絲綢之道の道端にて

U、「辺境の国」パキスタン編


こんてんつ
@「風の谷」訪問記・・・フンザ・ギルギット
A下痢に倒れる・・・ペシャワール・イスラマバード・ラワールピンディー
B下痢、再発す・・・ラホール

@「風の谷」訪問記・・・フンザ・ギルギット

スストで一泊した翌朝、私とマーク、それに、札幌のノバで英語を教えているエリク夫妻の4人は、北部地域の主要都市・ギルギットへ向かうミニバスに乗った。これは日本の中古のバンを改造したものだ。パキスタンの車道は左側通行で、そのせいかどうか、日本の中古車が車道に溢れている。パキスタンの交通網を支えているのは日本車である。(日本車の写真
さて、エリク夫妻は途中で下り、私とマークはフンザの中心地カリマバードの近くで下車した。カリマバードの集落までの山道がきつかった。

フンザは、映画『風の谷のナウシカ』の舞台になったという伝説を持つ、緑豊かな美しい谷である。噂の真偽はともかく、この地を訪れ、其の美しさに魅了されてしまった人々は口を揃えて

「フンザこそ風の谷」

と断言し、伝説の流布に勤めている。他ならぬ私もその一人。(フンザの写真
私の泊まった宿は、伝説的な安宿のハイダーイン。宿代50ルピーは、日本円で百円にもならない。この宿の二階から見る風景は、まさしく風の谷のもの。隣村のアルチットにそびえるイーグルネストという高峰に足を運ぶと、谷の姿が、更によく見渡せる。私はここに一週間いたが、宿に置いてあった情報ノートのチェックと散歩以外には何もしていない。この谷はトレッカーにとっては涎を垂らしたくなるほどに絶好の地であって、私も一度トレッキングに挑戦したが、あえなく挫折した。一歩間違えば死ぬかもしれない、という恐怖感に負けたのだ。すなわち、それ相応の装備と心の準備をしなければ、トライできたものではない。

宿の主人であるハイダー爺は、かつてはパキスタン国軍の兵士だった事もある古強者。為に愛国心も旺盛である。ある日、私と同宿の女性ユカさんが宿の二階のテラスで雑談していた時、

「もしまたインドが戦争を望むのなら、ワシはまた戦争に参加するだろう」

ということを語ってくれた(まあ、爺は宿泊客がテラスで暇そーにしてたら誰にでもこの話をするんだと、後日、別の旅行者から聞いた)。しかし、爺の「周りの国は中国もイランもパキスタンと仲が良く」という言葉は、残念ながら嘘なのだ。中国もイランも、パキスタンを確実に格下とみなしている。ましてイランは、アフガニスタンのタリバーン問題をめぐって、パキスタンとの関係は冷え切ってしまった。国境にバローチスタンの砂漠という緩衝地帯が無かったら、両者はどうなっていた事やら。

一週間滞在したフンザを嫌々、本当に嫌々出発して、パキスタン北部地域の中心的都市であるギルギットへと向かう。ここは日本人女性で元バックパッカーのケイコさんという女性が営む、ニューツーリストコテージという安宿があって、日本人旅行者の人気が高い。何よりここに長期滞在してしまう理由は、日本語書籍の豊富さにあるだろう。この宿の蔵書である『風の谷のナウシカ』シリーズは、「フンザ=風の谷」伝説に、一役買っていることは疑いない。
私がここで一番はまったのは、沢木耕太郎の名著『深夜特急』である。日本に居たときにはそれほど面白い本だとは思えなかったのだが、旅先では、己もまた旅人だから、彼の描く「旅人の世界」に、すいすいと入っていく事が出来る。
なんと言っても『深夜特急』の一番見逃せないところは、沢木氏の描き出す、アフガニスタンを旅する人々の姿ではないだろうか。旧ソ連の侵攻前の、「ヒッピーの聖地」と謳われたアフガンの姿が、実に生き生きと描写されていた。アフガニスタンについては最近やたらと騒がれるようになったが、もはやこの地を訪れるのは命懸けになっている (タリバン崩壊は、平和の回復とイコールではない。アフガン国内の治安は、タリバン統治下のほうが安定していたと言うことはは、ペシャワール会のHPを見れば明らかである)。
後述するように、私にも行くチャンスは会ったのだが、命が惜しくて、挑戦する事すらしていない。 根が臆病者であるため、私は「これは死ぬかもしれない」と感じたら、その国に足を運ぶ事は避けるのが、今回の旅行の基本だった。これについては、イスラエル入国拒否のコーナーや、旧ユーゴ訪問のところでまた語るであろう。

