祭り囃子と信仰の間、あるいは多神教と一神教の間


今月12日、実家の村祭りの当日、山車が出発しようとするところで、マイミクのまりもさんからメールをいただきました。内容そのものは完全にプライヴェートな四方山話だったのですが、あまりにも絶妙のタイミングだっただけに、例年通りに祭り囃子の太鼓を叩かせる順番の割り振りのため、猛烈な勢いで空回りしていた私の頭が、ふと立ち止まって考え込んでしまいました。

考え込んでしまった理由はふたつ、
@まりもさんがムスリムであること
A私が、これまで幾度となくイスラームへの改宗を検討していること
という理由に拠るものです。

秋の祭礼は村の行事ですが、同時に宗教的行事であることは、いうまでもありません。最初に祭りでお囃子に参加したのが、小学生低学年だった二十数年前のことになります。京都に来てからも、毎年体育の日には帰省して祭りには参加しております。同じ年にお囃子を始めた妹は今年、遂に引退を宣言しましたが、誰も真に受けていません。

で。

そうした星霜を重ねる中、思わず忘れてしまいがちなんですが、この祭礼は、第一義的には氏神様への秋の実りを感謝するものです。私としては、今さら秋のお祭りで祭り囃子の太鼓の首座を外れるわけにも行かないのですが、まりもさんからのメールで、ふと我に返りました。

私がムスリムへの改宗を果たした場合、祭り囃子で太鼓を叩くということは、果たして赦される行為なのだろうか、と。

そう思ったのは、私がお祭りの中でも、特に宗教的な側面に特化した局面に触れ続けているからでしょうか。祭り囃子は、無形文化財として世俗化されてもいますが、なんといっても神様に音楽を奉納する行為ですし、まして社殿でお囃子をやっている最中には、神主さんからのお祓いを受けます。気にしすぎ、と思われる方も多いかもしれませんが、先々月の国際人文地理学会の時、神主さんからのお祓いのときに、そっと場を少し外して、お祓いの光景を見守っていたイスラエルからの研究者がいたと記憶しています。あの学会の時には敬虔なムスリムは見当たりませんでしたが、もしそちらの人がいたら、どんな光景が展開されるんだろう・・・と思わずにはいられませんでした。

これが仏教徒であれば、何しろ「神仏習合」の伝統があったことですし、なにより神が多いという点では、仏教も神道も同様ですから、割り切るのは容易でしょう。しかしこれがムスリム、ないしはキリスト教徒であった場合、自分の引き受けている行為に対して、どのような形で気持ちの整理をつけるのだろう・・・

そうやって悩んでいる間に気が付けば、神社の境内、社殿での指揮という例年通りの仕事が回ってきたのでした。

このコーナーの振り出しに戻る

HPの振り出しに戻る inserted by FC2 system