「自己責任論」に関する雑記
2005年分 |
1月6日 昨日だったか一昨日だったか、テレビ朝日の報道ステーションで、バックパッカーについて色々と語っていた。こいつら長期個人旅行者について予備知識殆ど無しで作っているだろうな、と思いながら見ていた。少しはまっとうな事を言っているかな、と見ている時は時はチラッと思ったが、思い返してみると矢張り駄目である。予想通り、予備知識皆無、正確な現状認識皆無だった。録画して、駄目だししてやればよかったな・・・格好の批判の対象として興味深かったのだが。 タイのバンコクで長期滞在している沈没者について「最近の傾向」としている時点で、思い込みだけで番組を制作しているのがモロにバレバレだ。『深夜特急』や『旅で眠りたい』でも読みなさいっての。思い込みというのはつまり、 「海外を個人で長期旅行している人間なんて、どうせろくでなしだ」 という事。だからいい加減な編集や構成しか出来ない。 私であれば、真っ先に旅行人の蔵前編集長に話を聞きに行くだろう。それがベストだ。もう少し言えば、『旅行人』に噛んでいる人間を出さなかった時点で、終わっている。せめて、宇佐波雄策・元朝日新聞アジア総局長でも関わっていたら、違った編集になったんだろうが。 |
10月21日(私の旅のスタイルと魂は死ぬのか?) ネットを検索していたら面白い記事を見つけた。昨年10月にイラクに入って亡くなった香田氏に関して、高名なバックパッカーである下川祐治氏が追跡調査した『香田証生さんは何故殺されたか』について、知る人ぞ知る旅行作家である岡崎大五氏が、書評しているのである。 詳細はその記事にリンクを張るからそちらを読んで頂く(→こちら。是非一読頂きたい!)として、そこから、特別に強い共感を覚えた一節を紹介したい。 「明確な目的もなくイラクという国に入っていったことに人々は非難を集めた。しかし、その言葉に旅人としての僕は違和感を覚えていく。 「旅とはそういうものだ。確かな目的もなく、知らない国に分け入っていく。旅はそれでいいはずだ」と。」 昨年出た好著『旅行記でめぐる世界』で前川健一氏はくどい程に、 「旅をするのに理由なんて無い。旅が好きだから。それで良いのだ」 と、繰り返した(繰り返さなければならなかった)。前川氏と同じ台詞が、此処でもまた、別の旅人によって繰り返されている。私自身も、香田氏の気持ちは解る(ただ、やらなかっただけの事である)。昨年、事件直後に東京で会った友人も、同様の事を言っていた(→こちらの11月26日条をご覧あれ)。 そして、上述の文章の後に岡崎氏は淡々と、しかし悲痛な叫びをあげる。 「どうしたわけか、今の日本では旅まで殺されている。」と。 長旅から帰って以来、私は折に触れてマスコミの旅行系番組を罵倒してきた。 「奴らには、旅人の心情を理解しようという意欲が何処にもない」と。 繰り返した私の罵倒と徒労感を蓄積し、凝縮し、一言にまとめると、岡崎氏の言葉になるのだろう。そう、旅が殺されている。 だから私は、年下の人たちと会うと偉そうに繰り返すのかもしれない。 「旅をしなさい。出来れば一人が良いね」 と。旅は良いものだ。どのように良いのかは、行けば解る。そう、外の空気が教えてくれる、何もかも。 だから私は海外旅行が好きなのだ。国内旅行に見向きもしない理由もそこにあるのだろう。 |
11月10日(広河隆一講演会) 立命館大学で行われたフォト・ジャーナリスト広河隆一さんの講演会を聞いてきた。 「メディアは人を救えるか」 と題された講演会、広河さんは予想していたよりも語り出しはボソボソとした喋り方で意外だったが、写真のスライドが開始されると語気が次第に強くなっていった。もっとも、淡々とした語り口は変わらなかったが。 チェルノブイリを初めとする原子力開発の被害の現場と、パレスティナを中心に取材を重ねてきた人である。スライドされる写真の全てが圧倒的だった。睡眠不足の上に駆け込んできてフラフラだった私だが、聞けば聞くほどに眼も頭も冴え冴えとする。隣で誰か寝てたけど、よくあの話を聞いて居眠りできるな・・・ 一番面白かったのは、あのイスラエルですら、ジャーナリストのいる所では手荒な事が出来ないという話。だから、戦場にジャーナリストが居るという事は、国家などの公的権力の暴力行為に対する抑止行為になる、というのだ。先生の居る所では悪い事が出来ない、という理屈だろう。 だから、アメリカにせよイスラエルにせよ、レバノンの難民キャンプやアフガンなどの 「人にはとても見せられない事」 をやった所ではまず、現場を占領してジャーナリストを閉め出すのだそうな。広河さんがウェブサイトで公開した、イスラエルが虐殺した挙げ句に更地にしてしまったジェニン難民キャンプの写真、あれが珠玉の価値を持つという事が、非常によく解った。 最後に。 下川さんの本についての書評で、「旅が殺されている」と書いたが、それを更に言えば、 「好奇心を持つ事が禁じられている」 のが、今の日本であるように思う。では、何よりも 「知る事」 に関心を抱かねばならないハズのマスコミはどうか。無論の事、戦争などに関する一方を発信する現場では、深刻な記事を書くらしい。ところが、編集サイドに没にされてしまうそうな。マズイ事を書いたらいけない、と判断するらしいが、それが日本だけではない、という話に眉をひそめた。 こういう判断は、日本では「世間」というモノがさせるのだろうが、阿部謹也が「世間が無い」と明言した欧米においても、同種の監視機能が何処かにあるらしい。 「死に瀕した、ジャーナリズムの危機」 それが、広河さんの講演会で発せられた、悲鳴にも似たメッセージだった。 |
|