絲綢之道の道端にて

T、旅の始めに・・・中国編(前編)

こんてんつ
@旅のはじめに・・・上海行きの船に乗るまで
Aなぜか上海・・・上海・杭州編
B宿願の地・・・南京
C西へ・・・成都・西安編
D長城の風景・・・北京・大同・銀川編

@旅のはじめに

2000年3月。私は、約1年に及ぶ予定の旅行に旅立つ準備に終われる日々が続いていた。‥‥まあ、「一年間旅行に行ってくるから宜しく」と吹聴しまくるのが準備になるのかどうかは知らないが。少なくとも、「気がついたら居なくなって、消息が届いたと思ったら訃報だった」という事態だけは避けよう、と思っていたのである。
 
引越しのゴタゴタが終わって、実家で最終調整をして、卒業式の前日、2000年3月22日に京都に帰ってくる。翌、3月23日の朝、自治会の執行委員の一人として、卒業記念植樹を見届ける。文化会の代表として植樹に参加したのは、私の所属するサークル「下鴨劇場」初代座長の花木で、見届けるほうには、同じく下鴨劇場の中村健と私が居た。この日は、単純に卒業生を見送るだけでは済まなかった。何しろ、私も「送り出される」人間になってしまっていたのだ。この時に下劇のみんなから貰った寄せ書きを、私はなんとその日のうちに紛失している。帰国後、5ヶ月ほど後に、その寄せ書きを発見したときは、おもわず落涙してしまった。その他、もう一つの所属集団の活動記録の「史ゼミ史」の編集作業、下宿の解約、携帯の解約、自転車の預託‥‥といった作業を終えて、尼崎の伯母の家に転がり込む。

翌朝、3月24日、伯母夫婦の運転する車で、大阪南港に向かう。船着場に向かう途中、見送りに来てくれた、府大史学科の友人2人を拾う。乗り場まで行って、見送りの二人を降ろした後、トラベラーズチェックを作るために、銀行を探し回る。やっと見つけた住友銀行で、米ドルのT/Cを作り、再びフェリーポートに帰り着く。府大から見送りに来てくれた二人と雑談しながら、私は落ち着かなかった。というのも、下鴨劇場のメンバー、下の学年の子たちはともかく、同期のうち何人かは来てくれると約束していたからだ。

『何遅刻しとるんじゃ』

心中に一人呟きながら、出航三十分前、私は船に乗った。船室に荷物を置き、デッキに出てみる。フェリーポートの建物のカフェラウンジで、伯母夫妻と、見送りに駆けつけてくれた2人がお茶を飲んでいた。その横のテラスでは、なんと遅れて到着した、下鴨劇場の同期4人が思い切り手を振っていた。まったく、最後まで集合時間を守らない奴らだった。とはいえ、見送りが一番大袈裟だったのは、疑いなく私であったろう。

さて、私が乗ったのは、蘇州号二等船室B、つまり、一番安い船室である。ここは最大で36人詰め込む事が出来るところだが、オフシーズンのため、この船室には十人前後の乗船客しか居なかった。事前に「船酔いが大変だ」と散々脅されていたのだが、私は実に平然としていた。格別に波が穏やかだったという事ではなさそうである。出航後数時間でダウンしてしまった人も居るし、私自身、二日目には少々気持ち悪くなって、1時間ほどソファで寝そべっていたくらいだ(強いて船酔いといえるのはこれくらい)。で、船の中は、実に暇である。で、元気な人たちは、仲良くなってお喋りに打ち興じる事となる。ほかにやる事が無いのである。

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Aなぜか上海・・・上海・杭州

三日目の朝、起きてデッキに出てみると、それまでの青い海の水ではなく、濁った川の水の色になっていた。ついに船が長江に入ったのだ。両岸が見えないほどに広い河口に、度肝を抜かれた。そして上海に上陸できたのは、正午ごろ。入国ポストの外には客引きの車が待機しており、我々は、そのバンに乗って、浦江飯店に到着する。このホテルは、ドミトリー(大人数部屋)55元(約7ドル)するとはいえ、上海中心部に位置する、殆ど唯一の安宿である。この宿の特長は、上海最大の観光地・外灘に隣接している事、そして、よき古さを持った優雅な内装だ。創業1842年という古い宿も、1階に証券取引所(?)やシティバンクのキャッシングコーナーが出来たりと、一年の間に、色々変わっていた。(浦江飯店の写真

