中華三行

@ イントロダクション
A そして私は旅へ帰る・・・上海へ
B 厳寒の北京へ
C 絲綢之道の東端・西安へ
D 味も素っ気もなかった鄭州・邯鄲
E そして再び旅から帰る

@イントロダクション

3回目となる中国行きを決めたのは、2003年の10月の事だった。2年半もの間、海外に行く事が無かった為に、心には埃と澱が積もり積もっていた。そんな私の心を見透かすかのように、
「孫子、日本で腐っているね」
と、海外で出会った旅の朋友たちから届くメッセージは増えるばかり。確かに、
「国境があったら越えたくなるのが人情ってものだ」
と公言している人間が2年半も日本で逼塞しているというのは、あまりにも無理がありすぎた。
そんな折も折、友人F女史が中国の上海に留学する事が決まった。加えて、2003年9月から、中国ヴィザが、2週間以内の滞在であれば不要となった。丁度良い。F女史の様子を見に行くという口実で、後期の講義が終わったら中国に行ってしまえ(この口実を信じてくれた人は、一人として存在しなかったが)。折り良く、中国行きの航空券の値段がぐいぐい下がっていく。私が2004年の年明けとほぼ同時に京都・三条河原町のH.I.Sで航空券を買った時、上海までの一番安いチケットは27500円であった。旅行期間は二週間と決めた。
もっとも、その時になって、「イスタンブールに行こうかな」と心が揺れてしまった。イスタンブール行きの航空券が、59,800円だったのである。
旅行の予定は、当初から狂いまくりだった。まず、上海行きのフライトは関空12:10発・上海浦東空港着が13:45の筈だった。しかしフライトの予約から1週間後、チケットの代金を払いにいった私に担当者が申し訳なさそうに、かつ困惑した様子で
「フライトが1時間ほど遅れる事になりました」
と告げた。私も困惑を禁じえなかったが、まあこうなれば仕方が無い。後はどうにかなるさと思い、チケットを購入したのである。

Aそして私は旅へ帰る・・・上海へ

2月6日、私は5時に起きた。地下鉄で京都駅まで行き、そこから空港行きリムジンバスに乗って、関西空港に到着。H.I.S.のカウンターで航空券を入手して、それからダラダラとフライトを待つ。その間に溜まった日記を片付け、ボーディングチェックを受ける。ここで第一の計算ミスが生じた。私は一切合財の荷物をバックパックに詰めて機内持込にするつもりだったのだが、チェックインカウンターの係員が、
「ナイフとかを持っていたら機内持込は不可」
と言ってきたのだ。これには困った。前は通過できたのだが…私は今回の旅行で、ヴィクトリノックスのアーミーナイフを持って来ていた。荷物はトランクルーム預けにするしかなかった。
第二の計算ミスは、フライト時間が遅れた事。離陸時、関西空港は吹雪いていた。私が雨男である事は、かつてパキスタンの砂漠で雨を降らせた実績からも証明される事であるが、まさかフライトの日に雪とは…さすがに愕然とした。この遅れは、到着時間にも影響せざるを得ない。たびたびの気流に飛行機はゆれ、上海・浦東空港へのランディングは当初予定よりも30分遅れ、15時40分であった。着陸前に下の光景を見ると、浦東新区は、ど田舎であった。なるほど空港を作る気になるわけである。
大急ぎで入国チェックを済ませ、荷物が出てくるのを待ってゲートを出たのが16時丁度。ゲート正面にある鐘山書店で待っていてくれたF女史は、
「遅い!」
と無慈悲に一言。それは私の台詞だ。で、安心した挙句に、空港での両替を度忘れするというミスをやらかし、この後、ホテルにチェックインするまでの金はすべて友人に頼るという、信じがたい事態に陥った。
新しいビルが立ち並ぶ浦東新区をタクシーで走りながら、私は興奮で咳きこむ事、数度。その興奮は、外灘の浦江飯店に着いた時に頂点に達した。
ところが、中国を旅した経験があるバックパッカーなら知らぬ者とていないこの安宿を、ここまで同行してくれた友人は知らなかった。
−これが留学生とビンボー旅行者の違いというものか。
半ば困惑に近い思いが強められたのは、彼女に連れられるままに行ったリッツ・カールトンホテルでの上海雑技団のステージを共に見た3人の日本人留学生達と会話した時である。その場にいた4人の留学生は、みな
「55元は安いな」
と口を揃えたのである。確かにこの値段は、上海のホテル中では格段に安い。しかし、私が驚いたのは、私が世界で最も愛している伝説的安宿を、全く知らぬと言いたげな彼らの口ぶりであった。この感覚の違いは一体・・・カルチャーショックといってもよいと思うが、まさか生国を同じくする日本人からカルチャーショックを受けるとは思わなかった。
上海の五つ星ホテルで観た雑技団のステージは確かに素晴らしいものであり(舞台美術と音響効果は要修行だが)、その後に程近い飲茶の店で食べた料理は美味かった。しかし、私は
「五つ星ホテルの食堂に行ったら席を蹴って立ちたくなる」
と公言するほどに、「お高い」所とは相性が合わない人間である。妙に腰が落ち着かなかった。
翌日、宿で知り合ったH氏に案内されるままに、私は宿近くの庶民街を歩き回り、文廟(孔子を祀った廟)周辺に並ぶ日本のアニメグッズを扱う店を巡った。まさか孔子の廟の周囲がオタク街になっているとは・・・大笑いする一方、この猥雑さこそ上海であるという思いを私は強くしたのである。

