旧ユーゴ訪問

2000年11月29日、私はハンガリーのブダペスト東駅を2時57分に出る列車に乗った。行き先は、ユーゴスラヴィア連邦の首都ベオグラード。同行するのは、明大のS君と東大のY君である。この時点で、私が日本を出発してから既に8ヶ月が過ぎていた。

ユーゴとの国境に着いたのは、6時ごろ。まだ暗い。ポリスが、我々3人の乗るコンパートメントに廻ってきて、パスポートをチェックする。私は、ここに至るまで、実に2度の入国拒否を喰らっており、かなり緊張した。まして、この2ヶ月前にはユーゴ大統領選の巻き添えになって入国拒否された旅行者が続出したと聞いていたこともあり、なおさら気も張る。しかし、我々はスンナリと入国できた。やれやれ。

ユーゴの首都ベオグラードは、私が訪れたヨーロッパの都市の中で、いちばん面白くない街だ。コンクリートの無表情な建物ばかりが並ぶ。観光名所も、まるで無い。そんな中で異彩を放っていたのが、NATOの空爆の爪痕だ。駅周辺には、未だに無残な姿を晒す、爆撃を喰らったビルが、いくつもあった。
次の日、4人に増殖した一行は、ベオグラード・インターコンチネンタルホテル内の日本大使館に足を運ぶ。職員さんが気さくに応対してくれた。旧ユーゴスラヴィア四方山話を聞いていたら、あっという間に昼時。適当なところで辞して、「誤爆」を喰らった旧中国大使館を見に行ってみた。見事にボロボロ。

翌、12月1日、3人に戻った我々一行は、夜行バスでボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボに着いていた。ユーゴからのバスは2つの勢力によって分かたれているサラエボの、セルビア人共和国側に着くので、ボスニア連邦(FD)勢力化の旧市街地中心部までは、トローリーバスで移動しなくてはならない。霧のため、視界が悪い。ベオグラードもサラエボも、昼間まで視界が悪いが、これは霧のせいばかりではあるまい。空気が汚いのだ。
サラエボは、けっこう個性の強い街だ。イスラムの匂いがする。新しく整備された旧市街中心部にあるバザールでは、中東風の土産を商う店が多い。アジアの滞在が長かった私は、なんとなく懐かしさを覚えた。
だが、平和に見えても、先の見えない争いを続けてきたボスニアの首都なんだと思い知らされる事は多い。たとえば地面。所々、ペンキをぶちまけたシミのようなものがある。これは、内戦中に砲弾が落ちた痕という。市内を流れる川に沿ったスナイパー通り沿いの家は、弾痕だらけだ。極めつけは、郊外西のオスボロジェーネ新聞社だ。最前線に位置していたために蜂の巣にされたビルは、凄惨な姿になりながら、今もなお崩壊し尽くしてはいない。
そしてまた、繁華街でも、行き交う市民や観光客に混じって、肌の色の違う兵士たちが、組になってパトロールしている。ベオグラードの日本大使館職員氏に
「先の見通しが立っていない」
と評されているのも、無理の無い事であろう。この国では、将来の展望を語ることなど、未だに不可能なことなのだといえる。

サラエボを去ったのは、到着したその日の夜の事であった。

一時、世界中の注目を集めた2つの国を駆け足で見た、私、S君、Y君の3人は、12月2日、クロアチアのザグレブを経由してブダペストに戻り、パーティーを解散した。 

それから1ヵ月後、ヨーロッパ周遊を終え、外地で21世紀を迎えた私は、日本に無事帰国した。迎えてくれたのは、9ヵ月半の間に変わり果てた私の姿に爆笑する旧友たちと、初めて見る怪体なOBの姿に呆然とする下鴨劇場の1回生たちだった。

・・・とまあ、 帰国直後にモノした、2本の旅行系雑文の片割れが、この「旧ユーゴ訪問」です。
いずれ、「シルクロードの道端にて」のコーナーでも、詳細に書くことになるかと思いますが。
なお、関係写真は、写真集「イスタンブール」編でご覧ください。

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