さて、上海への訪問は、前年3月以来、二度目の訪問になる。この中国随一の大都会は、歴史的な見所には乏しい。しかしその分、新しさと熱気に溢れた街になっている。特に、豫園周辺は一大繁華街になっている。少し小道に入ってみれば、そこは雑多なものを扱う店がゴミゴミと並ぶ路地裏である。一年前には感じる事が出来なかった面白さに、私はすっかり夢中になっていた。アニメ商品を取り扱っている店の前でいちいち立ち止まる私は、同行する仲間たちに笑われる始末。CD屋には日本の海賊版がゴロゴロしている。私は思わず、玉置浩二の海賊版を買っていた。

上海には、中国一の規模を誇る博物館がある。その上海博物館に行ってみたのだが、あまりの広壮さと展示品の多さのため、すべてを見て回る事など、到底無茶な相談であった。こういう疲れた後には、宿のすぐ外に外灘という一大観光地があるのは、実に便利な事だ。ここは、両岸の景色を眺めながらボーっとするのに丁度良い。ついでに、傍らに美女が居ればもっと良い。デートコースとして、実にもってこいだ。なぜか浦江飯店にはBSが入り、私はNHKのニュースでプーチンのロシア大統領就任を確認した

上海に滞在した後、列車で杭州に向かう。なお、「列車」と書いて「電車」と記さないのは、中国の鉄道が、すべてディーゼル機関車の東風4号で稼動しているためである。で、杭州だが、この都市は五代十国の呉越や、南宋が都城を置いたところだ。しかし、観光名所といえるところは、近年に再建されたものばかり。そんな中、郊外の六和塔は、実にいい感じの塔だ。銭塘江に面する、緑深い丘陵の斜面に建てられたこの塔の周囲には、中国国内の数多くの塔のミニチュアが、これでもかというくらいに立っている。それぞれに、地域色豊かな塔が個性を主張している。この国家の国土の広さを、誇示しているかのような公園だった。

西湖を要するこの大都市は、水路の多さも併せて、北宋の帝都だった開封と、何処か似た容貌を持っている。もちろん開封のほうは乾き切って埃っぽい街なのだが、街の中の湖と、郊外を流れる大河という組み合わせに、宋の貴族は強く惹かれたのであろうか。

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B宿願の地・・・南京

杭州から南京に向かうバスは、乗り心地は良かった(そりゃ100元したから当たり前だ)が、道が工事中だった。窓外の風景は、緑豊かで温暖な江南の風土。古来、中国では江南から興って全土を制圧した王朝は、明以外に存在しないというが、確かに、この豊かな地に居ると、敢えて気候の厳しい華北に進行する気は失せるかもしれない。

南京で困る点は、安宿がまるで無い事である。唯一の安宿は、南京大学の国際学生寮、別名西宛賓館である。この南京大学には、京都府立大の先輩で、私が頭が上がらない人の一人である岡本祐氏が留学していて、西宛に居を置いていた。彼にお会いして、府大史学科の教員・院生の名簿を拝見できた事で、ようやく大学との連絡が可能になった。

明代の壮大な城壁が未だに市街地を取り巻くこの大都市は、六十年前に、日本軍がやらかした「南京大虐殺」の現場でもある。この南京大虐殺を記念した博物館に足を運ぶ事は、歴史学徒である私にとって、永年の宿願であった。しかし、気負いは虚しかった。門をくぐってすぐの所にある巨大な彫刻は、大きく「300000」の数字を掲げ、私は思わずズッこけそうになった。敷地内の庭園の随所に転がっている碑は、全て「振興中華」のスローガンで締め括られていた。博物館の展示も、意地悪く観察すれば、穴だらけである。私がここで見たものは、ただ中共政府の「執念」だけだった。あのような展示では、まともな批判精神をもった日本人は失笑を禁じ得ぬだけであろう。我が日本の原爆記念館は、いったい諸外国から訪れる客人の瞳に、どのように映るのであろうか‥‥