B厳寒の北京へ

中国2日目の夜、私は北京行きの列車に乗った。本当は西安行きの切符が欲しかったのだが、
「西安行きは無いが、北京行きなら寝台がある」
と、外国人切符売り場(龍門賓館にある)で言われ、行き先をあっさり変更したのである。値段が380元(硬臥)もしたのが意外だったが、乗ってみると、全車両寝台車の臨時列車だった。高い筈である。候車室も、フカフカの席が並ぶ軟席候車室であった。何よりも、乗ってみたら列車員が美人だった。これは後で他人に指摘されて気づいたのだが、中国は、列車でもホテルでも値段が高いと女性服務員は美人なのである。
翌朝、起きて外の景色を見ると、河が凍っていた。9時半、北京駅に着く。寒い。駅からバスを乗り継ぎ、定宿にしている京華飯店へ。今やこのホテルもユースホステルになっているが、対応も値段も相変わらず。しかし、泊まる部屋が、4年前の別館ではなく本館の2階だった。この別館には外国人旅行者の溜まり場であるバーがあるのだが、夜に行ってみたらガランとしていた。1999年2月・2000年4月に投宿した時には夜遅くまで外国人が騒いでいたというのに、一体どうしたというのだ?バックパッカーの溜まり場・京華飯店の役割は終わったのだろうか?私がそう疑ったのは、北京市内に多くのユースホステルが出来ているという情報を仕入れていたからだった。しかし後に聞いた話では、12月末頃にはこのバーも人で一杯だったというから、私の予測は外れらしい。SARSや鳥インフルエンザのニュースに恐れをなした人々が北京を敬遠した、というのが真相らしい。
北京では、永楽帝の陵墓・長陵や司馬台長城を訪れる予定だった。しかし、どちらも行きにくいと解り、訪問を取りやめる。今回、北京で訪れた観光名所は、北海公園と円明園と芦溝橋くらいのものである。円明園も北海も内湖を持つ巨大な公園だが、寒さの為に湖水が凍りついていた。氷上では人民がソリで滑ったりして遊んでいた。円明園では、湖面に降り立ってみたが、氷が割れない。面白いので、そのまま湖を横断してしまった。円明園といえば洋風建築の残骸で有名である。1860年、アロー戦争の際にこの庭園で略奪と破壊の限りを尽くした英仏連合軍は阿呆だが、
「この庭園をさらに破壊したのは義和団事件の際に此処に本陣を置いた日本軍だ」
という展示をして違和感を感じない人民政府はもっと阿呆だ。それにしても折角の美しい建築群、壊さずに残しておいて欲しかったものだ。
北京最後の日には芦溝橋を訪れた。マルコ・ポーロがその美しさを絶賛したというが、川が干上がっていて、乾いた河底に転々と残るモーターボートが哀愁を漂わせていた。橋の近くにある首都防衛の前線基地・宛平県城には抗日戦争関係の博物館があったが、無感動に通り過ぎてしまった。県城の綺麗なままの市壁のほうが、私には余程、興味をそそられる物だった。
有名観光地をハシゴする代わりに、市内をひたすら歩くことにした。北京に古くからある、「胡同」と呼ばれる庶民の家々が着々と取り壊されているという情報があったからだ。2008年の北京オリンピックに向けての布石らしいが、無駄な事をやるもんだ。そのまま残しておいてくれた方が、旅行者には嬉しいというのに・・・故宮の北にある鐘楼・鼓楼の周囲には、黒煉瓦の平屋の壁から色濃く庶民の生活臭が漂う胡同が,未だしぶとく残っている。そこでは細い街路が入り組み、まるで迷路のようである。
このように街を歩く事に専念しながら、気付く事があった。それは、女性が4年前より綺麗になっているという事である。4年前の中国人女性に対する私の評価は辛辣を極めた。曰く、
「姿美人は多いが顔はガタガタの女性ばかり。日本人女性のほうがはるかに綺麗な女性が多い」
と言っていたものである。この発言は、完全に時代遅れのものとなっていた。即ち、人に見られるという事を意識するようになったのであろう。

