絲綢之道の道端にて

T、旅の始めに・・・中国編(後編)

@絲綢之道(シルクロード)を目指して・・・蘭州・嘉峪関・敦煌・トルファン編
A国境を目指して・・・カシュガルとカラコルムハイウェイ編

@絲綢之道(シルクロード)を目指して・・・蘭州・嘉峪関・敦煌・トルファン

銀川から蘭州へは深夜発の夜行列車で行った。このとき乗ったのは、直快の硬座である。直快は特快よりもランクが落ちる。特快を特急列車とすると、直快は急行というところだろう。で、直快には空調が効かないのである。そんな車両に乗って砂漠の中を進んでいくのだ。当然、夜の冷え込みたるや、恐ろしいほどである。私はアンダーパンツをはいていったが、くるぶしの辺りから寒さが来た。

夜が明け、山の間から黄河が顔をのぞかせた時、乗客は総立ちになった。そう、蘭州は、市内を流れる黄河以外に、見所が無い街である。だが、甘粛省の省都であるこの街には、ビザ延長のために立ち寄ったのだ。ビザの延長意外にやったことといえば、街を取り囲む山の上の蘭山公園に登ったくらいである。ここでは、厚底ブーツを履いて山を上り下りする女性たちを見て、心底恐怖した。日本の影響下、中国でも厚底ブーツが大流行していた。蘭山公園は蘭州市街地との標高差が五百メートルほどあり、本来なら、市街地が見渡せるはずである------が、山頂から眺める市内は、無残なほどに霞んでいた。スモッグと砂埃がひどく、とても「見晴らしが良い」とは、言えたものではないのだ。

続いて夜行列車で嘉峪関を訪問した。明代の万里の長城の最西端であるこの街は、ここ数年に急速に開発が進んで都市の体裁を整えた、新しい街だ。しかし列車の中で目を覚ましたとき、私は夜行列車を使った事を半分以上後悔した。線路に沿って、砂漠の中を延々と万里の長城が奔っているのだ。この辺りの長城は、北京郊外の八達嶺や司馬台のような、焼き煉瓦で綺麗に化粧されたものではない。大同の市壁のように、剥き出しの土壁だ。しかし、砂漠の中をひたすらに何処までも続く土壁には、一体何処まで続くのか、という恐怖感を喚起させるものがある。

沙海のなかに浮かぶオアシスの街嘉峪関の市街地には、大型市内バスは存在しない。バンを改造したミニバスが、市民の足である。そのせいかどうか、市街地は排気ガス臭くない。これは私が訪問した中国の都市では、実に初めての事である。その嘉峪関の街から砂漠の中の一本道を7km走ったところに、長城の最西端、嘉峪関の城関はある。遠くから見ると、城関の楼門の部分も土壁と同じ色だが、すこし引っ掻いてみると、下から黒い素焼き煉瓦が現れる。こうなると、この楼門も何時修復されたものか、解らなくなって来る。砂のために、すぐに建物が古びてしまうのが、中国内陸部の特徴だろう。

次は、今回の中国旅行最大の目標の一つ、敦煌へとバスで向かった。砂漠の中の一本道をひた奔るバスの旅に、私には一人の同行者がいた。渡辺さんという28歳の男性だが、彼は数年前に中国に留学した経験があり、今回は一年間、中国に滞在し、国慶節(中華人民共和国建国記念日)のあとに日本に帰る予定だという。中国語を流暢に話す彼だが、

「俺は中国は好きだが、中国人は嫌いだ」

と語っていた。中国に関しては、滞在期間が長くなればなるほど、彼のように語る傾向があるようだ。ついでに言ってしまうと、

「南京大虐殺など出鱈目だ」

と語るのも、中国が長い人が多い。奇妙なものですな。ちなみにこのバス、料金は29元(4ドル弱)だが、杭州〜南京間で乗ったバスと乗り心地もバスの大きさも大差無かったのに、あちらのバスは百元(12ドル弱)である。西に行くに連れて物価がどんどん安くなっていくが、バスの運賃は極め付けだ。

約四百キロの道程を7時間かけて走破し、敦煌に到着する。9時出発の4時半到着だから、着いた頃には夕日が射すはずだが、中国の標準時は、東の端の北京に置かれているのである。従って、まだ活動には差し支えが無かった。それで、着くとすぐに、我々二人は敦煌南郊に位置する鳴砂山へ。優美な砂丘で、ある人に言わせると

「世界一美しい砂漠」

なのだそうだ。が、何を考えているのか、私はこの砂丘の頂上で、

「下鴨劇場のみんな!新歓公演の初日は無事に済んだか!」

絶叫していた。阿呆である。日没を見届け、宿に戻った。(鳴砂山の写真

翌日、郊外の玉門関へ、タクシーをチャーターして行く。砂漠のど真ん中に位置する漢代の砦の跡である。ボロボロであるが、駱駝草の中に元気で立っていた。漢代には、万里の長城はここまで延びていたということである。