政府といえば、この南京には、近代中国の国父・孫文の陵墓、孫中山陵がある。まさしく「陵墓」と称するのに相応しい、馬鹿でかい墓は、中華民国時代に蒋介石が築いたものである。孫文を「国父」と称するのは中共も同様なので、墓はそのままというわけだ。ついでに、中国では、孫文の事は、号である孫中山の名で呼ばなければならない、らしい。

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C西へ・・・成都・西安

南京には四泊五日と、思わぬ長居をしてしまい、成都まで一気に行く事にした。しかし、二泊三日、43時間に及んだ列車旅行の疲労からか、成都に到着した私は、下痢になってしまった。おまけに、成都には一泊しただけ、念願の蜀地訪問も、不完全燃焼に終わった。この蜀の名物は、やはり茶館だろう。街の中、至る所に茶店が出ている。観光名所も、中庭が設けられているところが多い。中庭だけの入場料というのも設定されていて、その分のお金を払った人は、お茶を飲みながらゆったりとくつろぐのである。のんびりするのに、実にもってこいのところである。成都といえば、三国志ファンが見逃す事が出来ないのが諸葛孔明の霊廟、武侯祠であろうか。私にとっては、劉禅(蜀の後主)の像が無いのが面白かっただけであるが。

あわただしく成都を発った私は、西安に向かった。西安外語学院(外語大)には、蘇州号の中で親しくなった、宮治さんが留学していて、彼を頼っていたのだ。一週間近く悩まされ続けた下痢も、ようやくここで回復した。

前回(1999年)の旅行のときに6日間も滞在したこの西安は、もちろん歴史好き人間にとってはたまらない街だが、特に歴史が好きでなくても、充分に魅力的な街だろう。市壁に囲まれた城内には、ムスリム地区(清真地区)まで存在する。しかし、今回は三泊したが、それほど見て回った訳でも無い。西安外大が中心地から南に大きく外れていた事が大きな理由かな。ついでに近くに大きな市場があり、庶民の生活をのぞくことが出来た。比較的マイナーな、香積寺と興教寺(玄奘法師の墓所)を訪れたくらいだ。その代わり、唐華賓館で行われた、日本人会の花見には、しっかり出席した。それと、留学生間の「文化摩擦」も、きっちり見学させてもらった。摩擦といっても、恋愛をめぐるトラブルの事であるが、各国の男女交際事情を知るには適している。が、それをここで詳述する必要は無いだろう。

気候温暖で経済的に豊かな江南から内陸部に入ってきたわけだが、江南と他の地域で大きな違いの一つに、硬貨の流通が挙げられる。上海を始めとする経済的先進地帯では、一元以下の細かい金銭は硬貨である。しかし、この地域を離れると、どんなに細かいお金でも、全て紙幣になってしまうのだ。コインマニアの私は、一元硬貨を一枚、大事に保管し続けた。

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D長城の風景・・・北京・大同・銀川

西安の留学生の皆さんの元を離れた私は、北京へと向かった。この移動はしんどかった。

中国の列車で一番安い切符は、硬座という。つまり、目的地まで座りっぱなしだということ。「それがどうした」と言えるのは、安楽な日本だからだ。中国に行く前には「全部硬座で行くに決まっているじゃないですか」と豪語する若者たちが、帰国すると口を揃えて「いやあ硬臥(二等寝台)最高」と苦笑いしている事からも、そのしんどさが分かろうというものだ。ただし硬座は、中国人民のパワーを見るには、好都合な車両ではある(しかしそれは、一度見ればもう充分な代物だ)。ちなみにこのとき、私は21時間座りっぱなしだった。それでも、まだ座る席が有ったから良かった。このとき乗った列車の種類は特快と言って、つまり特急列車だ。これ以下のランクの列車の硬座については後述する。