C絲綢之道の東端・西安へ

北京には二泊三日して、西安へと発つ。ここまでは夜行列車の硬座で15時間の旅となる。つまり15時間座りっぱなし。もっとも、私が4年前に同じルートを通った時(西安発北京行き)には21時間かかったから、中国の列車も速くなったものだと感心してしまう。
2月10日、私は荷物をまとめると宿を出て北京西駅に向かった。しかし、これは大失敗だった。西駅まで1時間ほどかかり、しかも駅の行李寄存処(荷物預け所)は、なんと荷預け代16元を請求して来たのだ。他の駅の預かり賃は平均4元ほどだから、これは法外に高い。
「ぼったくってんじゃねえよ!」
思わず絶叫しそうになったが、仕方が無い。泣き寝入りするしかなかった。しかもこの駅から芦溝橋へのアクセスがやたらに悪く、北京最終日は思うように街を見て回ることが出来なくて憮然とした。
そんな事もあったが、西安行きの列車には無事に乗る事が出来た。座る座席をいきなり間違えていたけどね…硬座では、質問攻めに遭うことを覚悟していた。しかし、意外なことに私に話し掛けてきた者は誰も居なかった。これまでの中国旅行では人民たちと筆談に汗を流したり一緒にヒマワリの種をかじったりして来た私としては、違和感を禁じ得ない。おかしいな…と思いながら周囲を見渡して、ひとつ合点が行った。携帯電話でのメールチェックなどに勤しんでいるのだ。ヒマワリの種、トランプ等に匹敵する暇つぶしの道具の登場である。携帯電話は中国ではすごい勢いで普及している。実に中国人民の7割が携帯電話を持っているらしいが、そこは礼儀を無視する人民である。列車の中は勿論の事、博物館だろうが何処だろうがお構いなしで電話を取る。
西安駅に着いたのは7時半頃か。この時間でも、西安駅は暗かった。標準時が北京時間である事の無理を、内陸に入れば入るほどに実感する。西安もまた3度目になる。初回訪問時には5泊6日(最初の旅行が22日間だったから、3分の1弱、西安に居た事になる)、次の訪問時は3泊4日だったのだが、今回も3泊する事になってしまった。ついでながら、ここは来る度に泊まる宿が違う。今回投宿したのは、市壁の南端にある明徳門(南門)のすぐ近くにある書院青年旅社という所。現在中国では雨後の筍の如くに増加しつつある、ユースホステルのひとつである。居心地が良かったが、良すぎて気持ちが悪かった。従業員がフレンドリーすぎるし、彼らの英語が実に巧い・・・女性従業員の一人などは西安外国語大学で日本語を勉強中で、夜などは、その勉強につき合わされる事もあった。彼女の使用する教科書を見て、私とその時雑談していた日本人Y沢さんは絶句。例文の日本語が悪すぎる・・・件の女性従業員は英語が相当に巧いので、英語で意味を伝えようとするが、それでも四苦八苦という事がしばしばであった。
着いて初日、私は宿のレンタサイクルを利用して市の西北郊外にある、漢長安城遺祉に行く。5年前にも行ったが、そのときは城壁の一部しか見られなかったからな。しかし、道に迷う。昔泊まった人民大廈公寓の前を通る大興西路を西進し、基点となる西馬庁のあたりで道を聞きまくり、北進して何とか到達する。城壁付近には「漢長安城」の碑が立っており、さらに北進すると宮殿(未央宮)跡に達する。しかし、未央宮は、ただの小高い丘であり、随所に版築(土を突き固めながら徐々に高さを増していく、壁を作る際に用いる工法)の残骸が残るのみ。地元の住人がピクニックをしていた。ついでに唐長安城の大明宮跡に足を伸ばしてみた。巨大な工事現場となっており、かつての含元殿の土台の上にレンガの台を作って、再建工事をやっているのだ。
