旅先で心に残った一言特集
・・・まあ、読んで字の如くですな。
不定期更新です。心の赴くまま、思い出すままに書きます。

「このポスターを母国に持って帰れば、私は殺されてしまうのさ」
北京の宿で同室したチリ人紳士は、毛沢東・周恩来・劉少奇・朱徳の中華人民共和国革命四大元勲が談笑しているポスターを私に見せながら、そう語った。

「おれは中国は好きだが、中国人は嫌いだ」
―嘉峪関から敦煌まで同道した6歳上の男性、渡辺さんは、私にこう語った。



「お前さんは南京に行ったかい?昔、日本軍はここでひどい事をやらかしたんだ」
―トルファン駅で列車待ちをしている時、私に筆談を求めてきた漢族男性は、こう語った。

そして、
「南京大虐殺など出鱈目であろう」
―そう語るバックパッカーの、何と多い事か。日本にいる下手な歴史学者よりも、中国についての知識は広く深い筈の彼らは、平然としてこう語るのである。私は、今でも彼らの主張に対して、有効に抗弁する事が出来ずにいる。


「中国にとって台湾は、日本にとっての北方四島問題と同じ事である」
―西安から北京に向かう列車の中、へろへろな私に政治論議を吹っかけてきた漢族男性は、こう語った。
いや、全然違うし、しかも私の中では北方四島は、既に日本領ではないのだが。
しかし、この問いは、2000年の中国では、何処に行っても聞かれた質問だった。


「今でも、インドとの戦争が起これば、ワシは喜んでパキスタン軍に参加するだろう」
―パキスタン北部の『風の谷』フンザでの私の宿の主ハイダー爺は、私に対して熱意を込めて語った。


「おれかい?チベット人さ」
―早朝の印尼国境バンバサで、ジープに同乗した男は私にそう言った。
下痢で弱り切った私には、彼は颯爽として見えた。 


「あんたは日本の何処の出身だい?東京か大阪か広島か?」
−二度目のラホールで、私は水道管工事の土方のおっちゃんと雑談している時、こう聞かれた。最後の『広島』が、妙に心にひっかかかった。


「実年齢が、外見年齢にだんだんと近づいていくね」
−22歳の誕生日が過ぎて程無く、日本の友人からこんなお祝いメールをもらった。
実際には外見年齢が加速度的に上昇している時期だったが、私の誕生日を覚えていて、しかも祝ってくれる友人がいることは素直に嬉しかった。


「あんたの住所を教えてくれないかな。日本で働きたいんだよ」
−ラホールのイラン領事館でビザの発給を待つ間に話し掛けて来た職員は、私にこう頼んで来た。この手の問答には既に慣れっこになっていたが、まさか領事館でされるとは思わず、私はしばし絶句した。


「今のオーストリアは、ナチが政権を取っているから」
−ナポリの宿で同室になった、オーストリアの女子学生は、私にこう言った。
その次のオーストリアの総選挙で、過激なナショナリズムを掲げていた、政権党・国民党は惨敗を喫したのである。


「中国の一部になったって、何かが変わるわけじゃないさ。香港は香港だぜ」
−フィレンツェのアルキ・ロッシィで同室になった堂々たる体格の香港人は、同じ部屋に泊まったアメリカ人の「中国への返還の前と後で、香港は何か変わったか?」という問いに対して、こう答えて返した。


「また、イスラエルに帰りたいなあ・・・生活の為にアメリカに住んでるけど、あんまり好きじゃないのよね」
−アルハンブラ宮殿を一緒に見て回ったイラン系ユダヤ人で、現在アメリカに住んでいる女性は、私にこう言った。
言うまでも無く、私は彼女の言葉には到底賛成出来るものでは無いが、この時ばかりは返す言葉が無かった。


「おれは歴史をやっている人たちが羨ましいよ。何しろ、もう起こってしまった、動かない事実を相手にしているんだからね」
―ウィーンからブダペストまで、列車で同道した男性、岡野さんは、私にこう語った。
−それは、違いますよ−
そう抗弁すべきだったかもしれない。しかし、北アイルランドで『紛争平和学』なる、聞くだけでも厄介で面倒臭そうな事を3年にわたって研究しているという彼に対しては、歴史学徒たる私のどのような言葉も有効性を持ち得まい、と思い、何も言えなかった。気圧されていた、というのが、正確なところだろう。

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