シルクロードを旅する


大阪南港から上海に向かう定期便・蘇州号に乗ったのは、2000年3月24日。卒業式の、実に翌日である。卒回生(私の一つ上の学年)を送り出す事に固執したため、出発がここまでズレ込んだのだ。その為、3月中は、史学科の先生に「まだ居たの?」と言われる始末。
 
上海を皮切りに、中国での滞在は一ヵ月半に及んだ。シルクロード方面を重視したため、念願のチベット訪問は、次回以降に持ち越しとなった。まあ代わりに敦煌に行ったからいいか。そして、中国最西端の大都市カシュガルから、カラコルム・ハイウェイを通って、パキスタンへ。所々崖崩れしていてすさまじい悪路だったが、景色は素晴らしかった。

パキスタン北部、通称「風の谷」フンザからパキスタン首都イスラマバードに降りてきた私は、下痢に倒れた。十日ほど唸っていると回復したので、インドに向けて出発した。しかし、国境の街ラホールで、下痢は再発した。印巴国境のワガでは、国境を通過するために、なんと1kmほども歩かされるのだ。弱り切った私の体にとって、この国境は、性質の悪すぎる冗談のようだった。

必死でたどり着いたインドの首都デリーは、連日雨のおかげで涼しかった。しかし私は、更に涼しい、ネパールの首都カトマンドゥを目指す。6月のカトマンドゥは既に雨季に入っていて、長袖が必要なほどに涼しかった。私は首都カトマンドゥで日本食を食いながら静養を続け、更にポカラという街に移って、ようやく復活。全快するのに1ヵ月かかり、鬼のように暑いインドに再突入したのは、7月になってからだった。

インドに帰った私は、旅行者の溜まり場であるデリーのメインバザールの某ホテルで、イランビザの取得状況が改善されたという情報を聞きつけた。それまで、インド方面からイランを目指す旅行者は、インドで取るトランジットビザしか取れず、最長でも2週間弱しかイランに滞在できなかったのだが、パキスタンでイランのツーリストビザが取れるようになったという情報だ。私は大慌てでパキスタンに戻った。

パキスタン再入国の翌日にイランビザ申請をラホールで行った私は、ビザ待ちの間に、またパキスタンを回った。1ヵ月半前にはストライキで全て閉まっていた商店街も、今度はシャッターを開けており、私はペシャワール郊外のアフガン人マーケットに行ったりしていた。ビザの下りた翌々日、私はクソ暑いラホールから、イラン国境にいちばん近い大都市である、バローチスタン州の州都クェッタに向かう。イランに向かう夜行バスに乗ったのは、8月6日。

イランは、旅行者には評判が悪い。何故かと言うと、行く先々で、物珍しそうに近寄ってくるイラン人たちの好奇の目に始終付き合う羽目になるからだ。私も3週間イランに居たが、なんだか自分が見世物になっているような錯覚を覚えた。でも、幸い、それほどしんどいとは思わなかった。

イランのタブリーズから、トルコのイスタンブールまでは、直行バスで一気に駆け抜ける(実際には、首都テヘランからのバスに途中乗車)。ここで「アジア横断終了宣言」を日本に向けて送信したのは、8月31日のこと。折り返し地点に着いた私は、この後トルコ東部へのルートをとる。南下してシリアに入り、ユーフラテス川と砂漠と、パルミラをはじめとする多くの遺跡とを存分に見て回り、ヨルダンへ。インディ・ジョーンズ『最後の聖杯』の舞台・ペトラ(集団で行くと、あのメロディを口ずさむ奴が、必ず一人は居るらしい)のあと、紅海を渡ってエジプトに入る。

エジプトに入ると、とたんにスピードがガクンと落ちた。日本人の溜まり場サファリホテルで愚図愚図しているうちに時は過ぎ、私はイスラエル国境へ向かう。しかし、なんと私はイスラエルへの入国拒否を喰らったのだ。丁度イスラエル国内で暴動が起こった時期だし、入国を止められるのも無理は無い・・・というのは、何も知らない幸せな人の言葉だ。結局、理由は解らない。ただし、私が綿密なボディチェックを受けている横では白人旅行者が素通りしていた、ということだけ申し上げておこう。かくしてエジプトに戻った私は、ルクソールの王家の谷を見学して、カイロからイスタンブールに飛んだ。