「見学に来た」
といったら見せてくれたけれども、出来れば残骸のままで放置しておいて欲しかった・・・ついでに、帰ってくる頃には尻が猛烈に痛くなっていた。痔もちには過酷なサイクリングとなった。翌日に行った阿房宮跡も胡散臭いぐらいに綺麗に再建されていて、興ざめだった。
3日目、早朝8時半、西安駅前へ。東西ある郊外ツアーのうち西線ツアーを利用するためである。ところで東西ある郊外ツアーでは、東線ツアーのほうが圧倒的に人気が高い。理由は単純明快、東方面には始皇帝陵があるからである。別にツアーを利用する必要も無い。駅前から始皇帝陵行きの市バスが出ており、こちらの方が行動の自由が利くので良いと思う。しかし一方、西行きについては見所は散在しているしバスも無いので、ツアーを利用するしかない。しかもこちらはまるで人気が無く、前日に申し込んでおかないと利用する事すら出来ない。その理由も、行くに従って明らかになった。咸陽市へ行く途中で渡る渭水や、則天武后とその夫・高宗皇帝の陵墓として壮大な規模を誇る乾陵、壁画の美しさが絶品の懿徳太子墓、漢武帝の茂陵など、玄人好みの所ばかり回るのである。お釈迦様の舎利が出土した事で有名な法門寺は未だ門前に集落があったから良いとして、他は全て、回りに何も無い所ばかり。咸陽市博物館は市内に在ったが、これは良い物を全て西安の陝西省歴史博物館に持って行かれており、しょぼいものである。懿徳太子墓では、観光客による破壊の爪痕が酷かった。急な坂になっている回廊を下りて玄室にたどり着くと、巨大な石棺はガラスで守られているものの、美しい壁画が残る壁の保護は何も為されておらず、落書きだらけで憤激した。回廊の壁画が(こちらも何の保護も為されていないのだが)美しいまま残っているのが、せめてもの慰めである。急激な坂である事が幸いしたのだろう。
市内で見て回ったのは、市壁の西門外にある絲路群彫と、南門外にある大雁塔、さらには市街地を取り囲む市壁。絲路群彫は、往古の唐代にシルクロードの基点となった(とされる)開遠門があった所に造られた、ただのコンクリートのハリボテである。しかし、そこを訪れた私は思わず落涙しそうになった。いい感じである。一方の大雁塔周辺は、5年前に進められていた整備工事が終了したらしく、きれいに整ったデートコースと化していた。中国は莫迦なカップルが多い。日本の莫迦なカップルが可愛く見える位にベタベタしていて、あまり羨ましく思えない。それにしてもカップルが多すぎだと思っていたら、どうやらバレンタインデーが中国にもあるらしい。
情人節
と呼ぶのだが、中国では好きな人に薔薇を渡すのがバレンタインデーの慣わしの様である。
そして市壁。私が上ったのは南門付近の城壁。近年に整備されたらしいが、足元に目を落として黒い煉瓦を凝視すると、「戸県大王公司 1983」などとプレスされている。南側城壁の良さは、周囲にまだまだ古い家が残っていてくれる事である。市街地中心部は近代的ビルが美観も考えずにどんどん建てられていて
俺の長安のイメージを返せ
と泣き叫ぶ人も少なくないのだが、この辺りはいい感じである。何しろ城壁も高いしね。確か12メートルくらいの高さがあったかな・・・怖かった。

