論は、事実の追求に至る根源的な真理である、
「『知る事』への欲求」
という、ジャーナリズムはおろか、人間としての根本すら否定した議論である。私の目には、そう映った。
 すなわち、「自己責任論」問題において、国とマスコミは共に過誤を犯した。
 国は、「自国民を理由の如何を問わず護る」という大前提を破った。
 マスコミは、「知る事」「批判する事」という、存在の根幹を放棄した。
 「日本国は国家としての役割を放棄した」というのは、近代国家としての日本を支えるべき二つの大黒柱が、ともに自身の存在理由を上記のように否定した、という事を総括して言っているのだ、という事である。
 さて、マスコミの追求しなかった、
「香田証生さんはなぜ殺されたのか」
 という問題に関しては、私が紹介したあの本を読んでいただこう。それ以外に、説明は存在しない。ただ、一言だけ。よく、
「危険だと解っている地域になぜ行くのか?」
という議論に対して、私はよく言う。
「少なくとも、近くまで行かなければ危ないかどうかなんて解らない」
その根拠として挙げるのが、外務省が出している海外危険情報である。かつて海外危険情報は5段階表示されていたが、2000年以前に私がチェックした限り、そして今に至るまで、アメリカ合州国は一度として、渡航に関する注意が喚起されるべき数値が示された事がない。あり得ない話であろう。つまり、外務省が信頼に足る情報を提示しているとは、到底言う事が出来ないのだ。だから、
「危ないかどうか、それは自身の経験が判断する」
しかない。そのためには海外にはどんどん行くべし、という主張に繋がるのだが、つまりは「自己責任」論によって、日本国政府とマスコミは、国民が
「外の事を知り、それによって日本をより深く見つめる目を養う」
機会を何よりも多く作る、海外への、それも特に−この用語を用いる事による批判は甘んじて受けよう−「途上国」への、バックパックを担いでの長期個人旅行を完全に否定し去った。それを許容する事は、旅人・洛北孫子亭の存在そのものの否定につながる。だから私は、口を極めて「自己責任」論を批判したのだ。 いささか不完全な議論だと思う。分かり難かろうと思う。だが、あわてて書いた覚え書きだけに、この程度で締めくくる事をご容赦いただきたい。全てが私の中では「前提」だったために、まとめて言語化するのが困難だったという事である。

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