イスタンブールからギリシャに入った私は、ブルガリアに入国しようとして、なんとまた入国拒否を喰らった。例によって理由は解らないが、国境のポリスがワイロを要求しているのに気が付かなかったのではないか・・・と考えている。それにしても、この時の私は、涙が出ないのが不思議なほどに落ち込んでいた。ちょうど、取調べを受けているギリシャ側国境ポストでは、アメリカ大統領選の開票状況を生中継していた。それを力なく見やりながら、日本から中国に帰ろう、と真剣に考えていた。しかし、ギリシャのアテネに戻って気を取り直した私は、海路イタリアへの道をとる。そして、念願のローマ訪問を果たし、シルクロード横断を完成させた。修理中のピサの斜塔を前にしてピザを食うという、阿呆な事もやってみた。

ヴェネツィアからハンガリーのブダペストに行き、その地で、残り1ヵ月となった旅の最終調整をする。そして、ユーゴスラヴィアのベオグラード、ボスニアのサラエボという『バルカンの火薬庫』を歴訪した後、ヨーロッパ諸国を周遊。ほとんど1国1都市の日程で回る。気が付けば、パリは通過しただけ、セーヌ川しか見ていなかったりする。冬のヨーロッパは、ほとんど毎日、ドンヨリと曇っていて、雨もよく降った。晴れていたのは、スペインくらいなものだ。意外に、雪が少なかった。ポーランドのアウシュヴィッツでは、職員が
「雪の無いクリスマスを迎えるのは、アウシュヴィッツに来てから初めてだ」
と語っていたものだ。しかし、都市部を離れた田舎では、雪が積もっている所も多い。どの国も、来るべき新年、新世紀に向けての準備に追われていて、ベルリンのブランデンブルク門など、修理中である。心底ガックリきた。そして、ブダペストに戻って新年を迎える。花火がドナウに映えて、すごくきれいだった。
そして、ブダペストから関西国際空港に到着したのは、2001年1月6日。京都府立大学に無事、戻ってきた私を迎えてくれたのは、9ヵ月半の旅行の間に変わり果てた私の姿を見て大爆笑する旧友たちと、初めて見る怪体なOBの姿に呆然とする、下鴨劇場(私の所属していた学生劇団)の、1回生たちだった。


今回の旅行は長かったが、アジア諸国でも首都クラスの大都市にはインターネットカフェがあり、日本とは定期的に連絡をとれたため、私の状況は逐一、日本に伝わっていた、ということである。また、こちらも、インターネットで日本の新聞を読んだりして、政治状況だけは把握するように努めていた。しかし、流行だけはどうしようもない。帰国してみると、聞いたことも無いようなグループがテレビに出ている。聴いた覚えのあるヒット曲はサザンオールスターズのTSUNAMIで最後、というのが帰国直後の私の状態であった。また、新五百円玉と弐千円札は、帰国後にやっと本物を見ることが出来た。


最後に、感想を一言。
 ―もう少し平和になった世界で、今一度、旅をし、眠りたい。
   平和に勝る宝は、この世には存在しない。


とまあ、帰国直後(2001年2月)に、顔見知りの京都府立大学生課の職員に頼まれて、『後援会だより』掲載用に、こんな文章を書いてみました。
この文章、一体何人の人間が読んだんだろう・・・友人連中には「読んだよ」という人が結構多かったりするんですが。

・・・今思い出してみると、私は「爆笑する」旧友たちばかり見て大喜びしていたのですが、サークルの1回生諸君には、かなり衝撃だったようです。私も、当時の自分の写真(いちばんイメージが伝わるのは、「暴走また暴走」ですな)を見ると、余りのいかがわしさに、大笑いしてしまいます。面識が全く無い後輩に「一発でわかりました」と言われたときは、頭を抱えてしまいましたが。
なお、『後援会だより』に掲載されたものに、若干の加筆・修正を行っております。

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