その次の日には、ホテルの一日ツアーで、いよいよ莫煌窟へと向かう。この世界的に有名な石窟は、清末から中華民国期の混乱の中で荒らされていたものを、中共政府が威信をかけて修復したものだ。そのため、管理は非常に厳重である。全ての窟にドアが付いており、ここを見て回る場合、カギを持ったガイドについて回らなければならない。為に、全ての窟を見て回る事などは夢で、ガイドが選んだ十程度の窟を回るのみで満足しなければならない。芸術的には確かに素晴らしいのだろうが、私の中では、自由に見て回る事が出来た竜門・雲崗の方が良かった。

ところで、かつてこの街を舞台にした『敦煌』という映画があったが、その撮影は、実にこの敦煌の郊外でやったのである。そのときのセット、「宋古城」が一日ツアーの最後の見所だ。日本人しか喜ばないんじゃないかと思ってしまうが、このセット、実に良く出来ていて、城壁まで再現してある。言ってしまえば全て泥で出来た城だが、こんなもの作っていたから角川書店は倒産寸前になってしまったんだなあ、と私は妙に納得した。とは言っても、中国側も人民解放軍まで動員して撮影に全面協力しているので、日中友好には大いに寄与しているわけである。

敦煌には、あまり誰にも知られていないが、鉄道切符売り場が存在する。私はここで、トルファン(吐魯番)までの切符を買った。といっても、敦煌には列車の駅は存在せず、最寄りの駅の、柳園初の切符を取り扱う。だから、柳園鎮までバスで行かないと列車には乗れないわけだ。私は、この敦煌からトルファンまでの道程を、菅原さんという男性と一緒に行動した。

トルファン駅とは言っても、駅があるのは、トルファン市から車で一時間ほど離れた、大河沿鎮という町だ。列車の到着にあわせて、トルファン駅では、市街地までを結ぶミニバスが待機していた。ここから市街地までは、途中から、道というものが存在しなくなっていた。本来は舗装がしてあったのだろうが、無残に崩れ果てていた。乗り物に弱い人ならば、間違いなく酔っていただろう。そんなふらふらの状態でトルファンに到着したが、市内一番人気の緑州賓館(別名オアシスホテル)は、ドミトリーが満杯だった。丁度この時期はゴールデンウィークに当たっていて、日本からの旅行客も多かったが、中国の国内旅行客も多い時期だった。中国にも、ゴールデンウィークが存在するのだ。メーデーが祝日に当たり、その日を中心として連休を作ってしまっているという事らしい。
さて、私と菅原さんは、また別の安宿であるトルファン飯店に投宿する事にした。ここは非道かった。ドミトリーの部分の棟が工事中で、トイレが使えない状態だった。だから、トイレに行くときは、中庭を横切って、フロントのある本館部分まで行かなければならない。夜は真っ暗になるので、非常に怖いのである。そのため、成人した男どもが、夜はトイレに行くのに連れションせざるを得ない、という、非常に情けない事になった。それくらい夜は暗くて怖かった。ほぼ廃墟のごとき宿ではあったが、「廃墟マニア」の菅原さんは、結構楽しんでいるようであった。一方、私は、これ以降どんなボロ宿に泊まっても、笑って済ませる事が出来るようになってしまった。

トルファン郊外には、玄奘法師が滞在したことでも有名な高昌国の廃墟がある。この高昌故城に、我々二人は、ウイグル人ガイドの主催する一日ツアーを利用して足を運んだ。トルファンは日本人にも人気の高い観光地であるためか、日本語を流暢に話すガイドも多い。だからまあ、便利といえば便利である。さて、高昌故城であるが、日干し煉瓦が溶け崩れていて、建物は殆ど土塊の状態。日干し煉瓦が僅かながらにその形状を留めていたから、辛うじて遺跡と見て取れる。日中はあまりに暑いので、夕刻に足を運んだのだが、それでも暑い。どちらかといえば、私はアリ地獄の観察ばかりしていたような気がする。この高昌故城の近くに聳えるのが、西遊記で有名な火焔山。この日は曇っていたが、それでもその姿は、暑熱でユラユラと揺らいでいた。

トルファンにはもう一つ、有名な廃墟がある。それが、高昌故城とは、市街地を挟んで正反対の方角に位置する、交河故城。この交河故城へは、やはり日中を避け、夕刻に自転車を飛ばして行った。最近世界遺産に指定されたとかで、ガイドブックに記載されていた入場料よりも、えらく入場料金が高かった。台地を掘り下げて作られた、この要害都市の外縁部に足を掛けてみれば、その外側は、崖っ淵が迫っている。この遺跡の建造物は、高昌故城よりは状態がましなものが多いが、それでもやはり、土塊に限りなく近いものばかり。乾燥地帯だから、建築資材に、耐水性の高い焼き煉瓦を使う必要が無かったのだろう。(写真