さて、ギルギットだが、標高1600mの山地にあり、町の南端は崖で、そこに、インダス川の支流ギルギット川がとうとうと流れている、乾燥した町である。同宿のフランス人に「君たちは全然宿から町に出てこないね」と笑われた我々日本人であるが、何しろギルギットは街道の小さな宿場町、特に見所は無いのだ。土産物を探すには丁度良い所ではあるが。まあ、私は毎日散歩を欠かさなかったのだが。高地とはいえ、日差しは強い。ある日、昼食をとるために外に出たのだが、私が落したコインは「ぺたっ」と、音も立てずにアスファルトの上に落下した。熱くなったアスファルトがフニャフニャになってしまっているのだ。私はここから、日本への近況報告第二弾を発送した(第一弾は、中国の西安・北京より発送)。

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A下痢に倒れる・・・ペシャワール・イスラマバード・ラワールピンディー

ギルギットがパキスタン北部地域の中心地なのは、パキスタンの中心部パンジャブ州と北部のフンザを結ぶカラコルムハイウェイ上の最大の宿場町であることが、まず一つ目の理由である。カラコルムハイウェイが同盟国中国との通商・軍事路であることはすでに述べた。

加えて、ギルギットは、アフガン国境の北西辺境州(NWFP)へのルートの出発地点でもある。そのようなわけで、パキスタン心臓部にあって、かつてはパキスタンの国都でもあった要衝ラワールピンディー(略してピンディーと現地では呼ばれている)と北部を繋ぐバスは、全てこのギルギットに発着する。パキスタン中央部を目指す私も、このギルギットから南へ向かうNATCO(政府バス)のバスに乗った。パキスタンの交通網が日本車によって支えられているとは先述したとおりだが、このNATCOのバスも、当然のようにヒノである。荷物は屋根に積んでしまうのだが、当然、日本のバスがそのように設計されているワケが無い。そこで、車内には屋根を補強するための柱が数本生えている。ついでながら、パキスタンでは空調付きバスはフライングコーチという。

ギルギットからピンディーへ向かう道筋は、やはり山地を通る。山には、殆ど草木など生えていない。道は途中までインダス川に沿って走るため、道の片側には山が迫り、反対側は断崖絶壁、濁ったインダス川が流れる。しかもこの道、盗賊が出るとかで、結構物騒である。日が落ちた頃、ライフル銃を持った警官が護衛のためにバスに乗り込んできた。挙句に、夜食のためにバスが停まった宿場町では、武器を商う店まで存在する。幸い私の時には何事も無かったが、ある旅人の話では、バスの走行中に、警官が威嚇のために銃をぶっ放したり、遠くで銃火器の発する光が見えたりしたということである。

殆ど眠る事もできないまま、バスはピンディー郊外の巨大バスターミナル、ピールワダイへ。私はここからノンストップでペシャワール行きのバスに乗った。ペシャワールまではグランド・トランクロード(GTロード)を西へ3時間走り、途中でインダス川を渡るのだが、排泄の時間も無い。悪名高きパキスタンの「ギンギラバス」は、料金が安い代わりに空調が無い。昼に近づくにつれて気温はぐんぐん上がり、溜まった尿は汗に変換し、体から流れ落ちる。5月中旬のフンザは長袖のシャツが常時必要で、曇ったり風が強かったりすると更に一枚、上に羽織らなければならないくらいの気温だったのだが、このパキスタン中央部は、この時期で既に日本の真夏よりも暑い。