D味も素っ気もなかった鄭州・邯鄲

2月15日早朝5時、武漢行き4708次の硬臥下臥で惰眠を貪っていた私は、女性列車員に叩き起こされる。程なく列車は鄭州駅に着き、私は降りる。回りは真っ暗だが、取り敢えず宿を探さねばならない。しかし、泊まろうと考えていたホテルは、地図に乗っている場所に無くて呆然とする。仕方なく駅周辺で探すが、こちらは一番安い20〜30元の部屋を提供せず、
「一番安い部屋は70元だ」
と言ってくる。そんな問答に疲れ果てた私は、こんな街は出てしまって開封か商丘に行ってしまおうかと思った。後で考えると、そっちの方が良かったのだが・・・それでも、駅から離れた白鴿賓館に50元の部屋を取る事が出来たのでそちらに投宿する。もっともこの部屋に泊まるとシャワーが使えなくて閉口した。ホテルの服務員の接客態度はキチンとしているんだけどね。
鄭州は商(殷)の時代の遺跡がある事で有名である。それ以外には何も無い。交通の要衝であるだけである。だから、ガイドブックにも適当な事しか書いていない。何の面白みも無い、平凡な巨大都市に過ぎないから当然だ。そんな街に泊まったのは、この街から北に260kmの地点にある邯鄲に行きたかったからだ。
それで、鄭州到着の翌日には邯鄲に足を伸ばしてみる。黄河を渡って特快で2時間半、邯鄲駅に着く。駅前には
「胡服騎射」
で高名な、戦国時代・趙の武霊王の像が鎮座している。そして地図を広げてみれば、市の南郊外に趙代の遺跡・趙王城がある。足を伸ばしていれば、城壁の跡と思しき、長い土手に囲まれた農地の中に小高い丘がちらほらあるだけ。諸行無常を感じるには良いが、何しろ回りは農地である。市街地に戻ってみても、何の変哲も無い単なる田舎町である。煤炭の街でもある為に煤だらけになった服が妙に気になる。駅前まで戻って、さてどうしようと思ってバス亭を見て回りながら痰を吐いたら、駅員に肩を叩かれる。
「駅前では痰を吐いてはいけないんだぞ。罰金10元払え」
私は目を白黒させた。これまで、痰を何処で吐いても文句をいわれた事など無いから当然である。怒り出しそうになってふと周囲を見ると、私の様に痰を吐いて罰金を請求されている人民が結構いる。仕方なく罰金を払ってその証紙は破り捨てようと思ったが、思いとどまった。怪体だが面白い土産だと思い直したのである。結局それ以上は見るものも無く、鄭州に戻るにはミニバスを使ったのだが、これが5時間もかかった。鄭州の宿に戻った頃には、足腰が立たない状態だった。
結局鄭州には2泊3日したが、良かったものは河南省博物院だけである。中華の歴史の揺りかごといってよい、河南省の文物の良い物をごっそり展示しているのである。そりゃあ見応えありましたね。しかし、結局それ以外には見所も面白いものも無い、という哀しい結論を出し、ガックリしながら私は上海行きの列車に乗ったのである。なんだか徒労だったような気がする・・・