トルファンでは日中が暑いため、夜が本領発揮の時間帯である。街の中心の映画館の前には屋台が並び、人々がそこで憩う。我々は、そこに夜毎に繰り出しては、晩飯を食らっていた。(バザール入り口の写真

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A国境を目指して・・・カシュガルとカラコルムハイウェイ

トルファンの四日目、私は緑州賓館の敷地内の中国国際旅行社(CITS)に足を運んだ。トルファン初日に予約しておいた、カシュガル(喀什)までの列車の切符を取りに行くためである。カシュガルまで線路が到達したのは、かなり新しい。実に、1999年の12月の事である。それはさておき、CITSの窓口の小姐は、列車の乗車券を求める私に、無慈悲に言ってくれた。

「申し訳ないが、私たちが取る事が出来た切符は無座の切符だ」

無座。あの無慈悲かつ過酷な中国国鉄の、しかも利用する列車は、直快よりもランクの落ちる「快客」である。カシュガルまで走る列車は一日一本、他にカシュガル行きの鉄道は無い。指定座席の無い無座の乗車券とは、何のためにCITSに代行取得を要請したのか解らぬではないか‥‥思わず絶句した。そんな私の心中など察する義理など無い事務員のねーちゃんが、切符は駅前の鉄路賓館で受け取ってくれ、と、いけしゃあしゃあとした顔で説明する。依然として呆然としたままの私は、彼女の言葉を辛うじて意識の片隅で拾い上げていた。まったく、中国の列車の切符というものに対して、まだまだ甘く見すぎていたという事を白状するしかない。

かくして、重い意識を引きずったまま、私はバスターミナルに停車していたミニバスに飛び乗って、トルファン駅へと向かった。凝った外見をもつトルファン駅の候車室で待機に入る。ここでも日本人という事がばれて、私は筆談を展開する事に。これはつまり、この新疆ウイグル自治区にも、大量の漢民族が流れ込んでいる、ということだ(ウイグル人と筆談など出来るわけが無い。彼らは漢字を知らないのだ)。人口爆発のために、もはや漢土だけでは漢族を収容できなくなっていて、溢れ出した漢民族は西へと流出していっているのだ。嘉峪関も敦煌も、漢族は大勢いた。私は行かなかったが、ウイグル自治区の省都ウルムチ(烏魯木斎)も、もはや漢族の街と化しているということだ。がきんちょに十円玉をあげたりして、それはそれで楽しかったが、

「お前は南京を知っているか?昔日本軍がここで大虐殺をやったんだ」

といわれたときは、さすがに鼻白んだ。

カシュガルへ向かう607次快客は、始点がウルムチである。従って、寝台のチケットは、全てウルムチで捌かれているのだ。中国の列車は基本的に、すべて指定席である。したがって、「無座」とは、文字通り「あんたの座る席は確保していないよ」ということである。冗談ではない。ここからカシュガルまで、27時間かかるのだ。しかも、駅のプラットホームには、旅客が長蛇の列を為している。狂戦士と化した私は、列車が駅に入って来るや、列車待ちの客の少ない車両に当たりをつけて駆け込み、空いている席を目がけて突進し、何とか座る席を確保する事に成功した。これで成功していなかったら、通路や連結部や、非道い時にはトイレまで、とにかく空いている空間を占拠する羽目に陥るのだ。そこには慈悲など存在する余地は無い。まさしく生存闘争が存在するのみである

砂漠の中を、列車はひた走りに奔って行く。途中、山岳地帯に突入したところで夜になった。夜とは言っても、席は、殆ど直角のベンチシートで、とてもじゃないが眠れたものではない。暑さは日中ほど非道くはなくなっていたが、喉は無性に渇く。そのくせ、この列車の給湯器(中国の列車には、湯を供給する給湯器が必ずついてくる。ホテルでは、客に湯を供する)は、いつもカラ。当初は鮨詰めだった列車は、深夜3時にコルラ(庫爾勒)駅に到着すると、かなりの客を降ろしていた。
私と同じ車両には、若い白人女性が3人が乗り込んでいた。驚いたのは、この白人女性たちが、職質に来た公安の問いに滑らかに受け答えしていた事。後で話を聞いたら(このときの我々の会話は英語だった)、ユーゴスラヴィアから来た留学生ということだ。中国語も英語もどちらも流暢だったから、私はユーゴでは英語が普通に使えると、この時に思い込んでしまった。これが勘違いである事が判明したのは、7ヵ月後の事である。