「あんたはラッキーだぜ。今日はまだ43度だからな。昨日は45度だった」

というのは、ペシャワールの街中で会った、アフガン人少年の証言である。(ペシャワールの写真

やっとの思いでペシャワールに着き、宿を定めたのは良いが、いきなり困った事になった。パキスタンはこの2000年5月下旬の時点で、全国的に新税反対のストライキに突入してしまっていたのだ。だから商店街の店はすべてシャッターを下ろし、店を冷やかして歩く事も出来ぬ有様。ガンダーラ仏の収蔵で名高いペシャワール博物館は営業していたが、最近外国人料金を設定したらしくて、100ルピー(約200円)払わされた。ペシャワールでの宿代と同じ額である。しかも中は改装中らしく、作業するパキ人が掃除をしていた。彼らパキスタン人の国民服をシャルワールカミースという。非常にゆったりしていて通気性にすぐれているのだが、作業にはまるで不向きである。この服を着ているためかどうか、男性の放尿スタイルも女性と変わらず、しゃがみこむ格好になる。

ペシャワールを一泊で離れ、首都のイスラマバード(これも略してイスラマと呼ばれる)へ向かう。パキスタンの首都は、純粋に政治的な町であり、交通上の首都の役割は、ツイン・シティーのラワールピンディーが占める。だから、長距離バスも飛行機も列車もピンディーに着く。旅人は、そこで乗り換えて、首都イスラマに行くわけだ。建都三十年弱の若い町である計画都市イスラマには、安い宿泊施設は殆ど無い。その為、旅人たちはピンディーに集まりがちだ。例外的に安い宿泊施設は、ユースホステルとツーリストキャンプだけ。まだまだ原野がそこらじゅうに残る首都イスラマでは、各国大使館は森の中に構えられているし、なんとマリファナが自生しているのだ。ユースの中でさえ、ビスケットを放置していたら、アリに集られる有様。

インドビザを取るためにイスラマのユースホステルに投宿した私だったが、己の選択を猛烈に後悔し始めるまでに、長い時間はかからなかった。パルティアのコインの入手に成功した日曜バザール「ジュマバザール」以外に見所など無く、食のリズムを少しずつ崩し始めていた私は、強烈な下痢に襲われたのだ。最初は水に当たったのだろう。水や食料を調達できるところが少し離れている一方でユース内に冷水機があるので、そちらを多用するようになっていたのだ。しかし、最終的な回復を見るまでに一ヶ月もかかってしまったのは、結局のところ、連日40度を越す、湿気の多い気候にやられて、夏バテを併発したのだろう。下痢が腹痛を伴い、まるで食欲が湧かなかったのだ。旅人が少ないのも災いした。話し相手がいないのだ。しまいにはホームシックになる始末。

インドビザを取得した私は、必死の思いでピンディーに移る。この街の有名安宿「ポピュラーイン」には旅人が多い。私がそれまでパキスタン国内で会った多くの旅人は、この宿に荷を解いていた。私はここで、下痢が落ち着くまで一休みをしていた。宿の近くには、日本人旅行者が開拓したインターネットカフェが存在し、暇を潰すには、もってこいの場所だった。日本語対応になっている端末も存在していて、日本から届いたメールを読み、返事を送る事も出来た。この時期になってようやく、家族や友人からのメールが届き始めたのだ。最初に妹からのメールを開いたときには、落涙してしまったものだが。

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B下痢、再発す・・・ラホール

下痢が一段落したときには、6月になっていた。イスラマ・ピンディーという、面白みの欠片も無い2都市に、計12日も足止めを喰らっていたのだ。インドとの国境にあるパンジャブ州の州都ラホールへ向かう私の足取りは、その時点では、確かに回復したようだった。しかし、ラホール到着翌日には、私は再び下痢に倒れていた。ラホールという街は、それまでに訪れた街に比べても、格段に暑かった。どれくらい暑いのかというと、ジーパンの太腿のところが、夜になっても乾かないのだ。私はジーパン以外にズボンなど持っていなかったから、はきっぱなしで眠っていたのである。そして、水以外のものは殆ど胃が受け付けないという状態に、逆戻りしていた。

ラホールはパキスタン有数の歴史をもつ大都市だが、体調がこの調子では、市内観光など夢だった。私の頭には、一刻も早くインドを抜けてネパールに行くことしかなかった。そんな私に対して、印巴国境のワガボーダーは残酷だった。パキスタン側のポストからインド側のポストを抜けるまで、1km以上も歩かなければならないのだ。衰弱しきった私にとって、このボーダーは、悪夢以外の何者でもなかった。
ワガボーダーの写真

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