「暗黒の中世」再論


西洋中世に関して、「暗黒の中世」という言葉を未だに使うと、時代遅れとの印象を持たれるかも知れない。 というのは、近年の歴史学の発展によって西洋中世の歴史は大きく見直されて、高い関心を持たれるようになっているし、またアナール学派や「古代末期」という視点など、古くからの歴史学の枠組みに挑戦するような見方は、中世史から発せられるケースが多いからである。
日本においても、一世を風靡した名著『ハーメルンの笛吹男』の著者・阿部謹也などの中世史家たちの活躍によって、もはや西洋中世を「暗黒の時代」とする見方は克服された、と考える人も少なくないかも知れない。
(ことに拠れば、これは近年流行のRPGやファンタジーなどの影響もあるかも知れない・・・が、そこまで踏み込むとえらいことになるので省略する)。
そういった「西洋中世史の見直し」の傾向を反映してか、現在西洋史では、中世史の人気が圧倒的に高い。私も演習の席で、西洋中世史の報告を幾度聴いてきたか、数知れない。逆に、専門の古代史はまるで聴けずに、寂しい思いをしている。

しかしながら、私は西洋中世史に対して、未だに全力を傾注するほどの魅力を見出せずにいる。これは中学・高校時代に、世界史の教科書を眺めながら思った違和感に起因する。そのころ、授業を受けながらずっと、こんなことを思っていた。

『現在西ヨーロッパと区分される地域は、中世と呼ばれる時代には、世界史に占める比重が、例えば中華や中東のイスラーム世界、さらにはビザンツに比べて、圧倒的に軽かった、もっと言ってしまえば所詮は「野蛮な未開地域」のハズなのに、何故、中東とか中華よりも多くのページを割かれているように見えるのか』

私の「西洋史嫌い」の根は、此処に始まっているのである。西洋史ゼミに長らく身を置きながら、中世史の報告を多く聴いているにもかかわらず、、
「何故西洋中世史をやる気になるのか、サッパリ理解できない」
と放言する根源は、此処にあるのである。そして、つい、こう続けたくなってしまうのだ、
「所詮は『暗黒の中世』ではないか」
と。

無論のこと、西洋中世をして「暗黒の中世」とするような見方は現在、克服されたというのが一般的な理解であろう。しかし、意地悪く状況を見てみれば、それは所詮、伝統的な「西洋=キリスト教世界」内での見方の変換に過ぎないのであって、上記私の疑問、すなわち
「中世史を見る時に、イスラームに軸足をおいて思考してみたら、『暗黒の中世』は未だに克服なんてまったく成されていないんじゃないの?」
という問いに対する、満足のいく回答に出逢った記憶がない。それどころか、よりいっそう自信を持って、「ヨーロッパ=キリスト教世界」の枠の中に安住して、個別テーマに集中しているように見える。

そんな私の疑問を、最近、露骨な形で、二人の東洋史学者が提起してくれた。講談社の『興亡の世界史』シリーズ第20巻『人類はどこへ行くのか』である。まずは第一章、杉山正明氏の「世界史はこれから」からの引用。

「いまや、イスラーム学・イスラーム史の研究は大展開をとげた。(中略)実際にはやや意外なほどに西洋史との交流や相互乗り入れ、あるいはタイアップした研究・企画・総合化の動きは、今のところあまり多くは見られない」(同書50頁)

これが、現状である。特に西洋史の側に、イスラームに対する知識の欠如が著しい、・・・とは前のミクシィ日記でも書いたとおり。
続いて、森本公誠氏の手になる第四章、「『宗教』は人類に何をもたらしたか」より。

「暗黒の時代とされる中世ヨーロッパ。これについては暗黒でもないとの説もあるが、キリスト教が与えた影響は計り知れず、むなしい擁護論に聞こえる。」(192頁)

森本公誠氏の仕事にどんなものがあるか知りたい人は、岩波文庫の品揃えが良いところに行って下さい。『歴史序説』の邦語訳者で、イスラーム史の大家であると同時に、東大寺の長老であるという凄い人である。 その人に、正面からスパーンと切り捨てていただいて、実にスッキリした。そう、イスラームに軸足を据えて西洋中世史を眺めてみたら、「暗黒の中世ヨーロッパ」としか見えない、はずなのである。
だから、敢えて申し上げたいのだ、
「暗黒の西洋中世、というテーマは、外側から見た時、まったく克服されていない」
と。

ちなみに、私はイスラーム史の知識を持っている人か否かを測る時に
「オスマン帝国を『トルコ』と呼ぶかどうか」
という物差しを用いている。これで「トルコ」といった瞬間に、その人はイスラーム史の知識が基本的に欠けている人、と判断することとなる。 何故、オスマン帝国を「トルコ」と呼んだら駄目なのか、という点に関しては、やはり『興亡の世界史』シリーズの『オスマン帝国 500年の平和』が説得的に整理してくれているので詳述する必要性を感じないが、あれを「トルコ」と言ったら、当時のオリエントの大国は全部「トルコ」と言わないといけなくなるのである。
具体的にやってみましょうか。
「マムルーク・『トルコ』、サファヴィー・『トルコ』、ティムール・『トルコ』、ムガル・『トルコ』、・・・」
おかしいでしょう。これが西洋史の研究会に行くと、みな堂々と、オスマン帝国を「トルコ」と言っちゃうのです。これは、実は凄く恥ずかしいハズなのだが、気付かないとは恐ろしいことです。



この文章、本当は本ブログに掲載するはずでしたが、栗本薫氏の訃報が入ったので、ブログではそちらを取り上げることにしまして、こちらに回すことにしました。

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