夜が明けて、暑い昼になると、もう窓を開けなければ、耐えることが出来ない。11時、コルラに列車が到着すると、殆どの乗客は降りていった。コルラは二十年前に南疆鉄道が開通して以来、これも漢族の流入によって、急速に発展した街だ。ここで少し休憩してから、列車は発車する。これからの路線は、途中から、進行方向の右側に聳える天山山脈から吹く風、天山下ろしの直撃を喰らい続ける。一度は列車員の指示で、開放された窓が閉められるが、とてもじゃないが耐えられない。快客は直快よりも下のランクの列車だから、当然、空調など効いているわけが無い。車内には扇風機が回っているが、暑い暑い。

カシュガルに到着したのは、中華人民共和国標準時間で8時半。「どこがやねん」と、私ならずとも突っ込みたくなるほど明るい、この中巴国境の重要拠点の空に輝くお天道様は、夕方の太陽だった。中国の標準時は北京時間だから、こんな事になってしまうワケである。ここから、私とユーゴ人三人娘は、チーニーワーク(其尼瓦克)賓館へ向かう。前年まではパキスタンやキルギス行きのバスのターミナルの役割も果たしていたこのホテルは、ドミトリーにもシャワーが付いていて、私は感激していた。このホテルは、バックパッカ−の宿としてより、パキスタン人商人の宿としての役割の方が大きいらしい。そのためか、この宿の門前には、ウイグル人の闇両替商がたむろしている。パキスタンルピーも、キルギスソムも帰ることが出来る。レートは悪い。

私が訪問した中国の街の中では、カシュガルは、一番漢族の姿が少ない。これは、つい最近まで鉄道が開通していなかった(先述)ためである。シルクロード沿いの街は、列車の路線が拡張されていくに従って、漢族がどんどん流入していき、都市の規模が拡大されていく傾向がある。今はウイグル人が大半を占めているカシュガルも、いずれは漢族で溢れかえってしまうのだろうか。しかし、ウイグル人は、いや、雲南の少数民族もチベット人も、漢族が大嫌いなのだ。これが私の思い込みならば良いのだが、私がこれまでに会って話をしてきた旅人も皆、同じことを語っている。とすれば、いずれ、中国は巨大な内紛を経験する事になるのではあるまいか?

閑話休題。

カシュガルは古来シルクロードの要衝として栄えた街だから、市内にも幾つか見所は存在するが、現在の最大の見どころは、毎週日曜日に行われる日曜バザールだろうか。市内の国際貿易市場を中心とした一帯で行われるこのバザールは、日差しが強くなってくる、北京時間十時過ぎから本格化する。ウイグル人でごったかえす、巨大バザールである。

日曜バザールの翌日、私は宿から1km離れた吐曼河大酒店の国際バスターミナル(国際汽車站)からパキスタン国境行きのバスに乗る。同じドミトリーに泊まっていたイングランド人、マークも一緒である。カシュガル発車のバスは、北京時間マイナス2時間の、「新疆時間」で運行している。こうなると当然の帰結だが、漢人は北京時間、ウイグル人は新疆時間で生活しているのだ。乗客のうち半数は(私のような)外国人観光客、残り半数は漢人だった。しかし漢人は、途中の測候所のようなところで全て降りてしまい、結局パキスタンまで行ったのは、殆どが外国人だった。

一泊二日の行程で中巴国境を結ぶバスは、毎年5月1日に運行を開始する。それまでは国境が氷雪で閉ざされてしまうのだ。私がこのバスに乗ったのは5月8日の事である。本来なら全線舗装されていてスイスイ走れるはずの中巴公路、通称カラコルムハイウェイだが、所々崖が崩れ、路上に雪解け水が溢れ、恐ろしいほどの悪路と化している。よくこんな所をバスが通るものだ、と感心してしまう。道もまたくねくねと曲がる山中の道。標高3200mの中継地点・タシュクルガンに着いたのは夕刻。さすがにこの町の夜は冷える。しかし星が物凄く綺麗だった。タシュクルガン、辺境の町だからか物価が高い。ついでに、なんと中国語が通じない。(道中の写真

翌朝、タシュクルガンのチェックポストで出国審査を受けて、バスに乗り込むまでに時間がかかる。どこかのどかな国境である。チベット−ネパール国境は恐ろしく警備が厳重だというが。国境のフンジュラーブ峠は標高4736m、まだ氷が残っていた。(国境付近の写真)ここからパキスタン側の道は、恐ろしく険しい。しかし一方で、風景は素晴らしく美しい。

ようやっとパキスタン側の国境ポスト・スストに到着したのはパキスタン時間で午後4時ごろ(日本時間マイナス4時間)。ここから私は、名高いフンザの村に一刻も早く行きたかったのだが、バスの都合がつかずに、この国境の集落に一泊する事にした。多少は落胆したが、国境の風景の美しさは、一泊するくらいの価値は十二分にあった。

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