さて、この長時間の移動のとき、私は同乗の人々と仲良くなって、筆談を中心にコミュニケーションを展開した。このとき、頻りに聞かれたのが台湾問題。私が日本を出てくる一週間前に、台湾の総統選で、野党の陳水扁が当選していた事が、中国人民の問題意識を高めていたのだろう。何しろ前回中国訪問時には、台湾の事なんて一切聞かれなかったのだから。彼らは、台湾が中国の一部であると、信じて疑っていないようである。なかには、

「中国にとっての台湾問題は、日本における北方領土問題と同質の問題である」

と言ってのける人も居て、私は苦笑するしかなかった。だが、彼らがいかに強弁しようとも、それは中華人民共和国の最大民族であり支配民族である、漢人の論理でしかない。他の少数民族の支持は、到底得る事ができまい。私は心中にそう呟いたが、それを口に出す事は憚られた。列車の中で論争などしても、こちらの具合が悪くなるだけだ。

さて、北京に着いたのは午後五時ごろ。この、中華の帝都の役割を千年近くに渉って果たし続けた大都市は、今もなお、行政の中心である。この街には、京華飯店と言う、バックパッカーの溜まり場宿がある。
中国では、外国人が星無しの宿に泊まるのは原則的にご法度なので、貧乏旅行者が泊まる場所と言うのは、自然、限られてくる。北京・上海・西安・南京と言った大観光都市では、ほとんど一つの宿に集中していると言ってよいだろう。
このような宿には普通、貧乏旅行者が自分の訪れたところの情報を書き残しておく「情報ノート」が置いてある。京華飯店の場合、その情報ノートは、ホテル内の京華カフェに置いてあった。 このカフェで、京華にもう一ヶ月ほども滞在している、強介さんと言う日本人男性に会った。この強介さんが京華に居る間に交際していた人の中に、チャーリーという黒人シンガーが居た。チャーリーの本業は英語の先生なのだが、夜は北京のバーで、シンガーとして歌っているのだ。チャーリーに誘われ、強介さんに連れられて、私も二度ほどバーに足を運んだ。一度などは、チャーリーの家に遊びに行った。中国の一般的なマンションに入る事など滅多に無い事だから、非常に貴重な体験だ。チャーリーの奥さんというのが何故かしら日本人女性だった。

北京に居る間、私は前年に見損ねた観光名所に行きまくった。その一つに、天安門広場がある。一度目の中国渡航のときは、全面改修中だったのだ。天安門事件のときに傷んだ、というわけではなくて、建国五十周年に向けて、首都のお色お直しをやっていたのだ。だからそのときは、北京駅や市内の繁華街も工事中だった。その繁華街の一つに西単という大通りがある。ここに新華書店という巨大な本屋がある。問題は、その本屋の文房具コーナーに、ガンダムのプラモが鎮座していたということだ。一体、どういう基準でガンプラが本屋の文具コーナーに並ぶのだろうか。(天安門広場の写真

さて、北京は市内にも見所がどっさりあるが、郊外にも多い。万里の長城は昨年登ったので、今回は明の十三陵に行くことにした。明代の皇帝の陵墓は、初代洪武帝のものを除いて、全てが北京郊外の昌平鎮に散在している。そのうち、万暦帝の定陵と、隆慶帝の昭陵を見た。あまりの壮大さに呆れ果てた。明の皇帝は凡庸な帝王ばかりだったのに、墓だけは立派過ぎるほどだ。

市内の見所で面白かったのは、雍和宮だ。清の雍正帝が親王だった時代の宮殿を、ラマ教の寺院に改造したものである。ここにはダライラマ14世とパンチェンラマ10世の写真が幾つか展示してあった。しかしダライラマの写真は、二十歳頃までのものしか飾っておらず、パンチェンラマのほうは「愛国者」という根も葉もないレッテルを貼られていた。