Eそして再び旅から帰る

私は上海までの列車の切符を買う時、一つの勘違いをしていた。5年前に開封→上海のルートで列車に乗った時には硬臥の切符が買えた(その時乗ったのは鄭州発の列車だった)から、今回も買えると考えていたのである。しかし、実際に手にしたのは硬座の切符だった。理由を考えてみて合点が行った。5年前は、元少節の当日に列車に乗ったから、空きが出ていたのは、当たり前の事だったのだ。
通路まで人で溢れる車内に入ると、席から一歩も動く事が出来ない。暫くすると、人民たちは自席に座ったままで煙草を吸い、ヒマワリの種を撒き散らし始めた。それを見て、私は妙に安心した。今までは、連結部で煙草を吸っていたのだが、それが妙に落ち着かなかったのだ。前は硬臥だろうが硬座だろうが、通路が通り易かろうが通りにくかろうがお構いなしに、席に座したままで煙草を吸っていたから当然だ。それでこそ人民だぜ。
自分勝手な想念に耽っていたら、隣に座った女性が英語で話し掛けてきた。私の国籍を聞いてきたのである。日本人だと答えると、
「イラク人かと思っちゃった」
私は苦笑せざるを得ない。思えば、西安でも清真食堂(ムスリム食堂)のオヤジに「あんたの髭は素晴らしい」と賛辞を受けたっけ。それにしても、イラク人かと聞かれた事は初めてである。
翌朝、1時間ほど遅れて列車は上海駅に到着した。ここから浦江への道は何度も歩いてたから、迷う事など有り得ない。しかし今回は、市バスではなく地下鉄に乗って浦江へ向かった。殺人的な上海の渋滞を避けたのである。浦江までは直通の地下鉄があるわけではなく、南京東路駅で下車し、地上を歩かねばならない。地上に出た所で私が見たものは、味千ラーメンであった。嗚呼。
小雨が降る中を歩いて浦江にたどり着いてチェックインして、部屋へ向かう。6基のベッドが並んだ425号室には、K山さんという先客がいた。私はシャワーを浴びた後、この人と外に飯を食いに行った。さすがに5日ほどシャワーを浴びていないと、身体が気持ち悪かったのだ。外で飯を食い、ぶらぶら歩き、その日は終わる。
事実上の中国旅行最終日となった翌・2月19日、私は華東師範大学に向かった。友人F女史の寮に遊びに行ったのである。道に迷う事しばし、私は巨大な華東師範の門前に着いた。飾り気のまるで無い、白いコンクリートの巨大な門から大学の構内を見た時、私は尻込みをしていた。外の猥雑さからかけ離れて整然とした世界が広がっていたからである。暫くして出て来たF女史の御伴をして、私は門の脇にある巨大スーパーに足を踏み入れた。よく見れば商品は外のコンビニで買うよりも安いのだが、カートまである。余りにも整然としたスーパーに拒絶反応でもしたらしく、私は入ってから出るまで笑いっ放し。隣ではF女史が気味悪そうに見ている。さらに大学の構内に入って歩いていると、府大史学科の大先輩であるY崎氏に会う。
「まさかこんな所で君に遭うとは…」
私は破願する。じっくり話をする事が出来なかったのが残念だ。
F女史の寮の部屋に上がりこみ、あれこれと雑談をしながら、私は妙に落ち着かなかった。女性と二人でいるのに浮き浮きした感情を催さなかったのは、この居心地の悪さのためであろうか。付き合いの長さの所為だけでは無さそうである。どうやら、大学が綺麗過ぎる事が居心地の悪さに繋がったらしい。2000年に訪れた西安外国語大学では綺麗過ぎず汚過ぎずという快さがあったのだが、華東師範は只管に美しすぎる。外の猥雑さとのギャップが、私の神経を逆撫でし続けている。では、今眼の前にいる友人はどうか。私の感じている違和感を感じていないように見える。何故か。
そこまで考えて、彼女と私の違いは何か、思い当たった。
私は海外に出ると行動様式が激変する。中国などでは特にそうだ。つまり、行儀が悪くなる。人を見る眼も疑い深くなる。よく、
「柴田から孫子になるんだよ」
などと笑うのだが、そういった変化が彼女には無い。彼女が変わらずに済んでいる要因は一体何か・・・それは、大学の外に出ていないという事に尽きるだろう。
ひとたび荷物を担いで列車の、それも硬座に乗って一般人民と接触していると、通常の日本人はおかしくなる。私もおかしくなって今に至る。しかし中国でも、生活が裕福な人たちは硬座に乗って旅行する事を忌み嫌う。だから、一般人民に接する事など少ないだろう。その裕福な人たちの子弟が集まっているのが大学であり、大学生たちは、いわばエリート予備軍なのだ。市街地で日銭を稼ぐ事にあくせくする一般人民とは、文字通り「階級」が違う。まして、中国最先端の地・上海の学生たちは選良中の選良である。そんなエリート予備軍たちに囲まれていれば、いきおい思考も言動も支配階級のものに染まっていってしまう。それでは面白くない。
私も、この美しい華東師範に一週間も居たら、いや、もしかすると3日もしないうちに、人民政府のエリートたちの思考に染まるのではなかろうか。そんなのは嫌だ。私の腰が浮きっぱなしだったのは、そんな恐怖感に震えおののいていた所為だろう。彼女は、私の危惧(・・・いや、お節介であろう)を吹き飛ばしてくれるだろうか・・・帰国後に、私は率直な感慨を彼女に伝えた。Eメールではなく、あえて肉筆の書簡という形を取って。
さまざまな思いを胸に、翌朝、私は上海を後にした。浦江の隣の上海大廈から早朝6時に出る空港行きリムジンバスに乗る為に、徹夜した。
―もう10年は、この国に来て、この宿に泊まる事は無いだろう―
最愛の宿を離れる時、私は感傷に浸っていた。浦東空港では、なんと5時間近く待たされた。天候不順で、9時15分フライトのはずが、なんと上海空港を離れたのは14時。駆け回るフライトアテンダントが可哀相になってしまった。
帰国後、私は呑み会の幹事の仕事で奔走させられる事になるのである。

−完−

戻る

inserted by FC2 system