宿所・京華は有名安宿であるため、さまざまな旅行者が集う。インターネットコーナーもあるので、私はここでメールアドレスを作った。そのような旅行者の中で、一風変わっていたのが、私と同じ部屋に投宿していたチリ人紳士。北京に何の用で来ていたのかは忘れたが、他の連中みたいなバックパッカ−でない事は確かだ。この人が一枚、面白いポスターを持っていた。毛沢東・周恩来・劉少奇・朱徳の中国建国四大元勲が仲良く写っているポスターである。このポスター、非常にお気に入りであるらしく、しばしば取り出しては眺めていた。私にも見せてくれるので、ふと、

「このポスター、あなたの故郷では当然、お部屋に飾ってるんですよね?」

と聞いてみた。だが、この紳士は、

「いいや、もしチリでこのポスターが見つかったら、私の命は無い」

そういって首に手を当て、だからこのポスターは北京の友人のところに預けてあるのさ、と続けた。この言葉を聞いたとき、私は、この人の国にかつてアジェンデという独裁者が君臨して、社会主義(共産主義?)政権を武力で圧殺し尽くした事を思い出した。未だに共産主義は、いや、社会主義(=社会民主主義)ですら、南北アメリカ大陸ではご禁制なのだろうか。北京で、思いもよらぬ中南米の現実を突きつけられた私は、頭の中で自分の見た事の意味を問い続ける事になる。

ついでながら、中国での食のリズムが完成したのは北京だった。すなわち、朝には京華の近くに出ている屋台で食べる肉マン、昼食は観光途中で食べる水餃(シュイジャオ=水餃子)もしくは牛肉面(ニウロウメン=肉入り麺)、夜は皿料理と米の飯と、時にはビール、というのが中国滞在中の食事であった。

次の目的地・大同の郊外には、中国三大石窟として名高い、雲崗石窟がある。他の二ヶ所は、洛陽の竜門石窟と敦煌の莫煌窟であるが、いずれも世界遺産に登録されている。私が訪問したときは、雲崗石窟は世界遺産に登録される寸前であったが。で、私と、北京からここまで同道したオランダ人ヒューゴーは、中国国際旅行社の一日游(一日ツアー)を利用して、市郊外の見所二つを見て回る事にした。最初の見所は、市郊外の懸空寺である。崖っ淵に数本の柱で支えがしてあるのみで、崖面にも仏像を穿ったりしているが、下は渓流が流れており、高所恐怖症の私としては、あまり下を見たくは無いところだ。

二箇所目は、雲崗石窟である。北魏の時代に開かれたこの石窟は、長大な岩肌に、無数の窟が穿たれている。そして、この崖の上方には、万里の長城の切れ端が顔を見せているのだ。石窟の大きさも、大きなものから小さ名ものまで様々。大きなものは、中に壁画や彫刻が施されている。大きな窟の石仏は、洛陽の竜門石窟と比較してみると、威圧感に満ち満ちたものが多い。(雲崗石窟の写真

郊外の大観光地の為、気付かずに行ってしまいがちだが、この街には、未だに城墻が残っている。とは言っても、南京のものほど立派ではなく、黄土を突き固めた土壁が残るのみだが。かつて中華の最前線に位置した街は、周囲を乾燥しきった荒野に囲まれている。

大同には二泊して、次の目的地銀川に向かった。すこし大同の市街地を離れると、草も殆ど生えていない、遠くには山が連なる、朔北の風景だ。乾いた大地には、時折砂埃が舞う。そのような中、まだ暗いうちに到着した銀川では、到着早々にタクシーの運転手と大喧嘩をやらかし、市内を徒歩で宿探しする羽目になった。私は旅先でタクシーに乗る事を極めて嫌いぬいているが、それは料金をめぐるトラブルが、必ずといってよいほどに起こるからだ。怒鳴りまくったために喉は痛む。ついでに早朝の銀川は、市内に砂塵が舞う、恐ろしく乾燥した街だ。かつて西夏の王都があったこの街は、今ではムスリムの住まう、寧夏回族自治区の省都である。ために、土地の人は銀川のこともまた、寧夏と呼称している。市内に見所は少なく、せいぜい二本の仏塔が立つくらいだ。

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